落盤
「おおい、誰かいるのか?」
終末より一足先に死ぬのか、と絶望していたその時だった。閉ざされた暗闇の中で、俺は希望の声を聞いた。助けてくれ、と無我夢中で叫び返す。
「落盤だ。みんな飲み込まれた」
そう言いながら、これは本当に落盤なのか、と自分の言葉を疑った。俺にはまるで、岩壁が自ら俺たちに襲いかかってきたように、そう見えたのだ。
「引き上げればいいのか?」
「頼むよ。だが、足が埋まってしまって……」
俺は膝下まで礫に埋まった右足を見る。見た目では大したことがないように思うのだが、どれだけ力を込めてもビクともしなかった。
俺は焦った。あまり時間がない。
ヒトの住むこのでかい岩の塊、通称「空島」は、一日に二度重力の向きが入れ替わる。昼は床だった場所が、夕方頃には壁になり、夜には天井になる。
俺の所属する観測グループは、とある目的のため、最近はもっぱらこの洞窟を探索している。だが、それができるのは昼間だけだ。夜になると重力が反転するので、洞窟に潜るためには、垂直に切り立った崖を登らなければいけない。
逆説的だが、それが空島の理なのだ。
足が埋まっていると応えると、救いの声はなるほどね、と笑った。こちらは生命の危機だぞ、と怒鳴りたくなるが堪えた。
「助けてくれ。夜になっちまう」
「え、そこはさぁ、夜になった方が都合良くないか?」
声は呑気に言った。
「だってホラ、そうすれば重力の助けを借りられるだろ?」
「そ――それはそうかもしれないが」
考えたこともなかった。たしかにここから這い上がるよりは落下した方が幾分マシかもしれない。
「じゃあアンタの言う通り夜まで待って──」
「まあ、それじゃダメなんだけどな」
あっけらかんとした声で遮られた。
「真面目に考えてくれ!」
ついに頭にきて、叫んでしまう。そりゃあ、俺の危機はアンタには他人事かもしれない。だが、一刻を争う状況で、仮にも人命が賭けられた状況で、あまりにのんびりしすぎじゃないか。
「ん? どうした」
不意に声が優しくなった。初めは俺に言ったのかと思ったが、何のことはない、連れがいるようだ。細い洞穴を伝って、甲高い声が僅かに響いてくる。子供だろうか。
「あー分かってる、ちゃんと助けるって。おぉい、アンタ、まだ生きてるか?」
「当然だ。そんな短時間で死ぬわけが──」
俺の声は途中から、喚き声に変わった。岩に埋まった足が引き摺られた、そんな感覚があった。予想だにしていなかった感触が足を覆う。まるで生きているかのような動きで俺の体を呑み込んでいく。
瞬く間に、下半身がもろとも埋められた。
「ひぃっ」
情けない悲鳴がもれる。腰が飲み込まれて、うずまく圧力が服越しに食い込んでくる。これは洞窟ではなくて、巨大な怪物の開けた口だったのか。ずるずると身体を這い上がる、流体のように蠢く岩壁だったものたち。
暗闇の中、すぐ近くで何か衝撃を感じた。
俺はまたパニックになりかけたが、どうやら声の主が降りてきたようだと気づく。
「おっと、少し遅かったか?」
ペンライトの光を向けられる。ずいぶん若い男だった。ハーネスに命綱を繋いではいるものの、随分と軽装備である。それに、ろくな道具を持っていない。道具と呼べそうなのは腰から下げたツルハシだけ、だが、彼以外を頼れないのもまた事実だった。ダメかもしれないと思いつつ、俺は彼に頼み込む。
「俺を掘り出せないか」
「うん、不可能ではないが、刺激するのは逆効果だ。奴らに俺らの居場所を知られてしまう」
「奴らって誰だ?」
「空島だよ」
男は笑う。
「この島は生きているからな」
「……クソ、この土壇場で唯一頼れる奴が妄想癖かよ」
