#7 元の世界


 それから、俺はあの村で――ジュウオウ村で暮らしていた。

 “土産物”を持ち込んだ俺は、最初の来訪時とは違って客人として何事も無く村の皆に受け入れられた。

 しかし暮らすと言っても、家も無ければ金も無い。俺は裸一貫無一文だ。

 

 そんな俺の元に出された助け舟、それはかの盗人に入られた可哀想な村人A。名をクスノキ。

 彼とはあの時編み藁を渡した切りだったが、村に再訪した際に偶々再会した。

 まあ偶々とは言っても、狭い村で村人の数も多くは無い。必然ではあっただろう。

 

 俺の顔を見るや否や、クスノキは俺にこう言った。――「あの上等な土産物の礼をしたい」と。


 そこで、俺はひとまず屋根の有る寝床と仕事を求めた。

 するとクスノキは海辺に立つ使われていないボロ小屋を俺に貸してくれて、漁師であるという彼は仲間内の者たちに話を付けて、いくらかの仕事を回してくれた。

 そのおかげで俺は飢える事無く、この世界で生きている。


 そして、今日も俺は仕事を終えて、僅かな粥と小魚の乾物をかきこんで、太陽が沈み切り辺りが夜の闇に包まれるのを待っている。

 夜になれば、月が出れば、歌が聴こえて来る。

 俺は、それを今か今かと待ち侘びているのだ。


 

 ――さて、何故俺が元の世界へと帰る事無くこんなボロ小屋で細々と暮らしているのか、その話をしよう。


 あの日、俺はナキへとこう願った。――「元の世界に、帰りたいんです」と。

 正確には“元の世界へ帰してください”という意味を含んだその言葉。

 その言葉に対して、彼女はこう答えた。――「元の世界って、どこですか?」と。


 言い方が悪かったのかと、遠慮がちにお願いした所為で言い回しが迂遠になって伝わらなかったのかと思って、俺は改めて言い直した。


「俺を、元の世界へと帰してください」


 しかし、彼女の反応は変わらなかった。

 きょとんと首を傾げて、


「ええっと、地上へ……という事でしょうか? それなら、昨日と同じ様に朝になれば――」

「いや、そうじゃなくって!」


 俺は慌てて頭を振って、彼女の認識を訂正する。

 焦りから、口早になる。

 

「ジュウオウ村の在るあの浜辺ではなくって、元の俺が最初に居た方の浜辺です。そっちへ帰りたいんです。お願いできませんか?」


 しかし、その願いはナキに届かない。

 

「……それは、どう違うんでしょう?」


 ナキはまるで俺の言っている意味が分からないみたいだった。

 これはおかしい。どうも上手く伝わらない。話が噛み合わない。

 そう思い、ひとまず俺は彼女と話を擦り合わせる事にした。


 俺はなるべく彼女にも伝わる様に、丁寧に話していった。

 俺がどこから来たのか、どうやって来たのか。ジュウオウ村の浜辺では何故駄目で、どこに帰りたいのか。

 常識と呼べる様な事から無駄と思えるような事まで、事細かに話していった。


 その結果、彼女の口から発された言葉。


「ごめんなさい。それは、難しいです……」


 俺の願いは却下された。

 しかし、彼女に落ち度は一つも無い。これは俺が全面的に悪い話だった。

 大前提として、視点が違う。

 

 俺は俺自身の主観の元、“彼女が俺を神の超常の力を以ってこの世界へと導いたのだから、元の世界へと帰す事も出来る”と考えていた。

 しかし、違う。

 

 まず最初の“彼女が俺を導いた”という部分、これがまず間違っていた。

 彼女は“元の世界”――つまり、俺の世界の存在すら知らなかった。

 

 そして、彼女が“地上”と表現する浜辺への認識の相違。

 最初、俺は彼女が俺を帰す浜辺を間違えたのだと、そう思っていた。

 しかし、違う。

 この深海の世界からはあのジュウオウ村の浜辺へとしか繋がっていないという。

 あの浜辺こそが、彼女の知る唯一の地上だと言うのだ。


 俺はこの異世界で出会った深海で暮らす歌姫、ナキという女性に神秘性を見出して、神格化してしまっていた。

 あまりのオカルト的体験の数々に、勘違いしていた。その空気感、その特異性に酔っていた。

 

 つまり、“ナキは不思議な力で俺を元の世界へと帰してくれる”という妄想に縋っていただけだった。

 ただ、このあり得ない非現実的状況で、それでも何かに助けを求めようとする俺の逃避的思考であり、俺の思い込みだった。

 彼女は俺の世界を知らない。俺は帰れない。

 

 ――では、俺はどうやってここへ来たのか。

 つい興奮のままに声を荒げてしまう。

 

「じゃあ、俺はどうやってここへ来たんですか!?」

「すみません。それも分かりません。空間さんは昨日、わたしの歌が導いたのだと、そう仰って下さいましたが、やはりわたしにその意志は、認識は全く無いのです」

「でも、その神様――タテシマ様がやったって事は無いの? それこそ、ナキさんの願いを叶える形で」


 何故神様が彼女の願いを叶えた結果、俺がここへとやって来る事に繋がるのか分からない。

 それでも、俺が妄想していた、縋ろうとしていた、超常的な力は確かに存在する。それにまた俺は縋ろうとしていた。

 結局、俺は非現実に理由を付けて現実に落とし込みたい。納得したいだけなのだ。


 彼女は答える。


「無くはない、と思います。でも、タテシマはとても弱っていて、小さい。そんなタテシマ様に、それが可能かどうか――ごめんなさい」


 力になれない事を心底申し訳無さそうに、ナキは謝る。

 俺はちくりと胸が痛んだ。

 縋り過ぎて、期待しすぎて、美しい歌姫に謝らせてしまった。

 

「いや、俺こそ、ごめんなさい……」


 そう俺が謝罪を述べると、ナキは慌てて、

 

「でも、でもですよ。わたしはあなたが帰る手伝いは出来ませんが、それ以外の事なら、それ以外の願いだったら、何だって叶えられると思います。だから――」


 そこから先の言葉は、続かなかった。

 だから、何だろうか。

 ナキは俺の表情を見て、そこで言葉を切ったのだ。

 言っても意味がないと思ったのかもしれないし、消沈する俺を慮ったのかもしれないし、彼女の胸中までは推し量ることは出来なかった。


 

 そんな事が有っても、結局、俺はその日も“お願い”をした。


「――歌を、聴かせて欲しい」


 その願いは、元の世界へは帰れない、迷い人――そんな俺の諦めから来た物だったかもしれない。

 ただ心の慰みとして、彼女の歌を求めた。

 

 結局のところ、ナキもその内に住まう神も、俺の期待に反して大きな願いを叶えてくれる程の力を持ってはいなかった。

 だから、俺が元の世界に帰りたいだとか、例えば失くしたスマートフォンと財布を見つけて欲しいだとか、そんな事を願っても無駄なのだ。

 知らない物、彼女たちにとっての未知に対して願いを叶える超常の力は発揮されない。

 

 そうなると、俺に願いなんて、望みなんて無かった。

 それでも、彼女は俺に願う事を求めた。求められたのだから、それに応える。

 そうして頑張って願いを絞り出そうと思ったのだが、それは自分で思っていたよりもすんなりと口から出て来た。絞り出すまでもなかった。

 

 諦めても、絶望しても、それでもやっぱり、もう一度聴きたかったのだ。

 俺が美しい歌姫に、そしてその歌声に、惹かれていたのは事実だったのだから。


 俺はナキのゆったりとした歌声の音色に身を任せながら、意識を手放した。

 

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