灯しや電気店
popurinn
第1話 エアコンと亡き妻の遺言
「ごめんくださいよ」
流しで洗い物をしていたら、店のほうで声がした。
水を止めてはあいと返事をしてから、美鈴は布巾で手を拭いた。
店は、一年中コタツが置きっぱなしの八畳の和室の向こうにある。座布団や転がったテレビのリモコンをよけて部屋を横切り、サンダルを引っ掛けて通りに面した店へ出た。
朝日が眩しい。朝日は、ちょうど店の前を通ったトラックのせいで瞬間陰り、ふたたび店の前ではためく「灯しや電気」と書かれた幟に照りつける。
店先で、朝日に背を向けて立っていたのは、この間、喜寿の祝いをしたばかりの前坂のツネおばあちゃんだった。前坂というのは、この小さな温泉街で古くから続く旅館で、ツネおばあちゃんは、とうにおかみを引退して一人で暮らしている。
「悪いねえ、こんな早くから」
「構いません。もう八時やし」
おばあちゃんはゆっくり店の中へ入ってきた。ペタペタと草履を鳴らして敷居をまたぎ、作業台の前の丸椅子に、
「よっこいしょ」
と言いながら座った。
ツネおばあちゃんは、手に小ぶりな電気スタンドを持っている。それを、顔の前で振るようにしながら、しゃべり出した。
「いくらスイッチを押してもな、つかん。ほれ、こんなふうに」
おばあちゃんは、カチカチとスイッチを鳴らす。
電気スタンドを受け取って、美鈴は顔を近づけた。
どうやらコンセント部分に故障があるようだ。
「直せそうです」
「ほうかね?」
「でも、今日、お父さんは工事に出て店にいませんから、直すんは明日になりますけど」
「あんたがおるやないか」
ツネおばあちゃんの声に、迷いはなかった。
思わずこみ上げてきた嬉しさをこらえ、美鈴は作業台の上に、電気スタンドを置き、修理に取り掛かった。
「古いもんやからな。もう、買い換えんといかんかね。でもなあ、もったいないしなあ」
ツネおばあちゃんは一人でしゃべり続ける。
「買ったときは、安もんではなかったんやがな。あんたんとこやないよ、買ったんは。買ったんは、仲町通りの、あの電気屋の名前――」
電気製品を修理に持ってくる客のほとんどは老人で、修理を頼みに来るというよりも、おしゃべりに来ているようなものだと、父は言う。それはわかっていても、客と電気屋という立場で、世間話に花を咲かせるなどという芸当は、美鈴にはできない。
だが、「灯しや電気店」の娘は腕がいいと、客の間で評判になって、ぶっきらぼうな対応でも、ちょこちょこ注文が入るようになった。去年の春から、一年ちょっと。美鈴は離婚して親元に戻り、父親の電気店を手伝っている。
ツネおばあちゃんの電気スタンドは、ビニールコードの部分が傷んでいた。差し込みプラグの交換も必要だ。
壁の棚から工具箱を取り、美鈴は中からニッパーを取り出した。ビニールコードの痛みの部分を、少し切る。
「あんた、女の子やのに、ほんと、うまいもんやなあ」
三十を二つ過ぎた出戻り娘の自分が、女の子と言われるのは、どこかこそばゆい。
「灯しやさんも、あんたがおれば安泰や」
美鈴は曖昧に笑った。
両親は、わたしに店を継がせる気なんか、あらへんのよ。
そう言ったら、おばあちゃんはそりゃ、もったいないなあと言ってくれるだろうか。
プラグに新しいコードを取り付け、パチッと蓋を閉めた。そして、ふたたびスイッチを押してみる。
ぱっと、電気が点き、オレンジ色の光が、ツネおばあちゃんの顔を照らした。
「点いた、点いた」
子どものように喜ぶツネおばあちゃんに、美鈴の口元も、自然とほころんだ。
急流が町の南北を貫き、その川を見下ろすように、山肌に旅館が建ち並んでいる。灯しや電気店のある温泉街は、大きな街から、電車で二時間ほどの山あいにある。
店は五十年ほど昔に、美鈴の祖父が爪に火を灯すようにして貯めた金で開いたものだという。だから、苗字の柿崎でもなく、住所の本町でもなく、灯しや電気店というのかどうかはわからないが、近隣に量販店がないおかげで、今日までなんとか命脈を繋いでいる温泉街唯一の電気店だ。
もし父が、修理の注文をこなせなかったら、とっくに店は潰れていただろう。そして、この町が、小さいながらも温泉街であることも、店にとっては幸いした。旅館からのエアコンや電灯の修理の依頼で、美鈴の父は毎日のように出かけていく。