俺は眩暈を覚える。突然ファンタジックな妄想を言い出す輩を見るのは別に初めてではない。特に、ヒトが近い未来死滅することが予言されてからは、その手の輩は爆発的に増えた。
「……おい、何でもいい」
やや遠いところから第三の声がした。そちらに目を凝らして初めて、他にも誰かがいることに気がついた。
「所長」
俺はほっとして、呼びかける。
「良かった、無事ですか?」
「足を痛めたが、大丈夫だ。それよりお前」
そう言って所長は、突然現れた男に水を向ける。
「降りてきたからには何か勝算があるのか?」
「まぁね」
男はにっこりと微笑む。
「見たところおふたりの体重も想定範囲内だ。だが、そっちのお兄さんが埋まっているのがちょっと想定外かな」
彼は俺を指さす。下半身が呑み込まれ、俺はほとんど身動きを取れなくなっていた。神経が圧迫され、足の指先の感覚がもうなくなりかけている。
「まあ方法としては、下半身は諦めて頂くか、あるいは周囲を爆破して空島を威嚇するとか」
「なっ……物騒だな。普通に掘り出してくれないか」
「それがムリなんだって。オレが岩をかき分けるより、あんたの足が喰われる速度の方が早いんだよ」
嘘だろ、と動かした唇は声にならない。
身体が恐怖でがくがくと震え出す。足は諦めろだの、周囲を爆破するだの簡単に言ってくれるが、それは死ねと言われているようなものだ。暗転しかけた視界のなかで、血相を変えて所長が立ち上がるのが見えた。
「おい、言わせておけば――お前、こいつのことを何だと」
「空島のメシにされかけてる哀れなヒト」
「ふざけるなっ――」
「もっと言えば愚かなヒトだ。あんたたちは研究所とやらの所属だろ、そのくせ、空島の基本的な性質すら理解してないなんてさ、何のためにこんなことやってんの」
「何の……って、空気塊のために決まってるだろう! 地表近くの空気塊は取り尽くしてしまったからだ」
「へぇ。集めてどうすんの」
「どうって、食糧として配布するんだろう。馬鹿なのか?」
男は肩をすくめて、所長の問いかけを受け流す。そんなやり取りを聞いているうちにも俺の下半身は岩肌に呑まれていき、身体が引きずり込まれる感覚に情けない悲鳴がこぼれる。
「お前、大丈夫かっ」
所長が男の横をすり抜けて、こちらにやってくる。俺の手を掴んで引き出そうとしてくれるが、腰から下を埋めた岩盤は微動だにしない。
「おい、俺のことは構わない、こいつを助けてくれ! こいつは、まだ若いのに研究熱心で、物事の覚えも早い。空島の未来を託す若手として、こいつは絶対に必要なんだよ!」
「――所長」
まっすぐな言葉が胸に刺さる。こんなときでもなければ聞けないような褒め言葉に、俺は柄にもなく涙ぐんだ。
「でも、貴方だって、生き残らないとダメです! 貴方がいなくなったら、あの研究は他に誰がやるって言うんですか」
「素敵な絆だなぁ」
言葉だけ見ればどう考えても馬鹿にしているが、あながち嘘らしくもない口調で男が呟く。
「でも、あんまりそうやって、動かすのは良くない。かえって呑み込まれちまう」
「じゃあどうしろって言うんだ!」
所長が泣きそうな声で男に食ってかかる。そのとき俺はふと、所内の一部でまことしやかに囁かれていた噂話を思い出した。
「所長、俺、聞いたことがあります。洞窟で消えたヒトが、空島のぜんぜん違うとこで見つかった事例があるって」
「あぁ――それね」
男が意味ありげに微笑む。
「そいつは本当だよ。空島に喰われたところで、別に消滅するわけじゃない」
「そ、そうなのか?」
「うん。消滅
――ああ、そういうことか。
俺と、空から降ってきた男の間で視線を行ったり来たりさせる所長に話しかける。
「なら所長、俺のことは置いていってください」
