オレンジとチョコレート

うみべひろた

オレンジとチョコレート

「これ、渡しとくから。あとはご自由に」

 放課後に図書室で本を読んでたら、突然テーブルに紙袋が置かれた。


 ぽすん。

 なんか気の抜けた音とは対照的に。その紙袋の存在感は凄かった。

 PIERRE MARCOLINI。知らない私でも、見ただけで分かる。どう見ても高級そうなチョコレート。


「すっごく、高そう」

 呟いた私に、


「お小遣いの3か月分だよ」

 ふふふ。図書委員の佐内さんが、腕を組んで満足そうな笑みを浮かべる。

 水色のカーディガンがふわふわと揺れる。


 私はずっと苦手だった。

 佐内さんの明るい髪色、水色のカーディガン、時々くれる極細ポッキー、誰にでも気負わずに話しかけるのに私にだけ見せる鋭い視線。

 結局今でもそれは変わらなくて、笑顔だけれど目の奥は全然笑ってない。


「えーっと……これ……どうすればいいんだろう」

 せめてもの抵抗。

 渡しといて、って素直に言われたならば、いくらでも私は川村さんに渡すんだけど。


「だから言ったじゃん。ご自由にだよ」

「ご自由にって、こんな高そうなチョコ」

 お小遣いの3か月分っていくらなんだ。


「私はさ。カノジョさんを無視して好きな人にチョコをあげるほど、空気読めない奴じゃない。それくらいあなたにも分かるでしょ」

 高そうな紙袋ごしに見つめあう私と佐内さん。ぱっちりとした黒目の奥の、きらきらと輝く虹彩。こうやって近くで見れば見るほど、この人って可愛い。


 川村さんはこんな人に好きって言われたんだよね。って思う。


 なのになんで私を選んでくれたんだろう。

 この人を見るたびに、いつも分からなくなる。

 地味で、運動も苦手で、こんな時にもうまく喋れなくて。私がこの人に勝っている部分ってどこ。


 気圧されてしまう私をよそに、佐内さんははっきりと言い切る。

「これは私の気持ちだ。それをどうするのかはカノジョさんに任せるから」


 きっと佐内さんは全部分かってる。

 私がこれを川村さんに渡したくないことも。

 だけど、迷った挙句にやっぱり渡してしまうことも。

 その時に胸の奥がちくちくすることも。


 分かってて私にこれを持たせようとしている。


 でも私はきっと。それを全部飲み込まないといけないんだ。

 だって分かるから。佐内さんの気持ちが。


「今日さ、何の日か知ってるよね?」

「2月14日。そんなの分かってるよ」何故だか声が大きくなってしまう。


「キミはさ。何をあげるのさ、メイちゃんに」

 佐内さんは私の瞳の奥をずっと見つめ続けている。

 いったい何を見たいのか。

 それを受け止められない私は、どうしても目を逸らしてしまう。


 メイちゃん。その呼び方を聞くたび、今でも少しだけ私は怖くなる。

 出会ってまだ1年さえ経っていない私は、川村さんをその名前で呼ぶことができないから。

 佐内さんにしか出来ないその呼び方。そこには昔から仲が良かった二人だけの秘密が隠れているような気がして。


「そんなの、」

 関係無いでしょ。って言おうとして。私には言えなかった。

 そんなわけないよ。

 だって、私がいなければ、きっとこの人は何も考えずに川村さんにチョコを渡せたんだ。

 こんなに鋭い目なんてしなくてよかった。ふたり、優しい目をして笑いながら。


「――これだよ。私があげるのは」

 鞄から取り出した紙袋は100均のやつ。その中のプラスチックパックを取り出す。


 チョコをかけたオレンジ。

 ただそれだけに見えるけれど、友達に一緒に考えてもらった特製レシピなんだ。


「オランジェットか」

 さすがのおしゃれ女子、佐内さんはこのお菓子の名前を知っているようで。

 めんどくさいの作るねキミも。って呆れたように笑った。


「うん。すっごく、めんどくさかった。3日かかったよ」

 香りを立たせるために、グランマルニエに漬け込んだオレンジ。

 だから。そこらへんで売ってるやつとは違うんだ。きっと。


 オレンジの制汗剤。その香りを私はきっと、ずっと忘れない。

 それは化粧なんて全然しない川村さんが纏った唯一の香り。

 私たちの間にあった、ただひとつの香り。


 だから。私が川村さんと過ごした時間。それはずっとオレンジの香りと一緒。

 図書委員のカウンターに、隣どうし座っているとき。

 詩織ちゃん、って笑いかけてくれるとき。

 野菜食べなきゃダメだよ、ってお弁当のサラダを私に全部押し付けてくるとき。


「ひとつだけ教えとくよ。キミよりもずっと長い間、あの子と一緒だった私が」

「別に」いらないよ、って言いたかった。

 でもそんなの関係なく話を続けてくる。

「メイちゃんは、フルーツあんまり好きじゃないんだ」


 それだけ。

 その言葉を私に投げつけて、佐内さんはくるりと窓のほうを向いた。

 ふわりとスカートが翻る。この人、またスカート短くなったなって私は思う。


「そんなこと、別に言わなくても」

 私は立ち上がる。椅子が床とこすれて物凄い音を立てる。


「なんだか、日が長くなったよね。もう5時だ」

 佐内さんは私のほうを見ることさえなく、そんなことを言う。


「何それ」

 言いながら窓の外を見ると、オレンジに染まりはじめた空が見える。

 もぎたてのオレンジよりもずっと深い色だな、なんだかそんなことを思う。


「あの子は適当だからさ。バスケ部が終わった後、いつもわきの下にしかスプレーかけないんだよ」

「そうなんだ」また幼馴染アピール?


「あの子のオレンジな部分と、そうじゃない部分。知ってるでしょあなたも。だけどもう、私にはあの子、オレンジしか見せてくれないんだよ」


 そして佐内さんは言った。

 そんなの、もうあなたしか見れないんだから。

 別に、私の分までどうのこうのなんて言わないけどさ、

 私の気持ちを踏みつぶしてあなたがそこに居ること。いつだって思い出させてやるんだから。


 机の上に出しっぱなしのオランジェット。

 半分がオレンジで、半分がチョコレート。

 紙袋の中からはオレンジの香りしかしないけれど、かじるとチョコレートが深く甘く、オレンジよりも強く口に残るのを私は知ってる。


 きっと、このお菓子の名前を知ってた佐内さんもだ。





「すっごく、寒い」

 川村さんはさっきから、そればかり言っている。

 家までの道を歩きながら、スカートを翻してくるくる回ったり、突然走り出したり。

 見てるだけで落ち着かない気持ちになってくる。


「いや、2月だし寒いけど。そんなに寒いかな? 今日は風もないし」

 さっきまでバスケ部で、散々走り回ってたんじゃないの?


