ヴァレンシア・ウェストの帰郷
焼魚圭
Chapter 1 日本にて
第1話 日本の景色
部屋中に、いや、敷地全体を満たしそれでもまだ持て余して外へと染み出るチャイムが響いては耳を叩いていく。
安息を得る瞬間でありながらもその人工的に作られた音が苦手でたまらない。
思わず褐色の手で耳を塞いで故郷の音で上塗りを初めてしまう程のものだった。
異邦よりこの世界に学を得に、というよりは時代や社会の流れに従ってここまで来た。分かりやすく纏めるならば親の仕事の後を継ぐためとでも言うべきだろうか。そこに彼女の意志など何ひとつ加えることが許されない。
その一族の娘など初めから一族という血の通った存在の操り人形でしかなかった。
この一族、西の国に住まう人々。あの国ではそれなりの権力を持っているらしいものの彼女の印象としては農作をしてる印象しかなかった。
とはいえ権力を持っている理由はしっかりと理解してはいた。この国では決して表立って言うことの出来ない思想。あるいはこの少女、ヴァレンシア・ウェストならば故郷の信仰のひとつとして堂々と述べること自体は可能かも知れない。
西の国では魔法というものの存在がそこそこ大きかった。大きく発展していないからだろうか、それとも様々な神話や民話への向き合い方の違いだろうか。
日本での学びを通してヴァレンシアはそうした考えの違いとその場の考え方に合わせると言うことを学んでいた。
この国における宗教とはどうにも偉い人に従うこと、表側だけでも素直にいることのよう。 これまでひたすら田舎を駆け回ったり簡単な学びを読書という行為に昇華するだけで仕事には活かしていなかったヴァレンシアにとっては狭苦しすぎる常識だった。
しかしながら大人になればそうした狭苦しい壁が他の同国民よりも分厚く立ちはだかることだろう。今時の魔法使い、特に研究や戦闘で金銭を得ている者や方位を司る魔法使いといった存在には大きくて頑丈な壁が塗り固められるのだ。
何のために生きているのだろう。先の未来を時たま思い描いてはむなしさを覚える少女がそこに立っていた。チャイムが響いて時や規則の縛りから解き放たれて喜ぶ学生たちに対してヴァレンシアには彼らのような自由は与えられない。金銭の縛りはこの国の中ではあまりにも強烈だった。資本主義という考え方をここまで深く恨んだのは初めてのこと。同時にひとつの視点も拾い上げては想いの色を周囲の人とは異なる色に染めていた。
国が豊かになればそれだけ下にいる人物に大きくて重たい枷がかけられてしまうということ。それによって心という翼をおられて鎖に変えられて縛り付けられる。
ヴァレンシアにとってこの国は必要以上に窮屈に感じられた。
そんな国とも一時期とは言えどもさようならと言って故郷の太陽に焼かれて染められた褐色の手を振って国に戻る事が許される時期、夏休みがやってきた。
ヴァレンシアは瞳を閉じ、ここで得た想いを幾つも巡らせていく。
冬は容赦のない寒さで肌を何度も刺してきた。そんな中でクラスメイトたちの語る鍋というこの世の自然の寄せ集めのような料理に大きな幸せを教えてもらった。あの日の雪はちらちらと舞うダイヤモンドの破片のようで美しかった。
冬の恵みは様々であったものの、特にヴァレンシアの目を引いたものはスイセンの花。小さく纏まった姿は考えもなしに歩いていてはすぐにでも見逃してしまうもので、それでありながら今時の人々は考え続けるために目を向けることもなく、どちらの者にも目を向けられない花。
小さな白い花弁がしゃれた開き方をしていて真ん中に黄色のラッパを構えている姿がどこか可愛らしくて虜になってしまっていた。