「幸先がええとは言えんけどな」
酒がすすむと、父は本音を口にする。まだ六十六や、これからやと、普段は威勢がいいが、家電が飛ぶように売れていた時代を知っている父にとっては、修理の仕事だけでやっていくのは心細いようだ。
「だけどもな、俺の代で潰すわけにはいかん」
最後には必ずそう宣言するが、その心の奥には、悠人の存在があると、美鈴にはわかっている。
悠人は美鈴より六つ下の弟で、大学を出てから、大手の家電メーカーでエンジニアとして働いている。父は事あるごとに、悠人は頼りになると言う。
「あれが帰ってくれば、楽ができるんやが。まだまだ他人様のところで修業中で」
お客さん相手に、父がちょっぴり自慢気に言うのを、美鈴は何度聞いたかしれない。
悠人の勤める会社は、この中部圏の大きな町にあり、悠人は会社の寮に入っている。まだ就職して二年目だが、そろそろ仕事にも慣れて、いっぱしの社会人になっていることだろう。
だろうとしか言えないのは、このところ、悠人のメールアドレスが変わってしまい、連絡が取れなくなっているからだ。学生の頃から、頻繁に家に連絡を入れるタイプではなかったから、音沙汰がないことに、父も母も疑問を持っていなようだが、美鈴はちょっと不安だ。
その不安が、むくむくと膨らむ雲のように美鈴の前に現われたのは、つい最近、川で催された花火大会だった。
観光客ばかりでなく、地元住民も大いに盛り上がる花火大会は、同窓会と言えるほど、同級生たちが顔を揃える。美鈴は高校の同級生だった香織に声をかけられた。
「悠人くん、会社、やめたんやって?」
香織の弟の啓介は、悠人の中学時代の友人だ。
「まさか」
「啓介から聞いたんやけど」
ボーンボーンと山に反響する花火の音の中で、美鈴は胸騒ぎを覚え、すぐに悠人に電話をかけた。電話はつながり、悠人と話はできた。だが、悠人は何を訊いても、奥歯にものがはさまったような返事しかしなかった。
はっきりしたのは、それから二日後だ。悠人は電話をかけてきて、親には絶対言うなと美鈴に約束させてから、会社の寮を出て、新しい生き方をしていると早口で言った。
「新しい生き方?」
「そうや」
「なんや、それ」
悠人はもともと機械を触ることが好きだったわけではなく、大学も就職先も、父の強いすすめで決めたのだった。だから、違う道を選んだと聞いても驚かなかったが、といって、悠人が何をしたいのか、美鈴には想像できなかった。仲の悪い姉と弟ではなかったけれど、どことなく肌が合わなくて、美鈴は悠人と本音で話した記憶がない。
父の工具で遊ぶのが好きだった美鈴と、テレビで見るアイドルタレントを真似して踊るのが好きだった悠人。二人は正反対のタイプだった。
今、美鈴は、エアコンの修理を請け負った家に向かいながら、心が晴れないでいる。
最後に悠人と電話で話してから一週間。現在のところ、悠人がどこに住んでいるのか、仕事はどうしたのか、依然わからないままだ。
「姉ちゃんに言っても、わかってくれるとは思えない」
電話を切り間際、そう言った悠人の硬い声が引っかかっている。もし自分が、話上手であったなら、弟の気持ちをうまくほぐして本心を聞き出すことができただろうに。
午前中の温泉街の、どこかうらぶれたような雰囲気がただよう町の中を、美鈴はゆっくりと自転車を漕いでいる。
小さな温泉街だが、近隣の町からの観光客は途絶えることなく、町が作った観光用のホームページも人気があるらしい。
その証拠に、最近、ちょこちょこと川べりに、小ぶりながらも新しいマンションが建つようになった。
美鈴が受けた修理の依頼も、そんなマンションの住人からだった。
約束の時間は、午前十時。両親とともに、朝早くに朝食を済ませた美鈴は、母親に頼まれた家の裏の納屋の、剥がれたトタンの壁に、釘を打ち付けてから家を出た。
土手に出ると、日の光が眩しかった。勢いよく伸びた草が、朝露に濡れている。
自転車の荷台にのせた工具箱が、カタカタと音を立てた。その音とともに、緩やかな上りの道を漕いでいく。
気持ちは徐々に晴れていった。以前勤めていた保険会社へ行くときには、考えられない清々しさだ。