「んー。これはもしかして、手つなぎイベント!」

 前を歩いていた川村さんは、くるりと私のほうを振り返る。

 140cmそこそこの身長だから、背伸びをするみたいにして。カバンの肩ひもを握りしめる私の左手を掴んでくる。


「詩織ちゃんの手の体温!! ……って、冷たっ!! 何これ!!」

「……いや、私の手ですが」

「騙された! こういう時の恋人の手って、暖かくなきゃ何も始まらないよ!」

 私の手を握りしめたまま、ぶんぶんと手を振る川村さん。


「いや、私が冷え性だってこと、半年も前から知ってたよね川村さんは」

「こういう時は、『殿のために暖めておきました』って、それくらいやってほしいのが女心なんだよー! なんで詩織ちゃんには分からないかな!」

「突っ込みどころが多すぎるよ。どうすればいいの……とりあえず、川村さんのことをサルって呼んどけばいいのかな……?」

「鳴かせてみせよう!! くらい言ってよー!!」

「何をどうやって鳴かせればいいのか、私には分からないよ……」

 しかも、鳴かせてみせるのはサルの役目でしょ。


 そんなやり取りをしながら、川村さんは私の手をずっとさすっている。

 全身がぽかぽかした感じになるのは、多分、段々と手が暖まってくるから。


「それはそうと」

「はい」

「今日って何の日か知ってるよね??」

「それ、さっき――」

 図書室で同じこと聞いたよ。って言おうとして、やめる。


 なんだろう。

 絶対に言いたくない。


「さっき?」

 私の手をさすりながら、上目遣いに私を見てくる。

「いや、なんでもないよ」


 へんなの。

 って呟いて、

「まぁいいけど。ほら。今日はバレンタインなんだよ。食べようよ」

 川村さんは、私の持ってる『PIERRE MARCOLINI』なる高級そうな袋を指さして言う。


「詩織ちゃんの持ってるそれ、なんだか、凄いオーラを感じる。おいしそう。すごくおいしそう。本当においしそう。絶対に食べる。今食べる。すぐ食べる」


 いや、このチョコレートは。

「あの、これって、」


「私の本気、見せてあげる」

 言いよどむ私に、何故か突然身体を寄せてくる。


「え、なに――」

 川村さんの腕のやわらかさをおなかに感じる。

 気付くと目の前に川村さんの顔があって、思わず目をつぶる。


 制汗剤のオレンジの香りがくすぐる。私の指先を、頬を、唇を。

 冬の帰り道、川村さんの小さな身体が、やわらかくて暖かくて。


 気付いたら川村さんは私の横に立ってる。


「私、背が小さいからさ。昔から得意だったんだよ。スティール。ね、バスケ部の本気だよ」

 いつの間にか、手元からチョコレートの箱だけを抜き取られていた。「私のだよ、これは。詩織ちゃんには紙袋だけあげる」


 紙袋にはもう重みを感じない。

 それを眺めながら何も言えない私に、

「何を勘違いしたかは知らないけどさ。私からは詩織ちゃんの唇には届かないよ。そんなの知ってるでしょ。身長高すぎなんだ詩織ちゃん」


 にひひひ。

 なんだかいたずらっ子みたいに笑う。


「川村さんの身長が低すぎるんだよ」

 苦し紛れに私は言う。私の身長なんてほとんど標準。

 早く、もっと背を伸ばしてよ。バスケ部なんだから。


 スティール。

 川村さんはそう言った。


 こうやって何もかも、私は川村さんに持っていかれてしまう。

 嫌な記憶も、ずっと感じている重荷も。


「そのチョコレートさ、」

「去年はゴディバだったんだよ。本当に、なんでこんな高そうなやつばっか」

 川村さんは私の言葉を遮って言う。