秋は赤い葉が舞ってやがては絨毯になって、燃え上がるような心の輝きをみた。特に石で囲まれ落ち着いている池の飾りとなって所々で深い紅を散らしている姿には目を向けずにはいられなかった。これが恋という感情なのかと思わず鯉に語りかけてしまう程に大きな心の動きをあの赤い絨毯にまき散らしてしまうほどのものだった。それだけに留まらず、優しい女子生徒が焼き芋や栗を分けてくれた時には貧しさを隠すこともなく何度でも頭を下げてしまったものだった。
春には桜、西の国にいた頃から本などで見ていた。実に有名な日本の象徴とも呼べる花だった。そんな花が咲く中でヴァレンシアを日本へと案内してくれた魔法使いの女性に振る舞われた緑茶は啜る度に季節外れの熱さと大人のように落ち着いた軽い渋みと甘みに生の重みを感じさせながらも和やかな様を思わせてくれる香りを漂わせる。そうした複雑なメロディこそが大人というモノなのだろうか、そう思わされた。
桜が散ったあと、リボンやフリルのようになめらかな質感を視界に与えてくれる乙女椿の淡い桃色に癒やされながら、それとはまた別のフリルの質を纏め上げた牡丹桜という八重咲きのドレスに心を奪われていた。
夏といえば梅雨、梅の雨と書いて「つゆ」と読む。日本人の感性には度々落ち着いた文字の並びでありながらも美しい色彩を感じさせられていた。空から雲のじょうろで水が注がれるその度にアスファルトに染みつくように降りてきた埃っぽい匂いは時として人の見せるような顔に何処か似ていた。鼻を強く突いて来る匂いに思わず顔をしかめてしまうものの、目を細めてしまう程に重々しいそれを何処か愛おしく思っていた。肌にしっとりと纏わり付くように染みついてくる湿り気は汗に混ざって消えてしまう。そうした心地の悪さが居心地の悪いヴァレンシアの心境に重なって息が詰まるあの感覚が何故だか手放すことが出来ないでいた。
そんな湿った季節が終わったかと思った今、去年と同じ蒸すような暑さに故郷とは異なる暑さを教えられていた。刺すような熱を和らげてくれると思って喜んでは大間違い。そこに待っている暑さは湿り気の中に閉じ込められてそこら中に慌ただしく漂っていた。つまるところ直接暑い故郷の夏に慣れていたヴァレンシアにとっては苦しい暑さだった。
湿った気候、季節の貌のひとつが空気中を覆うあの場所に咲き誇る太陽にも似た花が愛おしかったものの、今年は目にかかることが叶わないことをその目で認め、輝きから遠ざかる自身に憑く想いを振り払う。
高校二年生の彼女は国を出てから味わってきた自然の深い味を噛み締めながら駆け抜ける。様々な出来事を思い起こしながら駆け抜け続ける。
入学した次の日にいきなり始められたテスト。そこで得た点数はあまりにも悲惨な結果に終わった。故郷での勉強などいずれの教科に於いても初めの数問でしか役に立たないという有様、特に付け焼き刃の国語に関しては長文問題を読み解くことすら出来ずに疲れ果てて頭を抱えながら保健室へと向かう程の厳しさを見せつけていた。古語に至ってはそのようなものの存在すらその場で知ったほど。このような問題の連続の中、早速彼女はその場にいることに行き場もなければ得体も知れないそんな罪悪感に浸り身体の揺れを感じていた。
そんな素行と後々に示された点数を把握した教師は彼女のための特別補講を設けた。偏差値は元々高くない高校。そこでの授業について行けないとなれば一大事だと感じての措置。その対応そのものには感謝していた、心意気には幾ら頭を下げても足りないほどの想いを抱いていたものの、奪われる時間やこれまでと比べて大幅に削られた自由。そんな憧れの存在が手元を去って行く感覚を、力なき手触りに揺られてヴァレンシアは空のように澄んだ瞳に潤いを、天気雨を溜め込みため息を飲み込みながら補講を受け続けていた。
