氷の夜に
未明のアスファルトは氷のように冷えきっていた。
素足を一歩踏みだすたび、足裏の皮が路面に貼りつき、はがれる。
それでも
むしろ一歩ごとに心が浮きたち、脳が多幸感に満たされてゆく。赤
詩歌の少し先を、
チョコレート色の豊かな巻き毛。真っ赤なつば広の帽子に、同色のドレス。
このときを、ずっと待っていた。
あの真っ白な個室を、閉鎖病棟の金網を、どうやって抜け出したのかは思いだせない。それ以前の記憶も、もやがかかったようにあいまいだ。
それでも、自分が今、いるべくしてこの場所にいることには揺るぎのない確信があった。これまでの自分の人生はこの日のためにあったのだと、
だって。
だって、
クスクス……クスクスクスクス……。
メイズさんは詩歌を、
蛍光灯の白い明かりに
逆に詩歌のほうからは、駐車場の様子が手に取るようにわかった。
ここからなら、不意をつくのは簡単だ。
詩歌は手にした金属棒をぎゅっと握った。
もとは、一般病棟で使われているスプーンだったものだ。ただし先端の
そのことはつい今しがた、担当医の体で実証したばかり。
今ごろは彼女の同僚たちが、血眼で詩歌を探していることだろう。ここでじっと息をひそめていたとしても、見つかるのは時間の問題だ。
だとしても、詩歌はいっこうにかまわなかった。
そのときまでには、詩歌のなすべきことは終わっている。他ならぬメイズさんがそう言ったのだから、間違いない。
そう、メイズさんは間違えない。
メイズさんは、いつだって正しい。
「メイズさんの――……言うとおり……」
歌うように詩歌がつぶやくと、白くけぶる吐息がふわりと舞った。
零度近い外気が肺を焼く。けれど、その感覚さえも心地いい。
詩歌に寄りそって立つメイズさんが、金色の懐中時計のフタをぱくんと閉めた。
「時間よ」
砂糖を煮詰めたように甘い声が、耳をくすぐる。
「ここからが、難しいところだけれど……シーカ、あなただったら、うまくやってくれるわね」
詩歌は犬のように何度もうなずいた。
口の端から垂れた唾液が、銀色の糸となって揺れる。
同時に。
駐車場に、一台の車が姿を現した。
闇を切り出したような黒塗りのワゴン車。じゃりじゃりとアスファルトを噛む音をさせながら、それは詩歌がひそむ木立の、ほんの目と鼻の先に停まった。
いささか慌てたようすで、長身の男が降りたつ。
灰色のセーターに、カラスの羽を思わせるブラックレザーのコート。神経質そうな切れ長の目に、銀フレームの眼鏡をかけている。
メイズさんがうなずいた。
「今よ。さあ、行って」
次の瞬間、詩歌の心はあの夏の日に飛んでいた。
灼熱の炎が街を焦がす中、詩歌は戦った。正しいことをした。
もう一度、あれと同じことをすればいいのだ。
奇声とともに木立から飛びだしてきた詩歌の姿に、黒衣の男が一瞬、身を固くするのがわかった。
隙だらけだ。一秒で終わる。
そう思ったのもつかの間。ゆっくり一秒を数え終えても、詩歌はまだ男のもとへたどり着いてすらいなかった。
激しいスポーツで鍛えられ、気力体力ともに充実していた半年前と違い、骨と皮ばかりにやせた体は空気のように頼りなく、もどかしいほどに遅かった。
結果的に――男が体勢を立てなおすほうがわずかに早かった。
男はかろうじて、詩歌がくり出した血みどろの金属棒を両手で受けとめる。
両者はそのままもみ合いになった。しゃにむに食らいついてくる詩歌の体を、男が力いっぱい突きとばすと、詩歌は羽毛のように浮きあがり――次の瞬間には棒を倒すように、頭から落ちた。
落ちた場所には、コンクリートの車止めがあった。
ごきり。
首に衝撃を感じると同時に、なにもわからなくなった。
詩歌をとりまくのは、氷のように冷えきった闇だけだ。
(これで――よかったのよね?)
静寂。
ぶ厚く積もった雪が音を吸いこむように、詩歌の問いは冷たい闇に吸われて消えていく。
クスクス……クスクスクスクス……。
聞こえてくるのは、少女のしのび笑いだけ。だがそれも、今はひどく遠い。
(ねえ。私――間違ってないわよね。ちゃんと、正しいことをしたのよね。ねえ。ねえってば。ねえ、ねえ、ねえ……――!)
だが、西林詩歌の問いに答えが返ることは、二度となかった。
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