三十路教師 高林郁子の憂鬱

バスチアン

三十路教師 高林郁子の憂鬱 <上>


目の前にいる少年は広げた数学のテキストを前に真剣な眼差しを私に向けていた。彼――中杉なかすぎ文也ふみやは中学校に上がったばかりの線の細い少年で、髪を伸ばせば女の子と言われてもあっさり信じてしまうような美少年だ。

そんな美少年に私は幾分上ずった声で言った。


「0 を基準にして数を考えるとき、0 よりも大きい数を正の数といいます。正の数には正の符号プラスを付けて表すことがあります。0 よりも小さい数のことを負の数といい、負の符号 マイナスを付けて表します……ここまでは解るかな?」


教えている内容は中学に入って最初に習う部分。私こと高林たかばやし郁子いくこは都内にある私立中学校で務めている数学教師なのだ。


「はい……多分」


明らかに自信なさげ。そんな彼に私は続けて言う。


「じゃあ、問題ね……次の数を小さい順に並べなさい。

+2 -5 +11 0 +2.5 -3.2 −1/2  +2/3」

「え、えっと……」

「ちょっと解りにくいわよね。じゃあ、こうやって考えましょう。まず線を一本引く。こっちが0でこっちが1――」


文也くんの視線がテキストの上を泳いでいるのを見て、ノートの上に線を一本引く。さらにメモリをつけてそれぞれの数を記入。

いわゆる数直線。見えない数字をこれで“見える化”する。それが理解出来たのか文也くんは「あっ」と声を上げた。

声変わりする前の少年の声。うん、この反応は良い。こういう男子ってなかなかいない……っていうか、実在するんだな、マジで。


「これで合ってますか?」

「うん、OK」

「やった」


小さな拳を固めてガッツポーズ。その仕草がまた愛らしい。そんな彼の顔を見ながら茹りかけた頭を冷やすためにも一度大きく深呼吸をした。

もう一度言う。私こと高林たかばやし郁子いくこは都内にある私立中学校で務めている数学教師だ。教師が生徒に勉強を教える。その行為には何の問題もない。

そう、何の問題もない。

何の問題もない……それが自分の家でなければ!


「先生のおかげで学校の勉強についていけそうです」

「そう、良かったわ」


内心の焦りを押し殺して笑う。

今、文也くんがいるのは教室ではない。私の自宅であるマンションの一室だ。

はっきし言ってヤバい。

中学生の男子が独り暮らしの女性教師の家に上がっているなんて普通の状況じゃない。少なくとも私が大学を卒業して教師になってから8年間。そんなことは一度もなかった。

ヤバい。

めちゃくちゃヤバい。

昭和の時代ならこういうのもアリだったのかもしれないが、令和の世の中でこれはヤバい。バレたら社会的に詰む。

そんな私の内心が表情に滲み出てしまったのか、文也くんは小首をかしげた。


「先生、どうしたんですか?」

「え? な、何でもないわよ」

「そうですか?」


彼が同じマンションの上の階に引っ越して来たのは今年の3月下旬だ。とは言っても、その時は文也くんの事は意識していなかったし、そもそも知らなかった。自分の受け持ちの生徒が住んでいると知ったのは、入学式が終わり、授業が始まった三日後。帰宅のエレベーターの中での出来事だ。

そうして、なんやかんやあって数学が苦手だという文也くんに個人授業をすることになったのが先週の話だ……そう、なんやかんやあったのだ。


「ちょっと疲れてるのかしら、アハハッ……」


乾いた笑いを浮かべる。

もちろんその原因は文也くん……にはない。なんやかんやの流れに任せて未成年の男の子を部屋に招いた私にある。

弁解するけど、もちろん私は彼に変なコトなんてしていない……まぁ、本音を言うと、ちょっとだけ変なコトを想像はしまっていたのだが、この天使のような美少年である、私みたいな三十路女に変なコトをする筈がない。