追いつくまでに一年、昨年の夏休みは学校全体で行われる補講に参加した放課後、太陽のきらめきから身を隠しながら教師の話に目を向け耳を傾け響く声を肌で感じ取りつつどうにか授業という場で先を駆け抜け続ける生徒たちに追いついて見せようと毎日を机に座って駆け抜けていた。
それからの日々、いつもテストの結果に目を曇らせながら人々が金銭という物質に縛られて獲得する自由など見て見ぬふりをして自然を味わい続けていた。
女子たちはそんなヴァレンシアの事など初めから見ない。男たちがありとあらゆる女子生徒に向けるいやらしさ満開の視線にあてられることなく快適な心情で勉学中心の生活の中の癒やしとして当たり前を見つめながら突き進んでいた。
そうしてありふれた娯楽さえ知ることなく駆け抜け続けた足で今もなお駆け抜け続ける。
その足についてくる事の出来る生徒など殆どいないだろう。知識でも運動でも、既に上から数えた方が早いとまで言われ初め、空の魔法で雲に身を隠すように気配を消してみせたとっころで書き留められた存在感は消すことが出来ない。
頑張った結果がこのような形で訪れてしまってはあまりにも報われない。ヴァレンシアにとって望むカタチ、理想の色には手が届きそうにもなくて己の力ある無力と魔法の万能感の否定が身を蝕んでいた。
それでも社会の中では無力を嘆く他ない彼女はひたすら駆け抜けた。これまで思い描いてきた四季を巡り、夏休みの勉強や冬と春に与えられた休みの日にちの少なさ。帰省すら出来ない状況に悩みながら悩んでいる時間さえもったいないと言い切って振り切って。
今では廊下を駆けていた。風紀委員などという役割でしか認識していない女が目にしては叱りつけるほどに爽やかで勢いの付いた走りざま。それでも見た者からすれば日常風景の一欠片にしか映らない、魔法の素質のある一般人からしても褐色肌の外国人と言うだけで運動神経に違和感を抱かないことだろう。この国に住ま経験不足の高校生に言わせれば褐色の外人など狩猟民族。
印象に救われていることにヴァレンシアは未だに気がついていなかった。
そのまま駆け抜け風を足元に感じていく。紺色の靴下と丈の短いスカートは開放感の証といえた。ひらひらと広がるスカートはヴァレンシアにとって邪魔なものであると共に可愛らしく飾り付ける乙女の正装でもあった。
異なる想いが重なり、やがて絡み合ってヴァレンシアの心を満たしていく。
やがてたどり着いたドアを勢い任せに開いて顔を覗かせる。
身を滑り込ませては教師相手に驚愕を提供し、目を見開く様に対して顔をしわくちゃに歪んでしまうほどの笑いを見せて数秒間。ほんわかとした質感を空気に織り交ぜてヴァレンシアはたどたどしい言葉を紡ぎ始める。
「帰りたい、夏休みは、国に。私の住んでた」
この言葉に必要なもの全てがそろっていた。彼女の想いを汲んで担任の若い男性教師は柔らかな笑顔を浮かべながら答えを口にした。
「ああ、里帰りね、いいんじゃないかな。去年なんて一回も帰らなかったし親も心配してるだろう」
メモにそのことを書き留める教師に対してヴァレンシアはわざとらしい笑顔を浮かべながら一礼した後すぐさまその場を立ち去り実際のところを頭の中で描いていた。
まず親は間違いなく心配などしていなかった。彼らは娘のことなど魔法の世界での地位や扱いを保つための存在でしかなかった。ヴァレンシアの自然を好む姿はそうした方針の人物と顔を合わせることが嫌だからこそ形成されたもの。
会いたい人物なら他にいた。
「アンナ、今年は帰るから」
アンナ・ウェスト。ヴァレンシアの妹であり、〈西の魔導士〉としての力を発現しなかったがために留学を許されなかった身のかわいそうな子だった。
