死にたがりの君と何者にもなれない僕
ほらほら
プロローグ
澄み切った冬の夜風が心地良い。
10年来の相棒である黒いボディのベスパ125が、ガタガタと何とも間の抜けたエンジン音を響かせながら法定速度ギリギリで深夜の環八通りを走り抜けていく。
高低差のある板橋の若木トンネル辺りでギアが3速に固定されたまま下がらなくなってしまうのは、もはやベスパの仕様なんじゃないかとさえ思えてくる。
正直、寒空の下、これくらいの速度だとちょっと怖い。
練馬区辺りの、都内にありながら未だに田舎じみている風景を脇に見て、日中は人で賑わう板橋を抜ける。今度は首都高の高架下を通り環状7号線に入ると、十条を過ぎ荒川に至る。鹿浜橋を渡り足立区に入ると、今度はただひたすらに真っ直ぐな道が続く。
この道を行けるところまで行ってやろう。とは毎回思うものの大抵は東武伊勢崎線と交差する陸橋の辺りで飽きて引き返す事になるのだ。
深夜のドライブを日課にするようになってからというもの、大体はこの道が僕と相棒のツーリングコースになっていた。
深夜だというのに街の明かりで薄明るい夜空の下、オレンジ色の街灯に照らされた道をぼんやりと眺めながら走る。
中央分離帯の生垣にビニール袋が絡まっている。通り過ぎる車の風に煽られて、カサカサと音をたてて踊っていた。
まるで自分のようじゃあないかと、少し自虐的に笑ってしまう。
道の真ん中にありながら下らないしがらみに囚われて、何物にもなれずどこにも行けない。そんな自分に。
そしてそれは僕一人に限った事ではない、という事も理解している。
東京という街はそんなしがらみに囚われて、それでも生きていくしか無い連中の吹き溜まりだ。
生活の為、家族の為、将来の為、そんなありふれた理由の為に、路傍のゴミと等しく打ち捨てられた人達の吹き溜まり。
それはある種の幸せともいえるけれど、時にそれが耐えられなくなる時もある。
そう、例えばこんな風に。
今の僕みたいに。
高校生の時、喜び勇んで買った相棒にこんな気持ちで跨るなんて、10年前の僕なら想像もしなかっただろう。
ただ日々を消化していくだけの、無意味で無価値な生活。
人生なんて所詮、そんなものだと言い聞かせながら。
ただ、惰性で生きていく毎日。
……やめよう。
僕は頭をふって、今一度ベスパのアクセルを握る手に力を込める。
今の僕には、人生なんて大層なものをどうこう考える余裕なんてない。
そんなどうでもいい事を頭の片隅においやりながら、僕は深夜のドライブを続けるのだった。
****
それは、ほんの少しの気まぐれだった。
ドライブの途中で立ち寄った、春日町近くの一軒のコンビニエンスストア。
暖かい店内で、缶コーヒーを2本買って店を出たところで、ふと視界に飛び込んできた光景に興味を惹かれて足を止めた。
そこはコンビニの駐車スペースが面する交差点近くの歩道上。
他には人っ子一人居ないそこに、1人の少女が佇んでいた。
どこかの学校の制服を着た少女だ。
ストレートの長い黒髪が妙に印象に残る後ろ姿の少女は、気温も一桁台だというのに上着も羽織らず、ただただぼんやりと何処か遠くを眺めるように佇んでいる。
(何をしているんだ?)
一瞬、僕の頭に浮かんだそんな疑問は、どうでも良い事としてすぐに消えていく。
今時、若者の深夜徘徊くらい大して珍しくもない。
僕の高校時代だって、似たような事をしていた連中はたくさん居た。
下手に声を掛けても、ナンパか痴漢扱いされるのが関の山だ。
そう思った僕はジャケットのポケットに缶コーヒーを突っ込み、その場を後にしようとベスパのキックペダルに足を伸ばす。
が、僕は直前で動きを止める。
(……何をやってんだ、あの子)
僕に気づきもしないままそこに佇んでいた少女。
彼女が未だ赤信号のままの横断歩道に向かってふらりと動き出したのだ。
それも、黄色信号になったことで慌ててスピードを上げたトラックが、猛烈な勢いで交差点に進入しようとしていたところで。
トラックに気づいていないのか、それともわかっていてもどうでもいいのか。少女は足を止めようともしない。
このままでは彼女はトラックに轢かれる、そう思った。
「っ!!」
そう思った時には、僕は横断歩道に駆け出していた。
後ろから、支えを失った相棒の倒れる音がする。だが今だけはそんな事に構っていられなかった。
(間に合え!!)
全速力で駆け寄る僕の視界の中で、トラックも少女の存在に気づいたのか急ブレーキを掛けてスピードを落とし始める。だけどそれでも間に合わない。僕は腰の高さで構えていた右手を精一杯に伸ばしながら地面を蹴る。
そして、彼女がトラックに轢かれるその寸前、僕は彼女を強引に歩道側へと引きずり倒す。
けたたましいクラクションを鳴らしながら過ぎ去ってゆくトラック。
僕は彼女に覆い被さるように倒れたまま、激しく動悸を繰り返す自分の心臓の音を聞いていた。
「何をしている、君は!?」
彼女、いや自分自身の行動に驚いて、僕の口からはそんな声の裏返った言葉しか出てこなかった。
少女はと見れば、僕に押し倒された格好のまま呆けたように僕の顔を見ているだけで何も言わない。
綺麗な子だった。だけどその表情はどこか虚ろで、目の下にうっすらと浮かんだ隈が彼女の日頃の不眠を思わせた。
そんな少女の瞳に吸い込まれそうになりつつ……ふと僕は我に返る。
「ご、ごめん!!」
僕は慌てて彼女の上から離れようとするが、今度は彼女が僕のジャケットの襟を掴んで離さない。
「あの、大丈夫……?」
僕の言葉に彼女は答えず、ただ僕の顔を呆けたように見つめている。
だが不意に……その表情がぐしゃりと歪んだかと思うと、彼女の両目から大粒の涙が溢れ出した。
「あ、あれ……?」
僕の胸の中で泣きじゃくり始めた少女の背中を撫でながら僕は途方にくれたような気持ちになる。
なんでこの子がこんなに泣いているのかわからないし……それ以前にどうしてこんな事をしているのかもわからない。
正直に言って面倒なことに関わってしまったと思う。
そこに善意はないし、下心だってこうなっては萎えてしまう。
だからこれは単なる気まぐれか、女の子に慣れない僕の気の迷い。
……単純に僕はこの子に泣いていて欲しくはなかった。
「コーヒー、飲む?」
だからだろうか。
気づけばそんな言葉が口からついて出ていたのは。
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