 四角い箱のリボンをしゅるしゅると解いて。

 はい、って中身を私に差し出してくる。

「食べていいよ。一個だけなら」

「そんなのダメだよ。だってこれ、」

「お菓子はね、二人で食べたほうがおいしいんだよ」


 手を伸ばしたくない私に、

 詩織ちゃん、ほんと、めんどくさいなぁ。

 って、チョコレートを持った右手で私の頬をぐりぐりしてくる。


 何それ。なんでぐりぐり。

 って戸惑っている間に、川村さんはスマートフォンを耳に当てている。


 この人の行動が読めないのはいつものことだけど、今日は特に凄い。

 なんだかジェットコースターみたいだ。


「あー、マリカちゃん、図書委員おつかれー」

「はいはい、お疲れ様」

 佐内さんに電話してたんだ。

 スピーカーから聞こえる佐内さんの呆れたみたいな声。


 だけど私にはわかる。その声、私に向ける声とは全然違うんだ。長い付き合いで自然に育った信頼関係みたいなものを、私は二人の間に感じてしまう。


「ねー、マリカちゃん。このチョコって高かったの? なんか凄い高級っぽいけど」

「高いよ。私の愛情をチョコの値段に全部詰め込んであげたから」

「そうなんだ。その愛情のお値段は……聞かないほうがいいかな」

「お小遣いの3か月分だよ」


 うげ。って声が川村さんの口から漏れる。


「今年のチョコは、私の人生3か月分だよ。どうだ嬉しいだろ」


「そんな高級チョコ、私にはもったいないよ。私はチョコボールですら感動する女なんだから」

 あははは。

 って笑って、川村さんが問う。

「これ、詩織ちゃんと一緒に食べていいよね?」


「は? なんでそんなこと聞くの?」

「詩織ちゃんが無駄に気にするから」


 川村さんの言葉に、突然不機嫌になったような佐内さんの声。

 まぁそりゃそうだ。

 私が佐内さんの人生を、っていうか。これ以上何かを佐内さんから何かを奪うこと。

 そんなの、もうだめだよ。


「勝手にすれば?」

 佐内さんは、はぁぁぁ、って大きなため息をつく。「メイちゃん。なんで私があなたにこんな高級チョコあげたか分かる?」

「んー? ハッピーバレンタインだから」

 何も考えてないみたいな川村さんの無責任発言。


「あなたの、そういうところがさ――」佐内さんはぼそぼそと呟いた。何と言ったのかは聞こえない。


「私は、あなたに幸せになってほしくて。チョコをあげたんだよ。だからさ。それであなたが幸せになるならいいじゃん、勝手にすればいいでしょ」

「うん。ありがとう。……私ね、とても幸せだよ。マリカちゃんとずっと友達でいられて」


 川村さんのその言葉に、佐内さんは答えない。

 ちょっとだけ無言の時間が流れて、


「メイちゃん、今、寒くない?」

「なんで分かったの!!」

 川村さんが突然大声を出すからびっくりする。


「段々冷えてきたからだよ。私、カノジョさんにばらしたからね。あなたは部活の後、わきに制汗剤をかけて終わりだって。体を拭くのも、スプレーも全部適当だって」


「なんでそういうこと言うのさ……なんか本当にダメな小学生みたいじゃん」

「あなたが汗くさかったら、カノジョさんが困ると思ったからだよ。いつでも離れられるように」


 ええええ? 汗くさいかな? 本当に?

 って、ブラウスの内側のにおいをかいでる。


 そんなことをしている間に、佐内さんは一段と声を張り上げる。

「ね、カノジョさん。マルコリーニ食べてもいいけど、ひとつだけ条件ね」

 条件?

「あなたのオランジェット、私の分も残しといて」

 オランジェット? 佐内さんが食べるの?