ヴァレンシアに言わせれば自然を駆け回ったり農作を行いつつ家の中ではゆったりと読書をしていたいだけの自身よりも知識欲に溢れていて現地の学校でも成績トップの彼女の方が余程留学に向いている。きっと誰の目からもそう映っていただろう。しかし、親は断言していた。アンナは高校には通わせない。農家のまま一生を過ごしてもらおう。
ヴァレンシアは断言した。四年待って妹を高校に留学させて自分の補佐にしたペアでの交流の方が良い立場になれるだろうと。
しかしながらその言葉もまた、あの親の心に響くこともなかった。
「それはダメだろう、〈西の魔導士〉たる者、優秀であり個で全てを対処出来なければ恥を晒してしまう」
そこから父は間を置くことなく言葉を繋ぐ。
「これまで我々が築き上げてきたものを壊したいのか。特にまだ俺は生きている。お父さんとお母さんをマトモな教育も出来ない魔法使いの恥さらしにしたいのか、どうなのか答えろよこの頭足らず」
この毒親、ヴァレンシアは内心に留めた針のような言葉を震わせくすぶらせ、いつまでも滾らせて、明るくなど無い心境を抱きながら日本へと入国していた。
そんなヴァレンシアが親になど愛着を持つはずなどありもしなかった。大切な妹、ただひとりの愛しさに触れるために帰郷を決意した。ただそれだけのことだった。
彼女の心の内は明るくなかったものの妹に会えること、アンナを再び目にすることが出来るという一心で頭がいっぱいだった。
校舎を出て、歩き出す。この国を満たす湿気はこの上なく息苦しくて一年半にも満たない月日は彼女に慣れを与えてなどくれない。このままいつまでも慣れないのではないだろうかとなんとも不穏な雰囲気をまき散らしながら湿り気に散りばめられた激しい熱と日差しに目を細めながら歩き、和菓子屋へと足を運ぶ。
ヴァレンシアを出迎えた人物は和菓子屋に相応しくない姿を持ち、それでもなおここは和菓子屋だと目で主張していた。
紫色の服の上からでも分かるほどに豊満なふたつの膨らみはヴァレンシアの目に引き気味の色をもたらしながらも強く惹き付け、まっすぐ伸びた脚を優雅に動かし歩く姿は少々お堅い雰囲気を醸し出していた。
「いらっしゃいませ、今日は何をお買い求めでいらっしゃるのかしら、滞在者さん」
大きな目に金の髪と空色の瞳を納めながら、柔らかな笑顔を向けて女は続けて言葉を奏であげる。
「ゆっくりと選んでらっしゃい、里帰りなのでしょ」
この女、裏では退魔師をやっている美人はヴァレンシアに薄らとした笑顔を見せる。
「お代はいただかないけども、今夜も手伝ってくれるかしら、退魔師では対処できない世界のこと」
ヴァレンシアは頷く。こうした行動の裏では勉強以上に役に立つことをただただ心の中で綴っていた。
入国当初は疑問を描いていた。不思議で仕方のないことをずっと内で問いかけ続けていた。 どうしてこの国の人々はことある毎に薄っぺらい笑顔で対応するのだろう。想いもしない表情で、分かり切った嘘の笑顔を貼り付けているのだろう。
しかし今なら分かる。この笑顔が異様に心地よいのだ。慣れきってしまえば安心できる、この笑顔は礼儀溢れる民族が接客や接待のために作りあげた形無き仮面と言えた。
そんな思考を纏め上げて昇華して、女が勧める醤油せんべいと大福を受け取って、上に添えられたメモに目を通して薄っぺらな笑顔を浮かべてみせた。
「あらあらかわいい、見とれるわ」
ヴァレンシアは乾いた返事をこぼしながら振り返り店を出る。
こちらは未だに拭い去ることの出来ない疑問。会う人殆どが口をそろえて美人だと褒めること。自国ではそのようなこと一度も無かった。本人も普通の顔だと自覚していた。これもまた日本人特有のうわべの褒め言葉なのだろうか、ヴァレンシアひとりでは答えを出すことが叶わなかった。