「ごめんなさい。仕事が終わったのに先生に、僕にまた授業をしてくれてるから……」


しゅんと下を向く。

小柄な少年がそんな仕草をするもんだから、母性がキュンと刺激される。

イカン、こんな天使のような美少年に悲しい顔をさせるなんて教師としての沽券に関わる。


「そ、そうだ。この前もらったハーブティー入れるわね。すごく美味しくて、最近毎日淹れてるのよ」


安物のカップを二つ取り出し空笑い。取り出すのは先日もらったハーブティー。文也くんのお母さんが買いすぎたということでもらった輸入物のハーブティーだ。


「良かった。気に入ってくれたんですね」

「ええ、こういうのって初めてだったんだけど、すっかり気に入っちゃったわ。せっかくだから今度、カップとポットも買おうと思ってるの」

「100円ショップの急須きゅうすでもいいのに」

「せっかくのいい香りのお茶だからね。もったいないもの」

「だったら、今日はこっちのお茶もどうぞ。お母さんが先生にって」

「そうなの、ありがとう」


渡されたのは赤い瓶。その中に入った茶葉をスプーンで掬う。ティーパックでもないお茶なんて最初は面倒くさいと思ったが、慣れると意外と大したことはない。お湯を注いだ途端に爽やかな香りが鼻孔をくすぐった。


「いい香り……」

「お母さんが言うにはリラックス効果のあるお茶らしいですよ」

「そうなのね。助かるわ」


ティーカップを口に含む。

うん、旨い。

薄荷ハッカに似た香りだが、薄荷よりも野趣が強い。リラックス効果があるそうだから、今日はよく眠れるかもしれない。最近、仕事が忙しくて肩がしんどいのだ。


「そうだ。先生。さっきから気になっていたんですけど、ひょっとして肩こってますか?」

「え?」

「何だかさっきから肩を触ってるから、肩が疲れてるのかな……って」

「そうね。肩こり歴はそれなりに長いわよ」


文也くんが言うように、私は慢性的な肩こり持ちだ。社会人になってから、ここ数年さらに悪化している気がする。


「やっぱりそうなんですね。じゃあ……」

「うん?」

「マッサージしていいですか」

「え? マッサージ??」

「はい。肩もみです」


すごくいい笑顔でエライことを言い出した。


「お母さんにもたまにやってあげてるんです」

「へ、へぇ……そうなんだ」


あっ…………コレ、断らないと駄目なヤツだ。


未成年からのボディタッチ。このご時世、ゆるされる行為ではない。

だというのに、私の脳裏には二つの選択肢が浮かんでいた。



【A】責任ある社会人である高林郁子は毅然きぜんとした態度で申し出を断る


【B】ほら、疲れてるしさ、せっかく文也くんが親切で言ってくれてるんだしさ、いいじゃん、いいじゃん、肩もみしてもらおうよ。ほら、さぁ! さぁ!! さぁぁ!!



「そう、じゃあ、ちょっとやってもらおうかしら。もう肩がガチガチで大変なの」

「はい、任せてください!」

「うん、お任せするわ」


ああ……私は駄目な大人だ。

天使のような美少年の微笑みに抗えず、私は椅子に座ったまま彼に背中を預けた。

そうして文也くんは私の後ろに回り込み言う。


「じゃあ、始めますね」

「う……うん、お願い」


背後に立っているので、彼の姿は見えない。


(まぁ、お母さんにもやってあげてるって話だし、メチャクチャ下手くそってことはないんだろうけど……)


人並みに肩こりのする私だが、かと言って普段からマッサージに行ったりはしない。肩回りがしんどい時でも、せいぜいお風呂にゆっくり浸かる程度だ。

緊張している私の肩に小さな親指がピタリと当たる。それにゆっくりと力が加えられていき――


「うひぃっ!?」


思わず声が出た。

何? 今の?? 何???

