氷の夜に

 未明のアスファルトは氷のように冷えきっていた。

 素足を一歩踏みだすたび、足裏の皮が路面に貼りつき、はがれる。

 それでも西林さいりん詩歌しいかが歩調をゆるめることはなかった。

 むしろ一歩ごとに心が浮きたち、脳が多幸感に満たされてゆく。赤けになった両足は、麻痺したように痛みを感じない。


 詩歌の少し先を、あの子・・・が軽やかな足どりで歩いてゆく。

 チョコレート色の豊かな巻き毛。真っ赤なつば広の帽子に、同色のドレス。

 あの子・・・が数メートルごとに振りかえり、つややかなくちびるをきゅっと曲げて手まねきをするたびに、詩歌の心は感動で打ちふるえた。


 このときを、ずっと待っていた。

 あの真っ白な個室を、閉鎖病棟の金網を、どうやって抜け出したのかは思いだせない。それ以前の記憶も、もやがかかったようにあいまいだ。

 それでも、自分が今、いるべくしてこの場所にいることには揺るぎのない確信があった。これまでの自分の人生はこの日のためにあったのだと、一分いちぶすきもなく信じられる。

 だって。

 だって、あの子・・・が――メイズさんがそう言っているんだから。


 クスクス……クスクスクスクス……。


 メイズさんは詩歌を、御簾角みすかど病院の裏手に広がる木立の陰へと導いた。すぐ目の前は、病院の駐車場だ。

 蛍光灯の白い明かりに煌々こうこうと照らされた駐車場からは、闇に沈んだ木立の中を見とおすことはできない。

 逆に詩歌のほうからは、駐車場の様子が手に取るようにわかった。

 ここからなら、不意をつくのは簡単だ。


 詩歌は手にした金属棒をぎゅっと握った。

 もとは、一般病棟で使われているスプーンだったものだ。ただし先端のつぼ・・の部分がねじり切られたうえ、断面が鋭利にみがきあげられている。骨をつらぬくことはできなくても、やわらかい肉を切り裂くには充分だ。

 そのことはつい今しがた、担当医の体で実証したばかり。


 今ごろは彼女の同僚たちが、血眼で詩歌を探していることだろう。ここでじっと息をひそめていたとしても、見つかるのは時間の問題だ。

 だとしても、詩歌はいっこうにかまわなかった。

 そのときまでには、詩歌のなすべきことは終わっている。他ならぬメイズさんがそう言ったのだから、間違いない。

 そう、メイズさんは間違えない。

 メイズさんは、いつだって正しい。


「メイズさんの――……言うとおり……」


 歌うように詩歌がつぶやくと、白くけぶる吐息がふわりと舞った。

 零度近い外気が肺を焼く。けれど、その感覚さえも心地いい。

 詩歌に寄りそって立つメイズさんが、金色の懐中時計のフタをぱくんと閉めた。

「時間よ」

 砂糖を煮詰めたように甘い声が、耳をくすぐる。

「ここからが、難しいところだけれど……シーカ、あなただったら、うまくやってくれるわね」

 詩歌は犬のように何度もうなずいた。

 口の端から垂れた唾液が、銀色の糸となって揺れる。


 同時に。

 駐車場に、一台の車が姿を現した。

 闇を切り出したような黒塗りのワゴン車。じゃりじゃりとアスファルトを噛む音をさせながら、それは詩歌がひそむ木立の、ほんの目と鼻の先に停まった。

 いささか慌てたようすで、長身の男が降りたつ。

 灰色のセーターに、カラスの羽を思わせるブラックレザーのコート。神経質そうな切れ長の目に、銀フレームの眼鏡をかけている。


 メイズさんがうなずいた。

「今よ。さあ、行って」


 次の瞬間、詩歌の心はあの夏の日に飛んでいた。

 灼熱の炎が街を焦がす中、詩歌は戦った。正しいことをした。

 もう一度、あれと同じことをすればいいのだ。


 奇声とともに木立から飛びだしてきた詩歌の姿に、黒衣の男が一瞬、身を固くするのがわかった。

 隙だらけだ。一秒で終わる。

 そう思ったのもつかの間。ゆっくり一秒を数え終えても、詩歌はまだ男のもとへたどり着いてすらいなかった。

 激しいスポーツで鍛えられ、気力体力ともに充実していた半年前と違い、骨と皮ばかりにやせた体は空気のように頼りなく、もどかしいほどに遅かった。


 結果的に――男が体勢を立てなおすほうがわずかに早かった。

 男はかろうじて、詩歌がくり出した血みどろの金属棒を両手で受けとめる。

 両者はそのままもみ合いになった。しゃにむに食らいついてくる詩歌の体を、男が力いっぱい突きとばすと、詩歌は羽毛のように浮きあがり――次の瞬間には棒を倒すように、頭から落ちた。

 落ちた場所には、コンクリートの車止めがあった。


 ごきり。


 首に衝撃を感じると同時に、なにもわからなくなった。

 詩歌をとりまくのは、氷のように冷えきった闇だけだ。


(これで――よかったのよね?)


 静寂。

 ぶ厚く積もった雪が音を吸いこむように、詩歌の問いは冷たい闇に吸われて消えていく。


 クスクス……クスクスクスクス……。


 聞こえてくるのは、少女のしのび笑いだけ。だがそれも、今はひどく遠い。


(ねえ。私――間違ってないわよね。ちゃんと、正しいことをしたのよね。ねえ。ねえってば。ねえ、ねえ、ねえ……――!)


 だが、西林詩歌の問いに答えが返ることは、二度となかった。

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