そんな疑問を抱えながら、女の頼みを抱えながら明るい空の下を、黒くて濁りのひとつすらその目に映さない道路を歩いて行く。彼女の中で渦巻く疑問を解消してくれるかも知れない、そんな女の処へと足を進めて。たどり着いたのはあるアパートの一室。太陽の照りつけが色褪せた壁をより一層弱り切った色として空色の網膜に焼き付けられる。
所々ひび割れた無機質で薄暗い灰色の狭い階段を上る。薄い階段の一段一段を上る度、その薄っぺらな床に足を乗せる度にこの頼りないものに命を預けているのだろうかと不安を覚えて仕方がなかった。日頃からいかに楽や澄み切った感情を味わい続けている彼女であれども故郷ではまず見かけない簡素の極まりには所々暗い情を抱いてしまう。
階段を上り終えて影が差し込むドアと向かい合い、呼び鈴を鳴らした。
それから数秒と待たせることなくドアは微かに開いて顔を覗かせる女はヴァレンシアが頼りにしている人物とは異なった。
「やあ、こんなチンケな都会になにか御用かな、澄んだ瞳が濁りきってしまうよ」
今顔を覗かせている女は会いたい人物よりもずいぶんと若い。実態は二十七歳とのことだが見た目だけの話、未だに大学に通っていると言われても充分に通用する見た目をしていた。
赤茶色の髪を右側に寄せてひとつに束ねて肩から下げているこの女はどうやら会いたい女の真昼の娘、刹菜と言うらしい。彼女の肩書きは名ばかりのものではないだろうか、全くもって似ていない、ヴァレンシアでさえもそう感じ取っていた。
「どうしたのさ、そのビューティーフェイス歪めきってしまって。老けるには早いんだからほらほら無表情」
そんな事を口にする刹菜はにやけ全開。むしろその表情の方が先に老いてしまいそうだと感じさせる。
「美人かそんなに。思われてた、いつも普通の顔って。私の国では」
たどたどしい日本語、祖国と異なり上手く言葉にして伝えられないことがあまりにももどかしくてそれがまた顔にシワを寄せてしまう。
刹菜はそんな表情の変化を見て取って褐色の手をつかんで家に引き入れてその顔を揉みながら柔らかさに心をなじませて述べる。
「この国に、和国に住まう私たちからすれば外の国の顔立ちなんて何種類か見分けられるか程度でさ、キミが美しく見えて仕方ないんだ。つまり他人装ってスパイやれるんじゃないかな」
何処まで本気なのだろうか。真昼には冗談を多用するためあまり本気で受け取りすぎないようにと伝えられていたものの、この少女にも見える女はニヤけ面という名のポーカーフェイスで心を隠し通しているがために真意を見抜く事ができない、想いが霧隠れしてしまっていた。
「そっか」
それだけの言葉を返すことで精一杯だった。これ以上は踏み込む気が起きなかった。
「やれやれだなあ、で、なにかな。母さんかな、私に用がある変わり者なんてそうそういやしないだろうし」
自覚はあるようだった。そう、今会いたい女はこの子の母親。
「母さんは多分夕方に帰ってくると思う」
つまるところ、そこまでは目の前の頼り切れない女と会話を繋いで退屈をしのぐことしか出来ないということだった。
「帰って自分のやりたいことでもやればいい、私が言えば母さんがヴァレちゃんの家まで行ってくれるはずさ」
この女は何にも期待していないのだろうか。見るからに聞くからに話すことは好きなはずなのにすぐさま離そうとする。そんな姿に目を耳を自然と引きつけられてしまうのは気のせいだろうか。
「私のことなんてみんな置いてくだけ、ひとりだけ五十歩も百歩も遅れてるんだ」
「別の例えのこと。五十歩と百歩」
「そうかな、私無知だから故事とか諺とか分かんないな」
それは見事に分かっている人の発言だった。
慣れてくれば愉快な人物。そんな刹菜のことを誰も構わないことに朧気ながらに違和感を覚えていた。上澄みの感情は表情を塗り替えるものの、きっと日本人の彼女には軽い変化など伝わりづらいだろう、そう思っていたその時だった。
