三十路教師 高林郁子の憂鬱 <中>



「数学ではかけ算のことを乗法、わり算のことを除法っていうの――」


目の前に座る少年に私は言う。

白い肌にサラリと流れる黒髪。すっと通った鼻梁びりょうは嫌味がない。細身なこともあって服装によっては女の子にさえ見える美少年だった。


「計算するときの手順は、①答えの符号を決める、②数を計算する……これだけ気をつけたら大丈夫。+プラスマイナスを間違えないように気をつけてね」

「はい、分かりました」


あどけなく応える声は相変わらず天使のようだ。

文也くんとの個人授業はまだ続いていた。もちろん数学を教えているだけで非合法な行為がある訳ではないのだが、特定の生徒を贔屓するのは何ぶん世間的には問題がある。

こういう事はあまりよろしくない。

よろしくないのだが……


「先生、ここの問題なんですけど」

「ああ、ここね。ここは――」


まだ声変わりが起こっていない少年特有の甘い声音。そんな声に問われると、ついつい応えたくなってしまう。それどころか必要もないのに席を立ちあがって彼の隣に立ち、身をの乗り出すようにして声をかける始末だ

ああ、私は駄目な大人だ。




そうして今日も秘密の授業が終わり立ち上がる。

目の前にあるのは二つのティーカップ。中に注がれている黄金色こがねいろの液体は文也くんのお母さんもおすすめのハーブティーだ。

最初は面倒くさかったのだが、最近は新しくポットも買って朝と晩で2回淹れている。


「気に入っているみたいで良かったです」

「うん、朝は白い瓶ので、晩は赤い瓶のを入れてるの……そう言えば、何て種類のハーブだったかしら?」

「後でお母さんに聞いておきます」

「お願い」

「はい……あっ、そうだ、先生。今日はお母さんがこれを……って」


取り出したのは紙袋。中に入っていたのは――


「クッキー?」

「はい、お母さんが作ってくれたんです」

「手作りなの?……すごいわね」


紙袋の中にはさらに透明なビニールで包装されたクッキー。封止めにはおしゃれなシールが貼られていて、リボンまでついている。完全に売り物のクオリティーだ。


「さっそく頂こうかしら」


思わぬお茶菓子に少しばかり上機嫌になりながら、恒例になっている勉強会後のお茶会が始まる。

クッキーは当たり前のように美味しかった。


「これって……ハーブが入ってる?」

「はい。お母さんが好きなので」

「へぇ、美味しいわね」


シナモンに隠れてほんの僅かに別の香草の香りがする。紅茶のクッキーに近い味。子どもはこういう味って嫌いな印象があるんだけど、文也くんは慣れているのか気にすることなくポリポリとクッキーをかじっていた。


「料理上手なお母さんでうらやましいわ。うちの母親は……別に料理下手じゃないんだけど、クッキーなんて焼いてるの見たことないもの」

「よく言われます。クッキーとかシュークリームを焼く家は珍しいみたいですね」

「シュークリームも焼くんだ。本当にハイクオリティなお母さんね」


そういう意味では実に文也くんのお母さんっぽい。料理が上手でハーブティーを嗜む上品な奥様。しかも美人。何度か会ってはいるのだが、女優さんみたいなお母さんなのだ。


「……そういうの、昔はちょっと憧れたんだけどな」

「?」

「ううん、なんでもないわ。こっちの話」


上品で料理が上手で優しく美人な若奥様。独身、三十路、彼氏なしの私には、何一つかぶってる要素がない。

クッキーをポリポリと齧る。

ああ、美味しいな。

香草の爽やかな香りがささくれ立った心に染みる。これにもリラックスの成分が入ってるのかもしれない。


「美味しいわ」

「お母さんにも言っときますね」

「ええ、伝えておいて」


お茶とクッキーを食べ終えた私は文也くんを見送ろうと立ち上がる。

その時だった。


「先生、ひょっとして痛いんですか?」

「え?」

「いえ、立ち上がった時に腰をトントンしてたから」

「あ、ああ……そうね」


そういえば無意識に腰を触った気がする。最近、仕事が忙しくて座り時間が長くなっている。

そんな私に文也くんはさも名案を思いついたかのように言い放った。


「そうだ。じゃあ、今日は腰をマッサージしますね」


ナ、ナンデスト???


「え……えっと、腰を?」

「はい、この前は肩だから、今日は腰をマッサージしてあげようかと思って……腰が疲れてるんですよね?」

「うん、ちょっとね」

「じゃあ、マッサージしてあげます」

「え、えっと……それは……ね?」

「?」


柔らかな彼の笑みを見ながら、私の脳内は高速回転を始めていた。

さぁ、整理しよう。

私こと高林郁子は公立中学の教師である。大学を卒業して8年。まじめ一筋で生きてきた。犯罪歴はない。もう一度言おう。犯罪歴はない。

これからも犯罪歴がつく予定は……たぶんない。


「じゃ……じゃあ、お願いしようかしら」


マッサージなら前にもしてもらってるし問題ない。問題ないはずよ!

うん、そう、問題ない。

問題ないのだ!


「じゃあ、さっそく――」


文也くんに「マッサージをしてちょうだい」と言おうとした、その時だ。


「――――――――はっ!!!?」


私は恐るべき事実に気が付いた。

前回は肩のマッサージだった。だから椅子に座ったまま、わりと気楽に受けることが出来た。だが今回マッサージする場所は腰である以上、座ったままで受けることは不可能――つまりうつぶせで寝転がる必要があるのだ。


ここで解説しなければならない。私こと高林郁子は独身であるのだが、実は住んでいる部屋は2LDKとけっこう広い。文也くんの一家が住んでいることからわかる通りファミリー物件と呼ばれる類の部屋なのだ。

ちなみにいつも勉強会しているのはリビングダイニングキッチンを兼ねた大部屋で、そこには小さいながらもソファがある。少々窮屈だが寝転がるのに不足はないだろう。

だが我が家は2LDK。こことは別に部屋が二つある。その一つはもちろん寝室だ。むろんそこにはベッドが置いてある。

ベッドが置いてあるのだ!!


