第29話
彼女の名前は
彼女はとある個別指導塾の塾生で、俺はそこのアルバイト講師。ただそれだけの関係。だが、彼女が他の生徒と大きく違うのは、彼女が中学校への登校をしていないという点。中学1年生の真鈴は不登校だった。
原因は対人恐怖症。
裕福ではあったが家庭内不和の絶えなかった彼女の家では、両親の言い争う声が毎晩のように響いていた。ふたりが娘の前で喧嘩をすることはなかったが、その裏では激しい口論が繰り返されている。
娘のために食事で揉め、娘のために学業で揉め、娘のために習い事で揉める。時には口汚く罵ることもあるがそれも全て娘のため。真鈴はそんな両親の不仲を知りつつも素知らぬふりをするほかなかった。
そんな状況で精神をすり減らしていった彼女はやがて、対人恐怖症になってしまった。家族団欒で笑顔を繕う両親のように、あるいは両親の不仲を知りつつも白を切る自分のように、すべての人間が表の顔と裏の顔を持っているのではないか。笑顔を向ける人々の影には、自分の知らない敵意や憎悪が隠されているのではないか、と極度に他人を恐れるようになっていた。
次第に彼女は、学校へ行くことを避けるようになり、やがて家から出ることも憚るようになってしまった。そんな彼女が塾へ行くことになったのは、彼女の母親が愛する娘の将来を案じ、近隣の塾へと頭を下げてまわったからだ。
「対人恐怖症の娘のために、他の生徒のいない時間帯に授業をしてください」
大手の塾では難しい条件の上、人員のコストなどから忌避される内容だったが、個人経営である俺のバイト先が真鈴を受け入れることになった。
母親が家庭教師に協力を頼まなかったのは、真鈴に少しでも外の世界を経験してほしいという思いと、真鈴のストレスの原因となっている明智家の環境から彼女を隔離したいという思いからだ。しかし、父親は塾に行くことを快くは思っておらず、塾に行く前に学校に行くべきだ、と考えていたという。
そうして真鈴が塾に来るようになった。
俺が初めて彼女に会った時、彼女は俺と目を合わせようとしなかったし、3時間もの間、一言も言葉を発しなかった。ふたりぼっちの教室に俺の声だけが響いていた。
平日週5日、3時間の授業を受けて帰る真鈴。担当の講師はシフトによって何人かが交代で受け持ち、わかりやすく授業を行うが手応えはまるでない。2週間経っても、彼女の声を聞いたものは一人もいなかった。
先輩講師たちは暖簾に腕押し状態の授業で精神的に疲労していた。しかし、当時の俺はまだ大学一年生で、塾講師のアルバイトを始めてから日が浅かったため、自分の技術不足だろうと思い、さほど気にしてはいなかった。その能天気さが良かったのだろう。ある日、真鈴の母親から塾長に連絡があった。
「娘の担当講師を鶴川先生に専任していただけませんか。娘が初めて塾のことを話してくれたんです。鶴川先生の授業が楽しい、と」
真鈴が意思表示をしたことを喜ぶ母親と、僅かだが授業の成果が出て安心する塾長、そして、楽天的で事の重大さが理解できていない俺。三者の思いが合致したことで、俺は明智真鈴の専属講師になった。
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