逃走(1)
十二月二十九日。冬休み四日目。
その日、おばあちゃんはカルチャーセンターの書道教室に通っている人たちの集まりとかで、遅くまで帰らないことになっていた。
またお寿司を予約してあげよう、というのを断って、ぼくはバス停前にあるコンビニのおにぎりで夕食を済ませた。ちなみに、壇ノ市にコンビニはその一軒しかない。
夕食後、マンガアプリで今日の無料分を消化していると、リアから電話がかかってきた。
明日のお誘いかな、と思って出てみると、なんだか向こうの空気があわただしい。
『ひ……ひばり……?』
「リア? どうかした?」
『どうしよう、ひばり? ねえ、どうしたらいい……?』
「なに言ってるの。なんかあったの」
『おばさんが……』
「おばさん? それってまさか、地下室の」
『さっき、急に倒れたって、兄さんたちが……どうしよう。比和子おばさん、死んじゃうかもしれない』
地下室の比和子おばさん。オノゴロさまの、お嫁さん。
おばさんが死んだら……。
次は、リアの番だ。
『こんなに早いなんて、思ってなかった。私、まだ高校にも行けてないのに……どうしよう。どうしよう、どうしよう、どうしよう……!』
どうしようどうしようとくり返すリアの声は、電話ごしでもはっきりわかるほど上ずり、ふるえていた。
声を通じて、リアのパニックがこっちに浸食してくる。ぐっとせりあがってきた吐き気を、ぼくは、むりやりのみこんだ。
「落ちついて。リア」
『でもっ……』
「もし本当に、おばさんが危ないんだとしても……リアがそこでパニクってても、どうにもならないよ。救急車は? 呼んだんだよね?」
ひひっ、と、いつかと同じヒステリックな笑い声。
『呼ぶわけないよ。あの人のこと知ってるのは、家族と、お金握らせて口止めしてる一部の人たちだけ。外部のお医者になんて、診せられるわけない』
つまり、適切な処置が行えず、亡くなってしまう可能性が高いというわけだ。
「リアは今、部屋だよね。鴻介さんたちは?」
『鴻兄さんも、鷹兄さんも、さっきから家じゅう駆けまわってる。薬箱はどこだとか、AEDを用意しとけとか――』
「じゃあ……今ならこっそり、
口からそんな言葉が飛びだしたのが、自分でもちょっと意外だった。
その言葉がなにかの背を押してしまった手ごたえを、強く感じる。坂道を転がるように動きだしたそれは、もうぼくには止められなかった。
『逃げる――のは』
ごくり、とのどを鳴らす音。
『……ひとりじゃ、無理』
「ならぼく、今からそっちに行くよ」
『正面からはダメ。裏の林に回って。窓の外に、目印出しておくから』
「了解」
短いやりとりのあと、すぐに電話を切る。
お互い、ムダな言葉を口にしてる場合じゃないとわかっていた。
ぼくは部屋着の上にダウンのジャンパーをひっかけ、手袋とヒートテックの靴下を身につけると、玄関へ走る。
ガラスの引き戸に手をかけたとき、ふと、違和感をおぼえた。
照明の照り返しで鏡のようになったガラス。そこに映った、ぼくの影。
その後ろに、なにかが映っている。ほのかに赤い、人影みたいなものが――。
――気をつけて。ヒバリ。
となりの部屋からもれ聞こえてくるテレビの音みたいにかすかな声で、誰かがそう言った――ような、気がした。
ぎくっとして、あたりを見まわす。
けど、声の主はどこにもいない。ガラスに映った影はぼくのものだけで、玄関はひっそりと静まりかえっていた。
ぼくは強くかぶりを振ると、引き戸を開け、寒空の下へ飛びだした。
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