「別にいいけど…食べたいなら」

「言っとくけど、キミのチョコが食べたいわけじゃないよ。メイちゃんと同じチョコレートを食べたくなっただけだから」


「あんたのためじゃないよ! って。マリカちゃんってそんな絵に描いたようなツンデレキャラだったっけ。いいなーツンデレ」

 にひひひ。って気持ち悪い笑い方をする川村さん。


 好きに言いなさい。って佐内さんは疲れたみたいな声。

「じゃ、後はご勝手にどうぞ。もう切るわ。メイちゃん、風邪ひかないでね。せめてちゃんと身体は拭いて」

 あと、カノジョさん、また明日。


 そして電話は切れた。


「マリカちゃんのお許しも出たしさ。食べようよ」


 川村さんはそう言うけれど。

 あれはお許しでもないし、ツンデレでもないよ。

 私にはわかる。


 箱の中には、色とりどりのハートのチョコレート。

 赤、ピンク、緑。


「なんだか、すごくマリカちゃんっぽいチョコ。詩織ちゃんにはとりあえずこれあげる」

 川村さんは私の口に、勝手に赤いハートを押し込んでくる。


「ちょっと、んぐ、赤って、いちばんバレンタインっぽい色なのに」

「いいから。詩織ちゃんは黙って食べなさい」


 チョコレートはほどなくして、口の中でさらさらと溶けていく。


 口の中から、頭の奥、おなかの奥まで。

 身体じゅうにフランボワーズの香りがしみこんでいく。

 そして、ふわりと漂うお酒の香り。

 後に残るガナッシュの、深くて、ぶわっと広がっていく味。


 そうだ。

 これは私への宣戦布告なのだ。


 あなたの愛情は、私に見せても恥ずかしくないの? って。

 本当に川村さんを全力で思ってるの? って。

 私は遠くからでも、こんなに愛してるんだよ。って。


 そのどこまでも続く深い熱い甘さを、私は全力で飲みこむ。

 それが口の中から消えても、今はまだ甘い。


 分かってるよ。そんなの。

 これは私たちの戦争だ。

 たとえ、あなたに勝てなくたって。私は全力で川村さんを愛してやるんだ。


 私にはそれくらいしか出来ないから。


 多分チョコレートの中のお酒のせい。

 ふわふわした頭の中で、川村さんの顔を正面から見つめる。

 本当にこの人は顔が小さい。


「私はね。川村さん、あなたのことが好き」

「知ってる」

 川村さんは、いつもの笑顔の欠片さえ見せず、私を穏やかな顔で見つめている。


 ずるいよそれ。

 いつも、意味わかんないことばかりやってるのに。

 私のほうがあなたを包み込みたいのに。あなたを愛してあげたいのに。


「好きってさ。全力でだよ。私の全部をかけてだよ」

「それも、知ってる」


 川村さんと目が合ったまま、そらすことができない。

 フランボワーズ色の風に吹かれているみたい。立っていられない。

 チョコレートの熱に溶けそうになる。


「これからもずっと。絶対にだよ」

 カバンの中から手探りで取り出したオランジェット。

「だからさ。これが、私の気持ち」


 フルーツが苦手だって言われたから、

 チョコレートがかかってるほうを。

 川村さんの口の中に差し込む。


「おいしい」

 ばきっと音を立てるチョコレート。


「だけどさ、詩織ちゃん」

「うん」

「オレンジ苦手だからさ。食べてよ、反対側の、オレンジのほう」


「川村さんは変わらないね」

 だから私は、オレンジに歯を立てる。

「好き嫌い、本当はしちゃダメなんだよ」

 こんなに近くにいるから。川村さんの体温を強く感じる。

「でも、今日だけは特別に許してあげる」