「じゃ……じゃあ、ちょっと寝転がらないとダメね」

「そうですね」


言いながら、私の脳裏には悪魔的二つの選択肢が思い浮かんでいた。



【A】貞淑な女である高林郁子は子どもとはいえ男子を寝室に招いたりはしない


【B】私ってば貞淑なんだから大丈夫。変なことなんて起きないし、しないし、これまでの人生だってずっと貞淑一筋で生きて来てるから大丈夫だって。ほら、いけるから、ほら! ほら!! ほらぁっ!!!



「じゃ、じゃあ、こっちの部屋でお願い」

「はい、わかりました」


ああ、私は駄目な大人だ。






「じゃあ、うつ伏せになって寝っ転がってください」

「う、うん」


……………………いや、これは冷静に考えたらヤバいかもしれない。改めて私は己に問いかけた。何しろ教え子を寝室に呼んで腰を揉まそうとしているのだ。犯罪とまでは言わないが、世間的には犯罪扱いされる行為だ。だと言うのに――


「じゃあ、やってくれるかしら」


脳みその意見を無視して口が勝手に言ってしまっていた。

えっと、これ本当に大丈夫なんだろうか??

そんなごく当たり前な不安と疑問が浮かびながらも、私の体はベッドの上でうつ伏せになっている。

さらけ出されたのは無防備な背中だ。


「じゃあ、やりますね。痛かったら言ってください」


無防備な背中に文也くんの指が触れた。

親指の腹の部分だ。それが凝り固まった腰に当たると、ぐいっと力が込められる。

うひっ!? これ???


「痛かったですか?」

「ううん、大丈夫ぅ」


まったく痛くない。それどころかめちゃくちゃ気持ちがいい。背中を押される度にゾクゾクとした感覚が背中から下腹部にかけて駆け巡るのだ。

文也くんの指が背中を押すたびに筋肉の固まった部分を適切に圧がかかり、ゆっくりと解されていく。


ぐぅ~~っ


背中に圧がかかる。細身の文也くんとは思えない力強い指圧だ。

肩を揉んでもらった時にも思ったけど彼は見た目に寄らず力がある。見た目は女の子みたいなくせにこういう所はしっかりと男の子なんだって感じる。


「うっ、そこ……効く」

「ここですか?」


ぐむむぅ~~っ


「うぅ~~っ、そこぉ~~ぉ」


押されているのは背中だっていうのに、脳への刺激が凄い。背骨と筋肉の際の部分。そのわずかな窪みに指が入り込み、ぎゅむ~~っと押し込まれる。すると心地の良い電撃が脊髄を走り抜け脳をかき回すのだ。


「ここも硬いですね」

「うぅ~~っ」


右から左へと背中の上を白く細い指がう。新たに指圧を加えた場所は、そこもまた私の急所だった。筋肉の隆起したラインを、文也くんの指が丹念に揉み解していく。


ぐむ、ぐむ、ぐむっ


先ほどのゆったりとした動きとは違うリズミカルな揉み方だ。


「ちょっと強めにやっていきますね」

「あぅ~~ぅ、おねがいします~ぅ」


身体の力が抜けたせいか言葉が上手く出てこない。生徒の前だっていうのに、私は阿呆みたいな声で文也くんの問いに答えていた。

駄目だ。美味しいクッキーで程よく小腹が満たされてしまったこともあるのだろう。施される按摩の快楽に身体はすっかり屈服してしまい、言語能力が完全に死んでしまっている。


「ちょっとベッドの上まで上がりますの」

「は~い」

「押さえますね」

「うい~~っ、極楽、極楽♪」


もはや教師の威厳もない。冷えた背中の筋肉に新鮮な血液が送り込まれたからだろう。背中がポカポカと温かい。

あ~、駄目だ。意識がぼんやりして判断能力が死んでいく。背中の筋肉を、むぎゅぅとされるのが堪らなく気持ちいい。


むぎゅ~う、ぎゅ~ぅ、むぎゅう~っ


「あ~ぁ、そこそこ」


ぎゅぎゅ~っ、もぎゅ、ぎゅむぅ~


「もうちょい強めで」


ぐむっ、ぐむっ、ぐむ~~っ


「それそれ、じゃあ次は――」












「ああ、またやっちゃった……」


秘密の勉強会を終え、文也くんを見送った玄関で私は両手と両膝をついて崩れ落ちていた。


「いや、確かに可愛い男の子は好きだけどさ……リアルでやったら犯罪なのよ」


別に一線超えた行為があった訳じゃないんだけど、学校とか、保護者とかにバレたらとんでもないことになる。


「ああぁ~~っ、でも…………でもぉ」


土下座するような姿勢で崩れ落ちながら、私はさっきまで文也くんが触ってくれていた腰の感触を思い出す。


「また、やって欲しいなぁ~~」


犯罪行為はしていないものの、犯罪者のような顔をしながら私は「ぐへへ」と笑うのだった。







『刑法』

第百七十六条(強制わいせつ罪)

十三歳以上の者に対し、暴行又は脅迫を用いてわいせつな行為をした者は、六月以上十年以下の懲役に処する。十三歳未満の者に対し、わいせつな行為をした者も、同様とする。

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