保険会社では、事務だけでなく、客の応対も、営業の助手も経験した。気晴らしは、休みの日の、機械いじり。工具を取り出して、修理の真似事をした。自分だけの何かを作り出したいというのではなかった。それよりも、壊れているものを直すほうがやりがいを感じた。
点かなかった電気が点くようになったり、動かなかったファンが動き出したりするのは、爽快感があった。これで一区切りという気持ちになれるのも、気分がよかった。ごちゃごちゃした配線をすっきりさせたり、古いものを新しいものに取り替えたり。
そんな趣味がこうじて、電気関係の資格を通信教育で取った。結構大変だったが、辛くはなかった。
自分はクリエイティブなタイプじゃないと、美鈴は思う。新しいものを作り出すんじゃなくて、元に戻すことに快感を覚える。
だから、家業の修理の仕事を手伝えるのは、この上ない喜びだ。
といって、それを人に言おうとは思わない。やっぱり、誰しも、直すよりも作り出すほうに重きをおく。現状を改善するより、新しいものを作り出すことを良しとする。
こんなふうな考えだから、結婚も失敗したんだな。
今になってみると、美鈴はそう思う。三年ちょっとの結婚生活に見切りをつけて、夫の昌也のもとを出てきたときは、自分に落ち度などないと思いつめていたが、案外、原因は自分の性分にあったのかもしれない。
結婚生活こそ、二人で新しい何かを作り出すことだろうに、自分はそれが苦手だった。無理して勤めることはないのにと昌也に言われても、仕事をやめようとはしなかったし、二人で始めよう言われたゴルフにも、まったく興味を示さなかった。
どの理由も、些細なことだったかもしれない。そして、子作り云々に話が及んで対立すると、二人の間に深い溝ができた。子どもはもう少し先でいい。そういう美鈴に、昌也ははじめおだやかに、やがて、はっきりと不快な表情を見せるようになったのだった。
土手の道が、土からアスファルトに変わり、緩いスロープにつながって、目的のマンションの前に来た。五階建て。白いタイルで覆われた、洒落たマンションだ。
修理の依頼を寄越したのは、三階の二号室。
美鈴は自転車をマンションの駐車場の隅に止めて、エントランスへ入っていった。
広々としたシックなエントランスの奥に、エレベーターがあった。最上階から降りてくるエレベーターを待っていると、エレベーターの横にあるドアが開いて、ふいに人が躍り出てきた。
「放してよ!」
出てきたのは、若い女と、大柄な男だった。女は目が覚めるような真っ白なワンピース。男はオレンジ色のTシャツに、バミューダパンツを履いている。
二人はかなり年の差があるように見えた。四十歳は越しているだろうか。くしゃくしゃの前髪に、ぱらぱらと白髪がある。
女のほうは、まだ二十代前半か。
「いいかげんにしてよ! 帰るったら、帰るの!」
「そう言うなよ。せっかく来たのにさ」
「あんたの子どもの世話をするために来たんじゃないわよ!」
若い女はそう叫んでから、初めて気づいたように、美鈴を見た。タレ目なのに、きつそうに見える大きな目が印象的だ。
美鈴は一歩下がって、それから更に脇へどいて、二人を見つめた。細い女の体に、まるでそこが何かを主張するように出ている大きな胸に、目が釘付けになる。
「すみません」
男のほうが、小さく美鈴に向けて言った。体は大きいのに、目が小動物のように丸い。
なんか、熊みたい。そう思ったとき、男が、ぐいっと女を抱き寄せた。女は磁石で引き寄せられたみたいに、ぴちゃっと男の腕の中に収まった。
美鈴は、さっと顔をエレベーターに戻した。なんだか、見てはいけないものを見てしまったように思う。
「今日は仕方ないけど」
背中で、男のささやき声がした。
「明日は二人きりになれるから、ね」
女の返事ははっきり聞こえない。美鈴は睨むように、点滅しながら降りてくるエレベーターの数字を見つめる。
こんな二人のことより、これからの仕事の段取りを考えなくては。
電話で聞いたところによると、依頼主のエアコンは、風が出ないという。
原因はなんだろう。配線が間違っているのか。それとも室外機の問題だろうか。
そう思ったとき、エレベーターがやって来て、ドアが開いた。と、同時に、さっきの男が背後から、
「灯しや電気さんでしょ」
と声をあげ、エレベーターに乗り込んできた。