 それは弾ける果汁のような。

 金色に輝いた熱。

 口の中に広がるオレンジの香り。

 きっと、チョコレートよりもずっと甘い。


 佐内さん、やっぱりあなたは間違ってるよ。

 だって。

 こんなにするんだよ。オレンジの香り。


 あなたは知らないかもしれないけど。





「これ、思ったよりもおいしいね」

 って、川村さんがオランジェットをどんどん口に運んでいく。

「特製レシピだから。きっと、オレンジそのものよりずっとオレンジなんだよ」


 私たちの記憶は、オレンジの中にある。

 グランマルニエを吸い込んでいくオレンジピールみたいに、どんどん強く、積みあがっていく。


「これからも、ずっとだよ」

 思わず笑った私に、

「詩織ちゃんどうしたの。なんかその笑顔、今まで見た中でいちばんかわいい」

 川村さんがまた頬をぐりぐりしてくる。「好きになっちゃいそうだよ」


 そんなことを言いながら、チョコレートを食べる手は止めない。

「また作ってよ。次はホワイトデーあるし」

 そして言いながら、もう一つかじる。「なんか、忘れられなくなりそう。この味」


「なんで、バレンタインをあげた側がホワイトデーもあげなきゃいけないの……」

「それはさ。詩織ちゃんのほうが上手いからだよ。お菓子作り」


 私も作ったんだけどさ。

 上手く作れなかったんだよ。全然固まらなくて。

 川村さんはそう言って笑う。あはは。


「いいじゃんそれでも」

 私はそれでも、あなたのチョコを食べてみたい。


「ダメだよ。私、まだ誰にもバレンタインあげたことないんだもん。はじめての経験なんだから」

 私の手をぎゅっと握りしめる。相変わらずこの人は体温が高い。

「はじめての記憶って、時間が経っても忘れられないんだよ。私の、あんなにおいしかったでしょって。詩織ちゃんに毎年自慢してやるんだ」


 はじめての記憶。

 そんなの、これから、ふたりで、いくらでも。


 何故だか頭と身体が熱くなって、

 私は川村さんに聞く。


「川村さんは、どうして私を選んでくれたの」


「詩織ちゃん、月イチペースくらいで聞いてくるねそれ」

 めんどくさい女子みたい。

 にひひひ。川村さんがまた気持ち悪い笑い方をする。


 そうだっけ。

 そんなのもう、覚えてない。


「いいじゃん、教えてよ」

 って私は言うけれど、


「あ、やば」

 川村さんは全然違うところを見ていた。「オランジェット、全部食べちゃった」


「なんかそんな気がしてたよ……」

 川村さんに箱ごと渡した時点で、そうなる未来しか見えなかった。

 だけどなんか、もうこれで良い気がする。


「じゃあ川村さん、二人で作ろうか」


 そして佐内さんに渡すのだ。

 これが私たちの気持ちだよって。


「まぁ、二人で作ったなら私の初めてじゃないから……いいかなぁ。」


 ふたりのはじめての、共同作業だよ。

 って言って、川村さんはくるくる回って私を見上げてくる。にひひひ。


 ふわふわとオレンジの香りが漂っている。

 だけどその奥には、チョコレートの深い熱い香りがあることを知っている。


 このオランジェットは、私と川村さんの、二人だけの秘密なんだよ。

 だからごめんね佐内さん。

 あなたにはあげないよ。


 だけどその代わり、もっと甘いのを作ってあげる。

 だから許してね。


「二人でおいしいの作ろうね」

 そして私はもう一度、暖かなオレンジに手を伸ばす。

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