「どうしたんだ、そんな表情して。もしかして私のこと不快だったかな、ならアナタはマトモですご乱し、ご安心下さい」
一瞬聞こえかけた言葉をつかむことが出来なかった、そのために別の言葉を選んで答えを折り重ねていく。
「不快じゃない。それと私の表情、分かる」
「外人って表情大きく変えるから分かりやすくてね」
つまるところ目に見えているということだった。
「ネコを思わせる動きの俊敏さと揺れに揺れて感情は分かるものなのにどこにいるのだろうか何処か把握させないような心の動き」
果たして褒められているものだろうか。妙な言葉の色が上澄みに積もり分かることさえ出来ない。ニヤけというポーカーフェイスは他の気品ある微笑みたちとは一線を画していた。
「ヴァレンシアのそんなところが私の気に入りだからいつでも明るく、なんなら夜空が一生来ない昼だけの世界もいいな」
しかしそれでも刹菜の気に入りなのだと耳にして思わず頬が緩んでしまう。愉快なさまで語る彼女の声の芯に本音が刻み込まれているのが聞こえたから。
気がつけばいつになくゆったりと寛いでいた。くつろぎはモノの見方までも変えてしまうのだろうか。この薄暗いアパートの影が差し込む一室、半端に閉じられたカーテンの隙間からヴェールのように差し込む柔らかな光が異様に明るく感じられた。
「さて、どうやって時を潰してみせようか。時間なんて今は私たちふたりの手のひらの上にあるものだからなあ」
なんて傲慢な言の葉だろう。時間の全てを支配したつもりでいること、真に受けてはそう感じられてしまう台詞、そう、あくまでも刹那の言葉は刹那に茂る冗談色の葉、この場を楽しむための台詞だった。
「お茶請けの番組さえ役目を放棄なさるこの時間に、そうだね、手土産は」
「買った、もう和菓子屋さんで、近くの」
準備は既に済んでいる。ヴァレンシアにとって故郷の中で最も大切な妹のためのこと、手始めに行われるのは至極自然なことだった。
「そうかあ、それはそれは。じゃあさ、鯉でも見に行こう」
海の外から来た人物たち、高さが全くもって無い深さだけで作りあげられた塀、というよりも美しき青で埋め尽くされた堀を金の力によって飛び越えて日本にまで来た人々。彼らにとっては石に囲まれ木々とそこから透けては差し込む日差しに彩られては豪華絢爛な絹で編まれた着物を思わせる鯉が泳ぐ池という雅な風景にそれらしさを感じることも多いだろう。
「で、見てきた風景を妹に語るんだろう。何処の国の生まれでもやることは案外変わりなくて愛しいな」
人類というモノから外れた視点を持っているような異色の語り口も全ては冗談の一環なのだろうか。きっとそうなのだろう。優しさ溢れる提案、夕方までの暇つぶしを受け入れるべくヴァレンシアはドアを開いた。
日本にはドアや帳をこちら側と向こう側、内と外を隔て、人物や妖しきモノどもの類いと己を引き離す境界線として見るという考え方があるのだそう。そう言ったことを信じていないと述べる人物でさえも心の何処か、奥の方の片隅ではドアを閉じて鍵をかけてしまえば根拠のない安心感を得るのだという。
ヴァレンシアにはその心境が分からなかった。どう足掻いても入って来るかも知れないという恐怖に怯えながら過ごす夜、村の外から襲いかかってくる人々の生きるために必死に足掻きながら貧しさから抜け出すための蛮行の荒々しさを忘れない。あれは人という同族がもたらした災害のようなものだった。
そんな息が詰まってしまいそうな思い出を振り払って歩き続ける。苦しさに包まれていてはせっかくの景色を楽しむことすら出来ない。心を落ち着けて一、二、三と深呼吸を繰り返す。少しの息苦しさ、ムシムシとした重い空気を肺に入れては勢いよく吐き出して微かに残る澱から目を背け、辺りに目を向ける。住宅が並ぶ道路、かつては歩道と車道の間に木が植えてあったのだろう。今では痕跡となる土が敷き詰められたレンガ風のコンクリートブロックから不自然な間隔で顔を覗かせるだけだった。