「いや、だがしかし――」
「良いですってば。そいつが言ってることが正しければ、別に死ぬわけじゃないんで」
「信じるのか、お前!」
別に信じたわけじゃない。
どれだけ追い詰められていたって、いきなり出てきた見ず知らずの他人の語る、荒唐無稽な話を信じるほど馬鹿じゃない。俺だって、まだキャリアは浅いけど研究員で、そのくらいのプライドはある。
ただ、そう言えば所長は諦めてくれると思ったから、俺は愚か者のふりをした。
「面白そうじゃないですか。空島の腹の中、俺が、見てきてやりますよ」
背中が引きつるように震えた。
情けない。それでも、どうにか俺は笑顔を保って、それから男に目配せをした。
――どうか頼む。
分かった、とでも言うように男が頷いて見せた、その直後。巨大な礫がまるで俺をめがけたように飛んできて、幾つも幾つも降り積もり、あっという間に視界は閉ざされた。俺の身体は四方八方から押され、ぶちぶちと嫌な感覚を伴って分裂する。痛覚は感じなかったけど、もう身体の大半がここにないのが分かった。
無事で済むなんて、やっぱり嘘じゃないか。
俺は目を閉じて、せめて俺が尊敬していた所長くらいは、無事に上まで逃げてくれることを祈った。
***
「いい加減、行かない? 夜が来たら面倒なんだけど」
どこぞの研究所の所長であるという中年の男は、地面にうなだれたまま動かない。ツルハシを下げた若い男は、ひとつ溜息を吐き出した。中年男と一緒に引き上げた、お仲間の遺品であるらしいリュックサックを漁ってみるが、特にめぼしいものはない。よく手入れされた様子の拳銃くらいだろうか。
「……あいつは、どうなったんだ」
「岩に呑まれたお仲間のこと?」
若い男は軽い口調で応じる。
「今頃は分解されて、空島の栄養になってると思うけど」
「は、話が……違うだろう」
「オレは別に、無事で済むとは言ってない。ただ、近いうちに空島のどっかで、お仲間によく似た奴らが生まれると思うよ。それじゃダメなわけ?」
若い男は地面に膝をついて、ぼろぼろと涙をこぼし続ける中年男の顔をのぞき込む。
「あんた、あの研究員のこと、ずいぶん気に入ってたんだな」
「あいつだけじゃない。他の仲間、全員そうだ。若いのに見込みがあるヤツ、知識や経験が豊富なヤツ……みんな、死んだんだ」
「だから死んではないって。まあ、たしかに、能力とか記憶とか、そういうのは失われてるかもしれないけど、だいたい同じ人間だ」
「それじゃ、ダメなんだよ」
振り絞ったような中年男の声に、ふぅん、と若い男は肯定でも否定でもない呻きを零した。そんなふたりの男の元に、ぱたぱたと軽い足音が近寄ってきて、なあ、と高い声で呼びかける。
「兄ちゃん、夜になっちゃうよ」
「分かってるよ。この動かないおっさん、置いていって良い?」
「ダメに決まってんだろ」
穏やかではないが、信頼のにじむ口調に、うつむいていた中年男はゆっくりと顔を上げた。若い男と、その腰ほどまでしか背丈のない子どもを見て、不思議そうに目元を擦る。
「――それは」
「ああ、オレの弟」
若い男はこともなげに言って、自己紹介を促す。少年は少し緊張のにじむ声で、兄ちゃんの弟です、と言った。
「弟?」
中年男は、泣き疲れて腫れぼったくなった目を細める。
「何だそれは」
「さぁ、オレも知らない」
「……定義も分かっていない言葉をそれらしく振りかざすな」
「ごもっとも」
若い男は肩をすくめて、会話についていけずに困惑しているらしい子どもの頭を撫でてやる。
「でもね、こいつはオレの弟なんだよ。それは絶対
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