逃走(3)
車椅子を支えながら後ろ向きに坂をくだっていくのは、思った以上に重労働だった。
ぼくはさっきから、息があがりっぱなしだ。それでも黙っていることができないのは、どうしようもなく不安なせいだった。
「それで? このあとはどうするの。警察……は、ダメなんだっけ」
「ダメ。地元の駐在さんはうちの息がかかってるし、そうじゃなくても、神さまのお嫁さんにされちゃいますぅ、なんて、まともにとりあってもらえるわけないよ。ただの中学生の家出にしか見えないもん。ちゃんとお
「……だね」
「坂をおりきって、壇ノ市の住宅街に出たら……そのまま
蛍光塗料で光る、スポーツウォッチの針を確認する。リアの想定は、だいぶ甘めな気がするけど……時間的には可能と言えなくもない。
「お金は? 悪いけどぼく、そっちは役に立てないよ」
「大丈夫。さっき数えたら、十二万あった。中一からちょっとずつ貯めてたから」
「逃走資金か」
「んふぅふ。まあね。街に着いたら、カラオケかファミレスで朝まで時間潰して……それから、どうしよっか。私、東京行ってみたいんだよね」
「いいけど、交通費でお金、ほとんどなくなっちゃうよ」
「なくなったら……そのとき考える」
「雑」
ぼくは笑った。
要するに、リアも本気で逃げ切れるなんて思ってはいないのだ。
ぼくには最初からわかっていた。本当に希望や勝算がある人間が、あんなあきらめた目をするはずがない。
それでも、ただ黙って家族の言いなりになってやるのは嫌だ。せめて最後に一度だけ、思いっきり大暴れしてやりたい。理不尽を押しつけてくる家族に、せいぜい迷惑をかけてやりたい。
ぼくにはそんなリアの気持ちが、手にとるようにわかった。だから来たんだ。
リアのほうだって、きっとぼくの気持ちがわかっている。だから「どうして来てくれたの」や「迷惑かけてごめん」じゃなくて、「ありがとう」と言ったんだ。
少なくとも、ぼくはそう信じた。
なんとか
「やばっ。ひばり、隠れて!」
ぼくはあわてて、車椅子を道のわきの
頭を低くして、息を殺していると、真っ赤な乗用車が爆音をあげながら目の前を横切り、坂をのぼっていった。
「……鷹兄さんの車だよ」
「リアのこと、探してたのかな」
「たぶんね。部屋にいないの、気づかれたんだと思う。おばさんには鴻兄さんがついてるのか……それとも……」
もう、誰もついている必要がなくなったのか。
どっちにせよ、ここまで来たら、いまさら引き返すなんて選択肢はありえない。
「なるべく、車が通れないような狭い道選んで行こう。道案内、頼める?」
「わかった、頑張る。まあ……私、こんなだから……地元の道も、限られたところしか通ったことないけど……」
「ぼくのカンで行くよりマシでしょ。急ごう」
林道をくだりきったぼくたちは、植木屋さんの横を抜け、廃校になった小学校の前を横切り、やってるんだかいないんだかわからない雑貨屋のわきを通りすぎた。
住宅街に入る。
細くいりくんだ路地に、昭和の雰囲気を残す街並み。
ただし窓の明かりはまばらで、人の気配はほとんど感じられない。道を歩く人影もなかった。
冷え切った路地に、リアの車椅子がたてるごろごろという音は、やけに大きく響いた。そうやって人の耳を恐れているくせに、街灯と街灯の間にある暗闇は、どうしようもなく心細く感じられる。
小走りに進みながら、ぼくは何度もあたりを見まわした。ひたいに玉の汗を浮かべながら車椅子を転がすリアは、きゅっと口を一文字に結んだままだった。
住宅街を抜ける。
そこは、雑木林を切りひらいて通した、暗い道だった。街灯すらない。ただ、遠くのほうにかすかに見える信号の光だけが、唯一の道しるべだった。
ぼくは息を止め、車椅子を押しながら、闇の中を走った。一刻も早く、この道を抜けだしたかった。
そのとき。
ふ、と信号が見えなくなった。
急に目隠しをされたような気がして、ぼくは思わず立ち止まった。
あたりを見まわす。右も左も真っ暗だ。けれど、月明かりと星明かりのおかげで、木々の輪郭くらいはうっすら見てとることができる。目の前にいるリアの姿も、わかる。
正面だけが、真の闇。
まるで、煮詰めて物体になった
