第39話 人の姿
抱きかかえられる感触は少し貧相な揺りかごだろうか、名前の無い在籍者としてこの世に立っていた男はあの日の少年を取り戻していた。阿蘇 和也、それが彼の名だった。
「大丈夫よね、まだ天使っていうわけじゃないよね」
天界との繋がり、天使という在り方を斬られて今ここにひとりの男が収まっていた。菜穂の腕の中、思い切り抱きしめる彼女の腕に収まって和也はぽつりと言葉をこぼす。
「待ってくれ、あんなことばかりしてきた俺なんか抱いても良い事はない」
言葉はしっかりと届いたはず、その耳が聞き取らないはずなどなかった。それでも抱き締めることはやめられず、菜穂の頬は幸せ色に染まっていた。
「それに、どう考えても嫌われることしかしてなかっただろ。アナタの姿を、年頃の女の姿をあんな人の目にもあてられないバケモノに変えたのは、間違いなく俺のしわざでもある」
和也の頭にはその悪行の数々が刻み込まれていた。何も思わず何も想えずに行なってきた人として最悪の行ない。うわさ話を次から次へと流しては今ここにいる人々の運命を勢い任せに乱していた。それが許されてもいいとでも言うのだろうか。和也には理解が及ばなかった。
「いいの、あのままだと私はただイケメンを好きって言ってる私自身が好きなだけの勝手な女だった。人を愛することをアクセサリーにしてた。そこから一度心の経験まで落とされ〈分散〉されて姿まで奪われて、悲しかった」
「だったら」
話を区切って挟み込んだ言葉もそこで区切られて、菜穂の声は和也に届けられる。
「でも、落ち込んでる間ずっと傍にいてくれるアナタが、和也くんが私にホンモノの恋心を教えてくれたんだよ。支離滅裂に囚われてる時でも、あれだけでも、すごく温かかった」
だからだろうか、和也を抱き締めるその腕は何処までも暖かで薄桃色の想い、恋心と優しさがこもった柔らかな色をしていた。
「和也くん、大好きだから、その、私と付き合って」
和也のぼうっとした頭の中、朧げで不安定に揺れる想いの中で過ごす心地は夢を見ているよう。
断るにはその世界はあまりにも居心地が良すぎた。
「ありがとう、いつもそこにいてくれて。これからも、ずっと傍にいて欲しい」
寄り添い合って奏で合うふたりの澄んだ音色が空気を仄かに柔らかな色に染め上げていた。ふたりで歩む人生、その誓いを邪魔する者などこの世の何処にもいなかった。
☆
夕空は茜に塗り潰されていて、どこまでも広がっていて。そんな朱は今の真昼たちの目にはあまりにも無機質に映っていた。目の前に佇む背の高い女は灰色のローブを纏って一歩たりとも動くことがない。世界を力強い三白眼で、水色がかったねずみ色の瞳で捉えながら透き通った声で世界を語る。
「ここが人々によって穢された世界。この世を変えなければならない」
声を聴き、言葉の意味を噛み砕き、赤茶色の髪を束ねてその房を左肩に垂らした女、刹菜は歪んだニヤけ面を晒してみせた。
「天使だっけか、天はまたおかしなものを遣わせたものだ。私たち人間と同じ姿をしてながら人を滅ぼそうなんて」
人の形をした人類の明確な敵は、その鋭い目を刹菜に向けていた。
「イヤだなあ、そんなに私を見て……惚れちゃった? オンナノコ同士だけど」
挑発的な言葉はしかし、天使の表情ひとつ変えることは出来ず、天使の動き、天使の言葉、天使の声。どれからもその姿に相応しい感情が見えてこなかった。
「そっか、どれだけ人を真似したところで理解できないんだな、どうして人と繋がれる言葉なんか使うんだ、そんなの要らないだろう」
言葉など無視して天使は右肩から大きな灰色の翼を広げて羽根を散らす。その羽根はひとつひとつが同じ輝きに統制されていて、どれもが等しく人にとっての脅威。襲い掛かって来るそれを見つめて刹菜は更に表情を崩し語って見せた。
「光で人を消し去ろうなんて、雷と何も変わらないなあ。だとしたら何が特殊なのかな、自然現象と同じじゃあないかな」
煽りは口から流れるように次から次へと現れ出ては雰囲気を支配していく。しかしながら天使はそうした雰囲気の動きを何ひとつ捉えていなかった。
何も視ていない、人の心に踏み込まない、だからこそ戦いに動きの澱みひとつ生み出せない。
「参ったな、人と同じ知能を持っていながら人の感性を持たない、それが一番恐ろしいものだよ」
口は減らない、それは刹菜本人の趣味なのだろうか。羽根は輝きと共に人を焼き尽くしてしまおうと動きはするものの、そこにいる人々は全て躱していた、世界を焦がすことも無くただ消え去って、残光が網膜に焼き付いては消えゆく。こうした出来事の流れに意味を澄ませて時というものを感じる。それだけの余裕が刹菜にはあった。
「この刹那に、刹菜行きます」
ジーパンのポケットから何かを取り出し構えてみせた。先端を回して取り外して現れたそれは金色の尖り、それは万年筆、本来ならば文字を書くための物だった。
駆けて天使の羽根を斬りつけ勢い任せに地を蹴り己の足で自らを横薙ぎにして羽根の爆発を躱して。
その目で捉えた羽根の数、空を覆うように地を覆う羽根の数々。それを目にするだけで気が遠くなってしまいそうだった。
「面倒」
勝つことなど不可能なのだろうか、刹菜も真昼もお手上げ状態だと、やり過ごすしかないと方針を変えようとしたその瞬間、羽根は見えない何かに押しのけられて一か所に固まり羽根同士で仲間同士爆発し合って輝きで傷つけ合い始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます