舶来のロマンチスト

 兄ちゃんがエアの海目指して飛び立ってから、数年。俺は背も高くなり、声も低くなって、大人と呼ばれるカテゴリに仲間入りを果たした。兄ちゃんと別れたときは、まだ時々見えるだけだったアクアの海との圏界面も、最近では、見ないフリをするのが難しいくらい、はっきり見えるようになった。水色の夜明けに浮かぶ、どこまでも続く青い平面は、たしかに兄ちゃんが言うとおり、ちょっとは綺麗だとも思った。


 空島は、少し変わった。


 ヒトが減ったのだ。終末に絶望した奴らは、みんな空島から身を投げて、アクアの海に沈んだ。あるいは、うっかり空島の下半球に取り残されて、まあ結局、アクアの海に落ちていった。居住区をぶらぶら歩いていても、もう、ヒトに出会うことは少ない。超が付くほどの貴重品になった空気塊を、見せびらかしながら歩いても、誰かに奪われることもない。猛毒と言われているアクアに沈む日より、今のほうがよっぽど、終末って感じだった。


 俺は草原を横切って、研究所に向かう。


 看板には大きく【閉鎖済】と書いてある。その昔、兄ちゃんがペンキで書いたヤツだ。あのとき、何て書いたの、と聞いたときは、まったく見当違いのことを言われた記憶がある。けど、どんな嘘を吐かれたのか、それはもう思い出せない。


 忘れていくものなのだ。

 ヒトは、そういう風にできてるらしい。


 研究所の玄関を潜って、突き当たりを右へ。雑に並べられたソファに、ブランケットが掛けられたそこは、たぶん休憩室とかそんな感じの場所なのだろう。俺はいつも通り、窓際のソファにリュックサックを投げて、本棚に手を伸ばす。最近、ここに保管された研究所の所内記録を読むのが日課になっていた。


 別に大したことは書いてない。


 洗濯したばっかりのシーツを地面に落としたとか、残りひとつの空気塊を誰が食べるかをカードゲームで決めてみたとか、観測機器のレンズに素手で触ったヤツが吊し上げを食らってたり、そんなのばっかだ。研究所の賢そうに見えてた大人たちも、別に子どもと大差ない、普通のヒトだったんだ。でも、そんな日常は二度と帰ってこないから、書いてあることが下らなければ下らないほど悲しくって、俺は毎日ぼろぼろ泣いた。泣いていたかった。そうすれば、自分の悲しみが可視化されるから。


 涙でにじんだ所内記録を本棚に戻して、俺はふと、その奥にしまわれていた本に気がつく。狭い隙間に指を突っ込んで、どうにか取り出してみる。


「うわっ、と……」


 紙を束ねたそれは酷く痛んでいて、端がいともたやすく破れた。俺はそれを両手で持ち直し、ソファまで移動して、破らないよう慎重な手つきで表紙をめくってみる。


 日付が書いてある。


 めちゃくちゃ古かった。五百年も前のもので、そんな時代の紙が残ってるわけないだろと思ったが、よくよく見ると複製らしかった。どうも、古くなるたびに、その時代の研究所員が複写を作ってきたようだ。本来なら、そろそろ次の複製を作る時期なのではないだろうか。まあ、研究所にはもう、俺以外いないわけだけど――


「ああ……」


 そこで思い立つ。


「ま、作ってやるか、複製」


 どうせ暇なのだ。


 リュックサックのなかに、数日分は空気塊が詰まっていることを確認して、俺は休憩室の隅に倒されていたテーブルを立て直し、床に固定する。転がったソファのひとつを引きずっていって、まだ何も書かれていない紙を探し、にじんだ文字をひとつひとつ、新しい紙に写していった。


 書いていくうちに、ひとつのキーワードに突き当たった。


「……エアの、海?」


 それは、兄ちゃんが探しに行ったものだ。


 散漫としていた集中力が、とたんに限界までみなぎる。俺は目を皿のようにして、はるか遠い昔に書かれた文章を読んでいった。どうやらこの日誌は、空島がエアの海のなかに浮かんでいた時代に書かれたものらしい。


「そっか、空島は落ちてるから……昔はもっとずっと、高いとこにあったんだな」


 呟いて、俺は天井になりつつある壁を見上げる。上には、観測限界まで青白いエーテルが満ちているが、その向こうから空島は落ちてきた。俺たちの目で見えるよりも、ずっと遠い場所からやってきた空島は、かつては本当に、エアの海のなかを泳いでいたのだ。


 俺にはもう、指先すら触れることは叶わない、遙か遠い場所。


「……良いなぁ」


 思わず正直な気持ちを零す。


 遠い場所に行けることが羨ましい。あの日、兄ちゃんがはるか高みに飛び立ったときに、俺もその後に続けていたら、もしかしたら、手が届いたのだろうか? 実際には俺は後を追えなくて、上に飛び立つための翼だった空気塊は、大人たちに奪われてしまったのだけど。


「でもさ」


 生きているのかも分からない彼に向けて、俺は呼びかけてみた。


「兄ちゃん、この本のことは知らねぇだろ。さっさと飛んじまったから、見れなかったんだよ。もったいねぇことしたよな」


 口に出してみると、胸がすっとした。


 あの日から、俺はずっとどこかで、兄ちゃんの後を追えなかった自分を好きになれないままだった。勇気も度胸もない自分が、たまらなく嫌だった。


 だけど、この本は、兄ちゃんの後を追っかけてたら、絶対に読めなかった。それに、俺がこの本を見つけなかったら、多分誰も見つけないまま、空島はアクアの海に沈んでいただろう。【閉鎖済】と書かれた研究所に入る物好きなんていないし、そもそもヒト自体が、もう全然いないんだから。