かた、かたかた。
小刻みな金属音が聞こえる。
リアだった。彼女のふるえが車椅子に伝わって、そんな音をたてているのだった。
「リア……?」
からからに乾いたぼくの喉が、かすれた声をもらす。
同時に。
行く手の闇の中に、ぼうっとなにかが浮かび上がった。
まず目についたのは、紫がかった白色に発光する、大きな
おまけに「満月」の下には、人の体がぶら下がっていた。
たぶん子供、しかも裸だ。ただ、妙にのっぺりしていて、男の子なのか女の子なのかもわからない。手も足も妙に長くて、足の先は、地上から五十センチくらいのところでぶらぶら揺れている。全体が「満月」と同じ、紫がかってむらのある白に光っていて、ぼくには、蛍光塗料を塗ったビニールのおもちゃみたいに思えた。
その「子供」には、首から上がなかった。
――いや、違う。そうじゃない。ないのは
アンバランスに大きいけれど、あの「満月」こそがあいつの顔だ。ただしそこには、目も鼻も口もない。
「……いた」
リアがつぶやいた。
見ると、頭をかかえて小さくなっている。全身が、壊れた機械みたいにぶるぶるがたがたとふるえていた。
「いた……ほんとに、いた……! ああ、ごめんなさい……ごめん、なさい……」
「リ……リア……?」
ず。
どしゃ。
前方から、重いものを引きずるような音がした。
あの、頭でっかちの人影が、ゆっくりゆっくり、ぶらぶら手足を揺らしながら、こっちへ近づいてくる。
ず、どしゃ……。
ず、どしゃ……。
これは、あいつの足音だ。
空中に浮かんでいるのに、どうして足音がするのかわからない。けれど、そうとしか考えられなかった。もう、半分くらい距離を詰めてきている。
あそぼ。
声……いや、音がした。
言葉のように聞こえたけれど、人の声とはまったく違っていた。
風の音や金属のこすれる音をサンプリングして組みあわせ、それっぽい響きを再現しただけのような、人の声もどきだった。
「ごっ、ご、ごめんなさい。ごめんなさい……」
あそぼ。あそぼぉ。
「ごめんなさい……っく、ごめんなさい……! ごめんなさい! ごめんなさいごめんなさい! ごめんなさいっ……!!」
リアは泣いていた。顔を両手でおおい、
ぼくはその姿に、自分でも意外なくらいショックを受けた。そのせいで、大きく反応が遅れた。
光る子供は、すぐ目の前まで近づいていた。
満月のような「頭」に見下ろされる。間近で見ると、やけに薄っぺらくて立体感のないやつだった。
「ごめんなさい……
あぁそぉぉぼぉぉぉ。
横なぐりのものすごい力で、車椅子がはね飛ばされた。
乗っていたリアが投げだされ、地面にたたきつけられる。「ぎゅんっ」という、悲鳴とも呼べないような音が、喉からもれた。
ハンドルをもぎ離されたぼくの右手が、じん、としびれて熱を持つ。
光る子供が、ゆっくりとリアのほうへ向きなおる。
動きにあわせて、そいつの周囲にわだかまっている闇のかたまりもいっしょに動くのがわかった。
ず、どしゃ。
引きずるような音をたて、闇が、リアに一歩近づいた。
ひりりとした害意を肌に感じる。なにかする気だ。なにかとても……ひどいことを。
「っ……やめろ!」
ぼくは、光る子供につかみかかろうとした。でも、できなかった。光る子供のずっと手前で、闇のかたまりにはばまれてしまう。
闇は生あたたかく、ぬるぬるしていて、粘土みたいに押したぶんだけ腕が沈んだ。その腕に、闇のなかでうごめいているたくさんのひも状のもの──あるいはミミズの群れみたいなものが、強く巻きついてきた。
ぼくはたまらず悲鳴をあげた。巻きついてきたひもの感触が、人の手でにぎられた感じに似ていたからだ。
ぼくは自由なほうの手で、闇をなぐりつけようとした。
次の瞬間、衝撃が頭を突きぬけた。
天と地がひっくり返る。足裏の感覚がなくなる。
闇の中から
痛みが炸裂し、目の奥で星が散る。そして勢いよく、地面にたたきつけられた。
ぼくはそのまま気を失った。
そして次に気づいたとき、ぼくは、地下の牢獄に監禁されていた。
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