三十路教師 高林郁子の憂鬱 <裏>


白い瓶には乾燥させた葉と花が入っている。ハーブティーの茶葉だ。それをティースプーンで掬うと耐熱ガラス製のポットに入れる。ポットはお湯で一度温められている。そこへ熱湯を注ぐ。

静かに回し入れた熱湯に茶葉が躍り、小さく結ばれていた花弁が開くと同時に爽やかな香りがふわりと鼻孔をくすぐった。清涼感のある香りで、ひと嗅ぎするとついつい二度三度と吸いたくなってしまう。とはいえ本当に良い香りになるのはこの後だ。少しだけ名残惜しく思いながらも、素早く蓋を閉めて香りをポットの中に閉じ込める。その隣に置くのは砂時計だ。時間は3分。少しずつ落ちていく砂粒さえ愛おしく思いながら、私は二つ並べたカップにお湯を注ぎ器を温める。

砂粒が落ち切ったのを見て中身をカップに注ぐ。すると先ほどの清涼感のあった香りがさらに濃く強くなってカップから立ち上り、透明な器は黄金色の液体で満たされていった。


テーブルには黄金色のハーブティーの入ったカップが二つ。その真ん中にクッキーの入ったお皿が一つ。私はまずカップに手を伸ばした。カップの縁に唇を当て、まず香りを楽しむ。如何にも香草といった少し強めの清涼感のある草の香り。だけどそれを口に含む甘い香りに代わって口腔が多幸感で満たされていく。さらにそれを飲み下せば臓腑の中までが多幸感で満たされていく。


次に私はクッキーを手に取る。これにもハーブが練りこまれている。少し固めに焼かれているのだが、それをかみ砕くと練りこまれた香りが解放される。シナモンの裏に隠れたハーブは紅茶に似ているのだが、それよりも風味が強い。それが今飲んでいるハーブティーにとてもよく合う。

熱いお茶を飲み、美味しいクッキーを食べ、心も体も満たされていく。


脱力リラックス


心地よい脱力感。

頭も体も余分な力が抜けていく。

普段は、教師として、大人として、社会人として、外と接するために塗り固めていたメッキがボロボロと剥げ落ちていく。そこから現れるのは私のしんだ。高林郁子という存在を支える芯。それがむき出しになる。

そんな無防備な私を導くように声が聞こえると、その導きのままに私は立ち上がり、寝室へと向かった。


寝室のドアを開けるとむせかえるような花の香り。濃密な香りの正体はアロマキャンドルだ。視界が万色に歪むほどのそれをゆっくりと深く吸う。鼻孔から吸い込んだそれは気管を下り、肺から血中に取り込まれると全身を巡り脳に達した。

強烈な酩酊感。

度数の高い蒸留酒をあおった時に感覚に似ている。だが酒と違い吐き気や頭痛は襲ってこない。思考が鈍り、考える必要がなくなった脳の隙間に膨大な量の幸福感が注ぎ込まれていく。

ただ注ぎ込まれた量があまりに多かったせいか、過負荷のかかった身体がぐらりと揺れる。


その時、誰かが私の手を握った。


「郁子さん」

「あ……うん」


いざなわれるままにベッドに座る。その隣に小柄な影が座った。


「さぁ、今日も耳かきしましょうね」

「はい……おねがいします」


酩酊感に支配された頭は意識がぼんやりしているのだが、声は妙にはっきりと響く。ただそれに従うことがとても自然に感じられた。

そんな声のまま彼の膝に頭をゆだねるとベッドの上で横になる。

彼が持っているのは竹製の耳かきだ。コンビニで売っている一般的なもので、お尻の部分に白いふわふわの梵天がついている。一般的なものなのだけど、でももともとこんな物うちに置いてあっただろうか?