 俺はその日、生まれて初めて兄ちゃんに勝てた気がした。兄ちゃんに付いていけなかったのは、やっぱり俺の意地がなかったから……なんだろうけど、これはこれで、悪くない選択だったのかもしれない。


「……へへ。良かった」


 笑いながら、ページをめくる。


 そこに書いてあるのは、所内記録と大差ない、他愛ない日常の話だった。エアの海のなかで生きているんだから、どんな贅沢な暮らしをしているかと思ったけど、全然俺たちと違わない。植物がなかなか育たない……みたいなことが書いてあって、俺は首を捻る。植物が育たなかったら、何か困ることがあるのか?


 時々首を捻りながらも読んでいく。空島がぐるっと回転して、研究所が夜に包まれる頃、紙面の中は危機に瀕していた。


【猛毒の海がやってくる】


「アクアの海のことか?」


 だけど、それにしては時系列が合わない気がする。空島がアクアの海に沈むと分かったのは、せいぜい数十年前の話だ。その前は観測限界までエーテルが満ちていて、アクアの海との圏界面は、存在すら知られていなかった。


 どういうことだろう。

 ページをめくる。


【猛毒の海の分析結果】


 その文字に続く構造式は、前に本で読んだから、見覚えがあった。ふたつのエチル基が酸素原子で結合した、ヒトにとってもっとも馴染み深い物質。


「……エーテル?」


【ジエチルエーテルに俺たちは沈む】


「な、何言ってんだ?」


【猛毒の海が俺たちを取り込んで殺す】


 科学的な正確さをかなぐり捨てた、恐怖がそのまま文字に起こされたような書き付け。何度もの複製を経て、なお俺に訴えかける恐怖心に、手が震えてペンを取り落とす。


【ロケットの修理に失敗。コールドスリープ装置の復元に失敗。地球との通信に失敗。空島からの離脱、不可能。エーテルの海に飲まれるまで地球時間で半年。先遣隊はもう終わりだ】


 ***

 

 今日もまた、仲間がエーテルに身を投げた。

 

 逃げ場所を探して洞窟に行ったヤツは帰ってこなかったんだが、昨日、崖下で見かけた人影が、よく似た顔をしてたような――なんてな。オレもだいぶおかしくなったみたいだ。逃げ出したい。助かりたい。なあ、教えてくれ、人間よりずっとずっと長生きな空島さんよ。オレはどこに行ったら良い。何をしたら良い。


 アイツを助けるためにはどうしたら良い?


 ***


 そして、空島はエーテルの海を落ちきり、アクアの海に沈んだ。ぜんぶ研究所の予測通りだけど、少しだけ違ったのは、アクアの海から頭のてっぺんだけを出した状態で、落下が止まったことだった。


 空島は、アクアの海に浮かんだ。


 ヒトが減って空気塊の消費量が減ったから、空島の浮力と重力が、そこで釣り合ったのかもしれない。詳しい計算はしていないけど、ともかく俺は、子どもの頃に想像していたのよりは、少しだけ長い寿命を手に入れた。


 だから、もう少しだけ、この空島と一緒に生きてやろうと思った。


 青白い、空島の昼。


 空島はアクアの海に捉えられて、もう自転はしていないから、永遠に昼が続く。眠るときにカーテンを引かないといけないのは厄介だけど、夜が来ないというのは、意外に便利なことも多かった。


 俺は草の茂る高台に向かって、青いアクアの海を眺めながら、空気塊を食べる。居住区にも、森にも崖にも、ヒトの姿は見えない。もう何年も独り言以外を発した記憶がないが、それでもまだ、孤独ではなかった。研究所に残された何百年分もの所内記録が、俺の友人になってくれていた。


 今日もまた、古い記憶を読む。


 テーブルみたいな形をした石の上に、ぼろぼろの所内記録を広げて、新しい紙にペンで書き写していく。いま書き写しているこの冊子は、かなり続きが気になっていた。というのも、記録のなかに「兄」「弟」という単語が出てくるのだ。


 もう、顔も忘れかけてしまった兄ちゃんは、俺のことを弟と呼んで、自分のことを兄ちゃんと呼ばせた。最初に会ったときからそうだったから、疑問に思ったこともなかった。でも、今になって考えると、空島の他の仲間たちは、俺たちみたいな関係性を持っていなかった。いったい兄ちゃんは、どこでその言葉を知ったんだろう。


 ページをめくると、ぼろぼろの写真が挟まっていた。編み上げの靴を履いた若い男と、まだ幼い少年が、こちらに笑顔を向けている。


【――兄弟 ○年○月○日撮影】


 その顔は、ちょっとだけ、俺と兄ちゃんに似ているような気もした。もっと良く見ようと思って、持ち上げてエーテルの空に透かそうとすると、風が写真をさらって、はるか遠くのアクアの海まで運んでいった。


 ***


 それは私の大切なお友達。


 しゃべる、食べる、喧嘩する、笑う。賑やかで楽しかったのに、どうして泣くのだろう。どうして動かなくなったのだろう。どうして遠くへ行ってしまうのだろう。エーテルの海のなかで息ができたなら、また笑ってくれるかな?


 なら、何度だって作り直すよ。


 私は君たちを愛している。大好きな君たちが、私の隣にいてくれるなら、何度だって。




 空島からの飛翔 了

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