三方一両損
朝野五次
第1話
黒い水面がゴウゴウと音を立てては流れ続けている
その狂暴な音が鼓膜を殴りつけ
私の皮膚まで震わせる
「あと、一歩」
水音に、背後の車の数々にかき消されるひとり言と
震える指先
冷気に晒された指先が、ようやく橋の欄干を捉えた
肩より少し高い、欄干
これで良いんだと思う
あの子はいつまでも出勤しないねと
職場ではちょっと話題にはなるかもしれないけれど、それだけだ
皆、すぐに忘れるだろう
あ、そう言えばあの書類を提出していなかった
ふと机の上に残された書類のことを思った
ポツンと残された書類
一人残された私と一緒だったんだな
左手を欄干にかけながら、何だかおかしくなった
どうせ私は、あれをやりとげる勇気すらなかったのだし
それなら、こうした方がマシだ
でもあれもこれも、もうどうでもいいこと
手に力の入った、その瞬間
ポッとワインのボトルを開けたような音がした
「やあ、僕、フリエもん」
暗い水面を見続けていた後に
淡い橙の光が目の前にポッと灯った
「あなたは今年、百人目の自殺志願者です!」
眩しさにしょぼしょぼする目を凝らしてみると
小さな人間が宙に浮いていた
背中には羽もついているようだ
「ここは折角、風光明媚な場所なのに
自殺者増えちゃかなわないよね」
昼間は目にも眩しい橋の赤、青空のコントラストが
そりゃキレイだよという言葉も続いた
そうなのか
じゃあ別な場所に移ろう
幻覚でも何でも最後に何かが話しかけてくれたし
それでいいや
「違う違う、お嬢さん
別な場所で自殺してとか
そんな非道なことをこの僕が言うはずないでしょ」
そこでその妖精らしき生き物はすうっと息を吸った
「あなたの願いを3つ、叶えます!」
「要らない!」
自信満々だったその顔が、梅干しでも食べたようになった
どこか別な場所で願いを叶えて欲しい誰かが居るだろうし
そもそもこんな幻覚が見えること自体
私の願いを象徴してるようで
もうこれだけで良いと思う
「ところでお姉さん、見たところどこかの会社にお勤め?」
それなら退職願、書いてきたの?」
あの思いに圧し潰されそうで
衝動的にこの橋へ来たのだから
書いてはいない
それが何だと言うのだろう
「退職届は少なくとも
辞める前の2週間くらいには書きたいものだねえ」
いくらもうすぐ長期休暇の出る時期でもねと妖精は続けた
もういいんだ
どうせ死ぬのだからと言葉に出そうになった
「ねえ、退職届すら出さないつもりならさ
いっそお姉さんの替わりが
お姉さんになりかわるっていうのはどう?」
そうしたらお姉さんの好きな自殺も出来るし
人口的にはプラマイゼロで収まるじゃない?
さっきまで私の自殺を止めようとしていた妖精は
そう言ってニコニコと笑いかけた
「まだ、願い事、していいの?」
勿論!と元気の良い声が聞こえて
指先の震えが少しだけ止まった
薄い青壁の部屋は、いつもどこか薄暗い
がらんと私物の数えるほどしかない
整然としただけの、面白みのない場所
そんな白色の光がぼんやりと照らす部屋の中で
私と同じ顔をした
同じ体のクローンが私を見つめる
にこっと笑うとえくぼが出来て
小さな八重歯がのぞく
それでも目が冷え冷えとして、笑っていない
再び戻ることはないと思っていた部屋には今
私とよく出来た複製の、二人
「知能や基本的動作、それに言語などは大体、大丈夫なはずだよ
ただ、仕事のノウハウは教え込んでおいてね
あなたの会社には休暇願も出しておいたし大丈夫!」
あと、2週間くらいで全部終わるでしょ
そう妖精は言った
それは、自殺まで2週間の猶予
まるで仕事の引継ぎをしてるみたいだ
あくまで表面は取り繕っているクローンに
業務上の細々とした事柄を教える
クローンの飲み込みは早く、応用として出した問題にも
そつなく完璧に答えた
そうだ、これなら私はここからいなくなる前に・・
視線は机の引き出しへと注がれた
「私の答えは間違っていましたか?」
不安げな表情のクローンが私の袖を引いた
「大丈夫、それで合ってる」
頭の芯がくらっとブレた
そうだ、この言葉は、父だ
父の遺影を見てから、あれから一年も経つというのに
「何をしても取返しのつかないことって、あるよね」
クローンがやっと表情を変えた
怪訝な面持ちでこちらを覗きこんだ
「何かが起こったとしてその原因になったこと自体が
何の追及もなく
のうのうと暮らしてるのには、腹が立たない?」
違う、内心はそんなものじゃない
体はどこも痛くないのに涙だけがとめどなくて
死斑の浮き出た腕を首を見て頭の芯が冷えていって
もがいてもがいて
頭から見たままを振り落とそうとしても
べっとりこびりついたままで
どうして突然死したとか知らなくてもいいから
誰でも何でもいいから
父を生き返らせてくれたら私の命でも何でもあげる
ほら漫画によくあるそんな奇跡
ただそれがたった一度、現実で起こってくれたらいいだけ
だってさよならもまだ言ってない
「だけど私は憶病だから」
父を奪われてどれだけ憎くても、何もしていない
橋まで行ったのに、結局何もせずにとんぼ返り
「もう、全部に疲れた
いっそのこと、こんなことが何もなかった時に戻りたいけど」
そこまで言った時に
再び、ポンっという音が空中に小さく響いた
「あらあらお嬢さん、それってお願い?」
妖精フリエもんが満面の笑顔で現れた
「いやあね僕も忙しい身だけれど
100人目記念の大事なことだからね
あなたの3つの願いを叶えるまで
僕はあなたにつきっきりなのよお!」
そのくるくると目まぐるしく変わる表情が
何だか眩しかった
「それじゃ言ってみましょ、あなたの2つ目の願い事!」
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