#6 神様

 浜辺で目が覚め、村を見つけ、酷い対応を受けて、シグレと名乗る老婆に出会って、編み藁を貰って、盗人に困っていた人にそれを譲って――、そんなとんちきな話を、彼女はにこにこと時折相槌を打ちながら、時折貰った編み藁を手で握って揉み触りながら聞いてくれた。

 そしてその話の中で、ナキに引っ掛かる物が有った様だった。


「ヨコシマ――ですか?」

「ええ、そういう神様が居るらしいですよ」


 俺がそう相槌を返した後、しばらくの間が有った。

 どうやらナキは言うべきか言うまいかと逡巡している様で、その間口を開いたり閉じたりとしていた。

 そうして少し悩む素振りを見せた後、意を決したように改めて口を開いた。


「それは、聞き間違いなどではないのですか?」

「聞き間違い、ですか? 何と何を?」

「“タテシマ様”と“ヨコシマ様”です」


 それは初めて聞く名だった。

 それが何者かの名を指すのかすら確かではないが、彼女が敬称を付けて呼ぶその口ぶりからも、“タテシマ”とは誰かの名を示している。

 誰か――おそらく、神様。似ている様で違う。タテとヨコ。

 俺は疑問をぶつける。


「タテシマ――、それも神様の名前ですか?」

「はい。わたしの知る神様は――わたしを助けてくれた神様は、そういう名前です。ですから、違う名を聞いて、少し驚いてしまいました」

「助けられたんですか? 神様に」


 彼女は神に助けられた。おそらく、それがこの深海の世界で暮らしている理由であり、原因なのだろう。

 ナキは再び俯き、言い淀む。

 

 気にはなる。気にはなるが、だからと言って無理強いしてまで問いただすべきかと言うと、そうではない気がした。

 どうせ明日には帰るのだから、聞いたところでという話だ。

 だから、俺はもう一言付け加える。

 

「ああ、別に言いたくない事なら、大丈夫ですよ。他の話をしましょうか」


 と、話題の転換を提案する。

 しかし、彼女は頭を振って、

 

「いえ、言いたくない訳では無いんです。あまり楽しいお話でもないので、どうかなと思っただけです。でも、そうですね。空間さんになら、お話しします――」


 と、ぽつりぽつりと、その神様――タテシマ様について話してくれた。


「――わたしは、この海に捨てられた赤子でした。わたしは、沈み行き死を待つだけの存在でした。そこに手を差し伸べてくれたのが神様――タテシマ様でした」


 それが話の入りだった。

 タテシマ様。ヨコシマ様ではなく、タテシマ。そちらが彼女にとっての神様だ。

 その神様が、手を差し伸べてくれた。赤子であったナキの命を助けてくれた。

 

「わたしが出会った時には既に、タテシマ様もまたとても弱っている様でした。わたしと同じ、まるでわたしと同じ捨てられた子の様に、何かに怯える様に、海の底で震えていました。――わたしは、そんなタテシマ様へと手を差し伸べました。タテシマ様もまた、可哀想なわたしに手を差し伸べてくださいました」


 捨てられた可哀想な赤子。たった一人、海の底で震えていた神様。

 そんな寂しく独りぼっちな二人が、出会った。


 そして、ナキは最後をこう締めくくった。


「そして、気づけばわたしはこの海の底に居ました」


 俺は最初、その先の言葉が続くものだと思って、しばらくの間黙って続きを待った。

 しかし、その内気付いた。これで彼女の話は終わりなのだと。

 でもそれだと、話が落ちていないと思って、肝心なところが抜けている気がして、


「待って。それだと、その神様――タテシマ様はどうなったんですか?」


 そう。海の中で赤子のナキとタテシマ様が出会って――それで、どうなった?

 どうなるとナキが“海の底に居た”という結果に繋がるんだ?

 今ここに、海の底に居るのはナキただ一人だけ。なら、ナキの出会ったという神様は、どこに――、


「――ここに」


 ナキは自分の胸にそっと手を当てて、そう答えた。

 ここ。彼女の胸――つまり心臓、もしくは心。

 彼女は言葉を続ける。


「タテシマ様は、わたしの中に居ます。わたしに自身の命を分けて下さったのです」


 自らの命を犠牲にして、自分の身すら厭わずに、赤子を助けた。

 海の底で震えていた独りぼっちの神様から与えられた慈愛。


「あの方のおかげで、わたしは今も生きています」

「……良い神様、だったんですね」

「ええ。とても優しく、慈悲深い方です。そして、わたしの中へと住まわれてからも、わたしの願いを叶えてくれるんです。腹が空けば食事を、幼いわたしが遊びたいと我儘を言えば玩具を。そうやって、わたしの欲しがる物を与えてくれました」


 ここへ来た時に見てきた、数々のガラクタ。物の墓場。

 欠けた湯飲み、ぐちゃぐちゃに丸められた紙くず、古い人形、穴の空いたお手玉、破れた本。

 あれらは全てタテシマ様が幼いナキをあやすために、願いを叶えた結果だったという事。

 命を与え、そしてナキが願うままに、望むままに願いを叶えてくれる、超常の力を持つ神様。


「ああ、なるほど。このお茶や、お菓子も――」

「はい。タテシマ様がいつの間にか用意して下さるんです。私の願いを、叶えてくれるんです」


 “願いを叶える”――同じ言葉を、つい昨日も聞いた。

 

「願い――。もしかして、ナキさんの言っていたあれって――」


 出会った時、“あなたの願いを叶えてあげます”と、彼女はそう言っていた。


「そうです。勿論わたしに出来る事なら、わたしが。でも、出来ない事はタテシマ様にお願いすれば、叶えてくれます」


 ナキは願いを叶えてくれる。それも、神の力という超常的な力によって。

 だから、俺の期待している願いも叶えてくれると、そう思った。確信した。

 何故神が俺の願いまで叶えてくれるのかなんて、その期待の前には些細な問題だった。


「良かった……」


 思わずそんな声が漏れた。


「良かった、ですか?」

「ああ、ごめん。実は、叶えてもらえたいお願いがあって」

「はい。今日の分、ですね。何でも言ってみてください」


 俺は今日一日ずっと温め続けていた“お願い”を口にする。

 

「――元の世界に、帰りたいんです」


 ナキという美しい深海の歌姫との別れに対して後ろ髪を引かれる思いはあるが、それでも元の世界へと戻りたいという気持ちも同時に有った。

 だから、俺は“お願い”をした。

 

 もっとも、その願いを叶えてくれるのはナキではなくその内に存在するタテシマ様という神様らしいのだが、どちらでも良い事だった。

 どちらにしても、当然これで終わるのだと思っていた。

 この夢の様な、幻の様な体験は、これで終わるのだと。

 

 ――しかし、そうはならなかった。

 彼女からの返答は俺の期待していたものとは、思い描いていたものとは違っていた。


 ナキは、こう言ったのだ。


「――ごめんなさい。えっと、元の世界って、どこですか?」


 愕然とした。

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