駄目だ。思い出せない。というより考えるのが嫌。今は考えるのが嫌。そういうの今はいいの。


「では、耳の外からやっていきましょう」


声がかけられると耳たぶを触られた。

細い指先が柔らかな耳たぶを優しく摘まむと、ピリリとした痛みが走る。ただの痛みではない。心地よさにも似た気持ちの良い痛みだ。

その刺激に背筋がピクリと動く。


「動くと危ないですよ」

「あぅ、だって……」

「痛かったら止めましょうか?」

「ぅぅ……ごめんなさい。してください」

「はい、よく出来ました。素直な郁子さんは好きですよ」


そう言って頭を撫でられると心の中が安堵に包まれる。次に耳たぶを摘ままれた時には身体が動くことはなかった。

それを見た彼が耳元でもう一度「よく出来ました」とささやくと、耳かきは始まった。



耳かきが最初に触れたのは耳介の一番外側だ。渦巻のように耳の中心へと続いていく耳の溝の入口部分。そこに触れる。

すぅっと、緩い円を描くように耳かきは進む。

外側から内へ、身体の外からより深い部分へ。

耳かきにかかった指の力は強くない。溜まった垢を軽くこそぎ落す。それだけの最低限の力。だが耳介に溜まった汚れを拭うにはそれで充分だった。

溜まった垢は薄い層になっているので、耳かきの匙が軽く進むたびに耳垢が掘り起こされていく。渦巻の部分はまだ半分残っているというのに、匙の部分には灰色がかった耳垢がこんもりと山になっていた。


「前にしてから少し経ったから、だいぶ溜まっていますね」

「……ごめんなさい」

「怒ってませんよ。ちゃんと自分で耳掃除しないようにしてたんですね」

「……うん、いわれたから」

「言いつけをちゃんと守って、郁子さんはえらいですね」


言いつけを守ったのは、そうすることでご褒美がもらえるからだ。

そんな私のことをよく理解しているのか、彼は耳介の溝を綺麗に掃除し終えると用意していたウエットティッシュで丁寧に耳やその周りを拭き取ってくれる。

耳全体を包むように、マッサージするように、丹念に拭き取られた後の耳はじんわりを熱を帯び始めていた。


「外側は綺麗になりましたね」

「はい、きもちよかったです」

「じゃあ、次は耳の中ですね」

「はい、してほしいです」


私がおねだりすると、彼は頷いて続きを始めてくれた。

耳孔に静かに差し込まれた耳かきのさじ。それが最初に狙いを定めたのは穴の浅い部分だ。

外からは見えないその場所。彼からの言いつけ通りまったく触れていなかったその場所には耳垢が堆積していた。

さくり……という音を立てて、耳かきの先端が突き刺さる。


「…………んぅ」


身体は動かなかったものの、小さく声が漏れる。

もちろん痛みがあった訳ではない。その逆だ。

堆積した垢の層に突き刺さった耳かきは、しっかりとその腹の部分で耳垢の塊を捉えると、そのまま力強く垢を外へと掻き出していく。

疼くような痒みのある部分に匙の先端が当たり、引っかきながら外へと抜けていく。くすぐったさの後に残るのは、老廃物が取り除かれたことによる爽快感だ。バリバリと盛大な音を立てて垢の層は破砕され、ズリズリと擦過音を響かせ、最後にはスゥっと抜き出される。