「家永さんですか」
エアコン修理の依頼主の名前を、美鈴は口にした。
相手はこっくりうなずいて、美鈴の胸元の刺繍の文字を見た。
美鈴は今日も、カーキ色のツナギ姿だ。父が弟用に買ってきたツナギで、胸当ての真ん中に、灯しや電気と特注の刺繍がほどこされている。せっかく刺繍まで入れたのに、弟は一度も袖を通さず、新品のまま店の棚の奥にビニール袋に入れて置いてあった。それを美鈴が使っている。
「みっともないところをお見せしちゃって」
照れたように言った相手に、美鈴はぺこんと頭を下げた。
「灯しや電気です」
「さっきの、忘れてください」
美鈴はうなずいた。当たり前だ。覚えてなんかいたくない。
気まずい雰囲気が流れた。深緑色をした鏡面のエレベーターの壁に、うっすらと家永さんの姿が映っている。美鈴より縦には頭二つ分ほど、横には腕二本分ほどデカい影は、できる限りという感じで、箱の隅っこにいる。
チンと音がして、エレベーターは三階に着いた。美鈴は開の釦を押して、家永さんをうながす。相手はお客さんだ。
二号室は廊下の突き当たりの手前だった。
「すぐに来てもらえて助かりましたよ。エアコンが効かないとたまんないから」
部屋の中は、マンションの外観と同じく、シンプルで洒落た感じだった。高い天井と真新しいフローリング。家具は焦茶色で統一され、怪獣の舌みたいな大きな葉っぱの観葉植物と、薄くて、バカがつくほど大きなテレビがアクセントになっている。
ところが、洒落たインテリアは、床に散らばった菓子袋や紙コップで台無しにされていた。高そうなベージュの革のソファには、何枚もの服が積まれてあるし、硝子のテーブルの上には、食べ散らかした宅配ピザが三枚ある。
「すみませんね、今朝まで子どもたちがいたもんだから」
「いえ」
「まだ小さいんですよ、二人とも。五歳と二歳。二人とも男の子」
家永さんはあたふたと、床の菓子袋を拾う。
美鈴は足元の、ものが転がっていない場所を選んで、工具箱を置いた。
「片付けろって言って、聞くような年じゃないんだよなあ」
「どのエアコンですか」
美鈴の返事に、家永さんは拾った紙袋を持ったまま、瞬間、間の抜けた表情になり、それから、
「あれです」
と、窓の横にあるエアコンを指した。
南側の窓の横に、エアコンがあった。緑色のカーテンがかかった窓の横、天井のすぐ下に設置されている。
「リモコンはありますか」
ひとまず作動させてみなくてはならない。
手渡されたリモコンを受け取り、美鈴はスイッチ釦を押した。点いた。エアコンに近づいて、送風口に手を当ててみる。
たしかに風は出ていない。
せっかく拾い集めた菓子袋なのに、家永さんはふたたびそれを床の上に置いて、美鈴の横で、同じように送風口に手をかざした。
「ほらね、やっぱり風が出てこないでしょ。作動スイッチは点灯しているんだから、電気は通ってるはずなんだよなあ」
「購入したのいつですか」
言いながら、美鈴は型番を見るために、エアコンの下に行った。
2010年とある。九年前のものだ。
エアコンの寿命は、約十年と言われている。保証期間も十年で終了だ。保証期間が終了すれば、修理は有料となる。修理代は、数千円から、内容によっては十万円を超える場合もある。どんな業者も買い替えをすすめるだろうが、修理として呼ばれた以上、即座にそれはしたくない。
「修理代、高くっても構いませんから」
美鈴は思わず、家永さんを振り返った。
「買い替えした場合のほうが、安くなる場合がありますが」
「それでもいい。買い替えはしたくないんですよ。あと一年は、なんとか持たせたいんです。実は、死ぬ間際に、妻に言われまして」
「亡くなった奥様に、ですか?」
「ええ。この絵を描いたのは、死んだ妻なんですよ」
あらためて、美鈴は絵を見た。
「エアコンをつけたとき、この絵も飾ったんですけどね。そのとき、十年はエアコンを買い替えないでって、妻はそう言ったんです」
?マークが美鈴の頭に浮かんだが、それ以上追求しないことにした。
「修理に行くとな、いろんな家があってな。なかなかおもしろいもんや」
父の言葉が蘇った。
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