渾沌回廊(2)
重厚なとびらを押しあけて、大正ロマンの部屋を出る。
和風の長い廊下が左右に伸びていた。砂壁と板張りの廊下。襖と障子戸。数日前、リアに案内してもらった、神代家の廊下にそっくりだ。
ただし、こっちのほうが明らかに薄暗くて、寒々しい。さっきまで色ガラスのあざやかな光の中にいたせいで、そう感じるのかもしれないけど……。
『右よ』
「うわっ」
いきなり、頭の中で声がした。
「メ……メイズさん?」
『そうよ。感度良好みたいね……クスクス』
振りむくと、テーブルの前でメイズさんがにこやかに手を振っているのが見えた。口は動いていないのに、声だけはダイレクトに伝わってくる。
『今、私とあなたの魂は、とても強くつながっているわ。あなたが望むなら、視覚的にわかりやすくしてあげることもできるけれど……』
その瞬間、まるであぶり出すみたいに、ぼくの左手首から伸びる銀色のワイヤーがあらわれた。目には見えるけどさわることはできないらしく、まっすぐ壁を貫通して、メイズさんの胸元──ちょうど首にかけた懐中時計のあたりへつながっている。
「うわっ、ちょ、これ、引っかかって切れたりしないの? 落ち着かないんだけど」
『クスクス。平気よ。でも、お気にめさないようだから消しておくわね』
言うと同時に、銀色のワイヤーがぱっと消える。
左手になんの感覚も残っていないのが、かえって変な感じだった。
『さあ、時間がもったいないわ。ひとまず先に進みましょう』
「わ、わかった」
ぼくは、向かって右の廊下を歩きだした。
とにかく暗い。天井には電球のひとつもなく、墨を流したみたいな闇がわだかまっている。光源は、ところどころに配置された障子からもれてくる、豆電球みたいな光だけだ。
大正ロマンの部屋で借りたスリッパがぺたぺたと鳴る、その音がやけに大きく聞こえた。
二十メートルほど進むと曲がり角にぶつかった。道なりに進む。その先には、また同じような廊下が延々と続いている。
かわりばえのしない廊下。曲がり角だけがやたらと多い。
ぼくはみるみる心細くなった。
静かだ。耳が痛くなるほどシンとしている。なのに、なんだか気配を感じるのは気のせいか。障子のやぶれ目から、襖の隙間から、息を殺してこっちをうかがっているような気がするのは……ぼくが、臆病風に吹かれているせいか。
「メイズさん……」
『なあに』
「その……なにか、話しててくれないかな」
『あら。クスクス……それじゃあ、退屈しのぎにお話しましょうか。話題は、オノゴロ童子がどうやって生まれたか──なんてどう?』
「……知ってるの?」
『もちろん。言ったでしょう? 私は、なんでも知っているのよ。……ああ、そこは左ね』
指示されるままに、分岐を左に曲がる。メイズさんの声は続けた。
『
「うん。淡路島のことなんでしょ」
『そう。この国に棲まう神々の始祖である、
「渾沌……」
『渾沌とは無秩序。いっさいの
「む、難しいな。なんとなくは、わかるけど」
『いいのよ。渾沌には、それだけ強い力があるということだけわかっていれば大丈夫。ただし、渾沌の力を正しく利用するというのは、簡単なことではなかったの。神々ですら、一度は失敗してしまったほど』
「そうなの? でも、淡路島は完成したんでしょ」
『島は、ね。失敗作だったのは、その島で生まれた最初の神……
それを聞いて、ぼくはひどく落ち着かない気分になった。
どうしたって、リアの足のことを連想せずにはいられなかったからだ。
『
「うへっ。
『ええ。昔の漁師はね、海で水死体を見つけるといいことがあると信じていたのよ。魚が大漁になって、富み栄えるしるしだと考えていたの。それ自体は、他愛のないジンクスにすぎないのだけれど……その信仰の元になった、
「リアのご先祖さまか」
『そうよ。今から百年と少し前……ジンダイ家の先祖は、この国で渾沌の力をもっとも色濃く残す土地、淡路島へと渡った。彼らはそこで、新しい
なんて現実感のない話だろう。
あの夜からずっと、ぼくは現実感を失ったままでいる。まるで全部が悪い夢みたいだ。いや……今いるここは実際、夢の中らしいんだけど。
『
「そ、それが……オノゴロ童子?」
『そうよ。誰にも望まれずに生まれた、
あれの母親が……人間だって?
ありえないと思う一方で、なんだか納得してしまう自分がいた。
オノゴロ童子につけられた、ぼくの右手のアザ。
あれは、人の手形にそっくりだ。それも、小さな子供の手形に──。
『ところで、ヒバリ』
「う……うん?」
『三秒後に後ろで大きな音がするけれど、驚いて急に走りだしたりしないようにしてちょうだい。転ぶわ』
「は?」
一、二……三。
バリバリバリバリッ!
突然、背後で障子の破れる音がした。
振りかえったぼくが見たのは、障子紙を突き破って伸びた、二本の腕。そして。
枠の木を押し割って現れた、土気色をした女の顔だった。
女は、ねじるように頭を動かすと──白くにごった目で、ぼくを見た。
「う、わ……わあっ」
ぼくは反射的に駆けだした。
ただでさえ暗い廊下を、後ろを気にしながら走ったせいで、ぼくは、行く先が急な下り階段になっていることにまったく気がつかなかった。
勢いよく階段を踏みはずしたぼくは、そのまま一気に下まで転げおちた。
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