「ほら、ここもこんな溜まっていますね」

「いっぱい……とれてます」


匙いっぱいに盛られた自分の耳垢を見て口元が緩んだ。

自分の汚い部分を晒し、そこを他人に掃除してもらう。耳を触られるのとは別種の快感にゾクゾクとしているのだ。

このゾクゾクが堪らない。

このゾクゾクは、これまで私の人生では経験のしたことのない感覚だ。

とても楽しく、とても心地よい。

それが全身が浸るくらいに浴びせられると、ゾクゾクが私の中心に通っている芯の部分に染みこんでいく。

楽しい。気持ちいい。


ザクリ、ザクリ、と耳の中で破砕音が聞こえた。

そこは耳の浅い場所。最も耳垢が溜まるポイントだ。

ずるずる、ずるずる、と音が聞こえる。

太い指では届かない窪みだが、細い耳かきを使えば触れることが出来る。

耳かきの先端は擽るように耳壁を撫で上げる。

匙の先端にかかる力は皮一枚を、引っかくか、引っかかないか、という絶妙な力加減だ。痛みとは無縁の、心地良さだけで出来た波が何度も押し寄せてくる。


気持ちいい。


快感の波に何度も晒されて、思考力が押し流されていく。


気持ちいい。


一片の痛みのない世界。

だけど――



「あれ? 気持ちよくなかったんですか?」

「そんなことない……です」


もちろん彼にしてもらう行為は最高だ。

だが、私が本当にして欲しいものはもっと先にある。


「じゃあ、なんですか? やって欲しいことがあるなら口に出して言いましょう」

「も、もっとおくのほうもしてください」


おねだりする。


「もっとつよめにしてほしいです」

「はい、よく出来ました」


予定調和の言葉に彼はにこりと微笑むと、先ほどよりも少しだけ深い場所を、先ほどよりも少しだけ強い力で刺激した。


「――――――――っ」


言葉に出来ない感触に、声を出さずに悲鳴を上げる。

それは執拗しつような指使いだった。


垢を砕き、掘り、取り出す。


それだけの動きを繰り返しているだけなのだが、少しずつ力加減を変えているおかげだろう。何通りもの心地良さが耳から脳へと伝わってくる。


崩し、剥ぎ取り、取り出す。


耳の穴の中に入ったさじは耳道を這い、貼りついた耳垢をこそぎ取っていく。

舌で舐めとるかのような粘液質な快感。

その快感に私の中心に通っていた芯がドロドロに溶けていく。

肉も心も全部がドロドロに溶け落ちる。

ああ、これ……すごくいい

もうドロドロだ。

そんな私に彼は言う。


「じゃあ郁子さん」


先ほどまで私の耳の穴の中をかき回していた耳かきは抜き出され、白い梵天が向けられていた。

それはご褒美だ。


「いつものように言いましょうか」

「はい」


楽しい。


「きょうもきもちいいことをしてくれてありがとうございます」


楽しい。楽しい。


「ふみやくんのおかげでとてもとてもたのしいです。ふみやくんのおかげでとてもとてもきもちいいです」


楽しい。楽しい。楽しい。


「ふみやくんのおかげでとてもたのしいです。しゃかいじんになってまいにちまいにちしげきのないたいくつなせいかつだったのが、すごくたのしくなりました。ふみやくんのおかげです。ふみやくんがいないとわたしはだめです。ふみやくんのいうことならなんでもききます。なんでもします。なんでもいってください。ごほうびください。ごほうびほしいです。たくさん、たくさん、たくさん――」


楽しい。楽しい。楽しい。楽しい。楽しい。楽しい。楽しい。楽しい。楽しい。楽しい。楽しい。楽しい。楽しい。楽しい。楽しい。楽しい。楽しい。楽しい。楽しい。楽しい。



塗りつぶされた思考の中で天使のような少年が「はい、よく出来ました」とほほ笑む。

同時に柔らかく白い羽毛の塊が凶悪なほど優しく耳の中へと埋没していった。







いつもの勉強会が終わり、私はいつもの自己嫌悪に陥ってしまった。

何しろ年端もいかぬ男の子に膝枕をさせ、あまつさえ耳かきなんぞをさせてしまったのだ。

教師という立場を笠に着ての行為。見ようによっては鬼畜の所業だ。

もしも、こんなことがバレたら――


あれ?

何か忘れている気が??

違和感を感じる。その何かを思い出そうとした時、文也くんが思い出したかのようにを取り出した。


「はい、郁子さん。これ」


それは一輪の花だった。

紫色の花。花弁が大きく反り、中央には大きく先が膨らんだ雌蕊。その周囲に絡まるように細い雄蕊が茂っている。

どこか毒々しい、だというのに蠱惑的な魅力のある花だった。


「綺麗なお花ね」

「ええ、とってもいい香りがするんです。飾ってみてください」

「ほんとだ。いい香り……」


脳を殴りつけるような暴力的な甘さ。だというのに、その甘さは一度吸ってしまうと病みつきになるような甘い香りだった。

何だろう……すごく楽しい。

ドロドロとしたものが全身に絡みついた光景を幻視する。


「どうかしましたか?」

「ううん、何でもないわ」

「そうですか。じゃあ、郁子。また明日」

「うん、また明日」






『麻薬及び向精神薬取締法』

第十二条

ジアセチルモルヒネ、その塩類又はこれらのいずれかを含有する麻薬(以下「ジアセチルモルヒネ等」という。)は、何人も、輸入し、輸出し、製造し、製剤し、小分けし、譲り渡し、譲り受け、交付し、施用し、所持し、又は廃棄してはならない。ただし、麻薬研究施設の設置者が厚生労働大臣の許可を受けて、譲り渡し、譲り受け、又は廃棄する場合及び麻薬研究者が厚生労働大臣の許可を受けて、研究のため、製造し、製剤し、小分けし、施用し、又は所持する場合は、この限りでない。

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