全然、力が入った様子はない。だっていうのに、親指に、くいっ、と圧が加えられた瞬間、言いようのない感覚が背筋を走り抜けたのだ。


「あっ、ごめんなさい……痛かったですか?」

「う、ううん、全然だいじょうぶよ」

「そうですか?」

「ええ、続けて……」

「はい」


再び親指が、ピタリ、と当たる。


「ぃ――――っ!!」


次は声を我慢することが出来た。

まだ背の伸びきらぬ中学生の手。親指もそんなに大きくない。だって言うのに、その細い指は確実に肩の凝りを捉えていた。

服の上から圧はゆっくり加えられ、その下にある皮膚、さらにその下にある筋肉に到達する。

捉えたソコは凝った肩の筋肉の中でも最も疲労の溜まった部分だ。その急所となった部分を触れた親指が、ぐにぃ、とねる。


「…………んくぅ」


冷えた油粘土が熱で柔らかくなっていくように凝った部分がほぐされていく。


「痛くないですか?」

「大丈夫よ……痛くない」


それどころかメチャクチャ気持ちいい。

抑えている部分がきっちりとツボを突いているのだろう。線の細い文也くんが押しているとは思えないほどに指圧には体重が乗っている。


むにぃ~~ぃぃ


圧し込まれる指圧に捻りが加えられる。


「くぅ~~~~ぅっ」


今度はもう声を我慢することが出来なかった。

コレ、すごく、きもちいい。


むにゅ~~ぅぅ


「ぅぅ……ソコ、すごく効いてるわ」

「ああ、やっぱり。お母さんもいつもここがつらいって言ってるんですよ」

「そ、そうなのね……ぅぅ」

「あと、ここも」

「ぬぉぅ!!」


肩に触れていた親指が背中に回る。それがかぎのように曲がったかと思うと、ぐいっ、肩背部の肉を圧した。


「うひっ!?」


背骨の際から、背中の骨に向けて、ぐりぐり、と指がねじ込まれていく。


「そ、そこ……肩甲骨?」

「あ、はい、多分そうだと思います。お母さんも、よくここを押して欲しいっていうんですよ」

「へぇ、お母さんも……くぅっ」


肩甲骨と思しき骨の裏側に文也くんの指が、ぐいぐい、とめり込んでいく。

うわ、これ、気持ちいいわ。

文也くんの指は細い。そんな彼の指が狭い隙間を縫うようにして肩甲骨の裏に忍び込む。すると分厚い板のように硬くなっていた筋繊維が解されて、ふにゃふにゃ、になっていくのだ。


「もうちょっと深く入るかな?」

「くほぉっ!」


ビリっと電撃が走った。

痛くはない。心地の良い刺激。

指がぐいぐいと押し込まれる度に。硬い筋肉の層がメチメチと音を立てて引き剥がされていくのだ。


「あ~ぁ、それ、すごい効く~~ぅ」


滞っていた血流が回復したのだろう。背中や肩の周りがかっかと熱くなっていく。

あまりにも強烈な快感に教師としても面目も忘れて声を上げた。

もしもこんな姿を学校関係者に見られたら、間違いなく、謹慎、減給、下手をすればクビが飛ぶ。

そんな私に文也くんは更に告げる。


「最後は首の周りも触りますね」


座ったままの姿勢で、背後から文也くんの声が聞こえる。

謹慎、減給、懲戒免職。

そんなネガティブなワードが頭の中を過るのだが、グイグイと押してくる彼の指圧に背中を押され、私は蕩けた頭のまま口にした。


「う…………うん、お願い、するわ」










「ああ……やってしまった」


文也くんを見送った後の玄関で私は崩れ落ちていた。

教え子に肩もみボディタッチさせるという聖職者にあるまじき変態の所業。


「バレたら、社会的に死ぬ」


人権、ポリコレ、LGBT、とにかくうるさい今日この頃。未成年の男の子にアンナコトをやらせたとバレた日には――


「でも、気持ちよかったな……」


血行がよくなってポカポカになった肩に触れながら、文也くんの指の感触を思い出すと、だらしなく唇が開く。


「また、やってくれないかな……」


ドアが開いていたら通報されてもおかしくない色々と駄目な表情で私はドアの向こうに消えていった彼の背中を妄想するのだった。








『東京都青少年の健全な育成に関する条例』

第十八条の三

保護者及び青少年の育成にかかわる者(以下「保護者等」という。)は、異性との交友が相互の豊かな人格のかん養に資することを伝えるため並びに青少年が男女の性の特性に配慮し、安易な性行動により、自己及び他人の尊厳を傷つけ、若しくは心身の健康を損ね、調和の取れた人間形成が阻害され、又は自ら対処できない責任を負うことのないよう、慎重な行動をとることを促すため、青少年に対する啓発及び教育に努めるとともに、これらに反する社会的風潮を改めるように努めなければならない。

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