そんな些細な違いで時代の流れを感じさせてくれる日本という国がいかに平和なことかヴァレンシアは目前のくっきりとした感情から強く思い知らされていた。
やがてたどり着いたそこは駅。大きいとも小さいともつかせない姿が駅としか言いようのない塩梅であった。階段を上って通り過ぎてもいいのだろう。しかしながら利用するわけでもないにもかかわらず踏み入るのはどこか後ろめたく感じられた。故にすぐ側に作られた地下の道を通ってくぐり抜ける形で線路の向こう側へ、更に歩いては一瞬だけ後ろを振り返って高校の校舎の姿を目にしてすぐさま嫌な顔をして刹菜に目を向ける。
「学校なんか見たくないって顔だね。ああ、私も見たくなんかないさ。あそこ偏差値高いらしいよいやだいやだ見せつけないで」
刹菜も同じ意見、ふたりの視点に異見はあれども結局は同じことだった。
学校の偏差値など把握していないヴァレンシアにとってはただの学校、嫌な学びを押しつけてくる国に尻尾を振って生かしていただいている施設でしかなかった。
歩き続けて通り過ぎるアパートやマンション、目の端から端へと度々流れていくコンビニの姿。ヴァレンシアにとってコンビニなど利用するにはあまりにも金のかかる場所だった。そんな高級に思える店が幾つも見つめては日本がいかに飾られた豊かさと貧しき事実とその理由に染められた国なのか、しっかりと理解していた。貧しく見える故郷の方が豊かに思えてくる不思議、それは心の在り方の為せる業だろうか。
日本の美しさは過去の栄光とその名残なのだという印象が強く刻み込まれた。
やがて見えてくるのは駅。先ほどのものよりも大きく見えるそこには喫茶店やスーパーマーケット、道路を挟んでは個人経営とおぼしき居酒屋に変わった姿の魚の形を持ったまんじゅうを売る店など、どこか懐かしさを纏った雰囲気に彩られた家屋風の店が並んでいた。
それらに目を向けながらヴァレンシアと刹菜は電車に乗り込みしばらく揺られる。
いくつもの駅を通り過ぎ、人々の激しい流れ、大量の乗り降りを軽く見つめながら揺られて運ばれやがてたどり着いたそこは大きな駅。人々の波はより一層大きくなり、人生で最も騒がしい空間に身を納められた。それはヴァレンシアにとって初めての規模。群衆に飲まれないよう刹菜の手をしっかりと握りしめて生暖かでほんの少しだけ固めに感じられる肌の心地を堪能しながら歩く。
未だに日差しは強くて刹菜の表情は空と対称の曇り空。忌々しく思っているのだろうか。
それから時計の針が円盤の四分の一程の弧を描く程の時を費やして、大きな公園へと足を踏み入れた。
そこで刹菜は大きな伸びをしてあくびを交えながらヴァレンシアの手を離して肘辺りに腕を絡め歩き出す。
「異邦の美女を連れ回すのは中々に楽しいものだなあ」
この状況をもっとっも楽しむニヤけ面は先ほどの曇り空をも追い出してしまったのだろうか。太陽にも負けない輝きがそこにはあった。
やがてたどり着いたそこで、大きくしっかりとした造りの木の橋を渡っては日本らしさの現れを目にした。鳩が呑気に歩いて跳ねて、鯉が身を風にはためかせるように揺らす水中の空中。日本庭園を思わせる池はあまりにも美しく、ヴァレンシアの空色の瞳は今にも吸い込まれてしまいそうだった。
アンナの為にも持って帰りたい、そう思わせるには充分にきれいな景色。戦いの夜を前に見つめるにはあまりにも和やかで淡い気品の色が強すぎた。
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