故郷の桜
@yokonoyama
第1話
3月。
台所で夕食の支度をしていた母が、私の目の前で倒れた。慌てて救急車を呼ぼうとすると、母は、めまいがしただけ、と言って私を止めた。
母が疲れているのは、わかっていた。安静にしていたら、そのうち元気になるのかもしれない。けれども私は、後日、母を病院へ連れて行った。すると、医師の勧めで、検査入院することになった。
「まるで、おとうさんみたいね」
病院のベッドで、横になった母が言った。夫をおとうさんと呼ぶのは、子どもがいる夫婦ではよくあることだろう。父は、治る見込みのない病気で入退院をくり返し、2ヶ月前に亡くなった。享年71。
今から2年前のその日、母は、病院で検査を受けた父よりもひどい顔色をして、私が勤めから帰るのを家で待っていた。不安そうな母の表情を見て、私はすぐに察しがついた。医師に家族の生きられる残り時間を示されても、なかなか受け入れられるものではない。検査してくれた病院の医師と母と私で相談し、名医がいると評判の大きな病院へ父を入院させた。母も私も自動車の運転免許を持っていなかったので、父の見舞いには電車を利用した。自宅近くの駅から病院まで往復するだけで3時間かかった。老いた母には体力的につらかっただろう。
父の入院後、しばらくして私は退職した。勤め先の研究所が移転することになったのだ。これまでより遠い場所になるため、自宅からでは通勤できない。父の余命を知ってしまったのと、心細そうな母の姿。私は、両親に孫の顔を見せるどころか結婚もしないまま、40年、世話になった。父も母も、私に、結婚しないのか、と言ったことはなかったが、私も自分の人生のどこかで親孝行をしたい。仕事は誰かが代わりにやるだろうから、私は迷わず両親を選んだ。
私の退職後は、毎日、母と私の2人で病院へ通った。病院に毎日行くなら、1人づつ交代で行こう、と母に提案したが、受け入れてもらえなかった。父は、母の顔を見ないと寂しがった。母も、それを承知しているからか、病院に通うのを休もうとはしなかった。弱っていく父を支えるために、こちらも体力と気力が必要だった。
父は、2ヶ月入院し病状が安定すると、10日間ほど家に帰ることができた。そしてまた入院するのだが、家で過ごせるのを喜ぶ父や、食事の準備をしている母を見ると、日常が戻ったような気持ちになった。しかしその反面、私は、これをあと何回繰り返すことができるだろう、とも思っていた。1年が経つ頃には、父は3ヶ月入院して、1週間、家に帰れるかどうかになった。その8ヶ月後には自力で立つこともできなくなり、家に帰れなくなった。
最後の5日間は、母と私とで父の病室に泊まり込んだ。病室で静かに父を看取ったあと、母は私に、あなたと2人だったからこれまで頑張れたのよ、と言った。せっかく、やりたかった仕事に就いていたのに、辞めることになってごめんね、と母は言った。私は、気にしなくていいんだよ、と何回も言った。そんなこと本当にいいんだ、と。
父がいなくなり、私と母が病院に通う日々は終わった。父の病気を知ってからは、母や私の生活は、父が優先になっていて、そのあと自分たちの人生をどうするかなど考えていなかった。母は、一日の大半を真新しい仏壇の前で過ごしている。私も、そろそろ仕事を探さなければと思いながら、結局、何もやる気が起きずにいた。
そして、父の葬儀から2ヶ月後、母が倒れたのだった。
「そうそう、検査が終わって退院したら、桜を見に、いなかまで行きたいのよ」
母に話しかけられたが、父の入院のことを思い出していた私は、すぐに返事ができなかった。
「桜の木があったでしょう。覚えてない? いなかに行っていたのは、あなたが小学生の間だけだったもんね」
いや、覚えている。母が言っているのは、自分の実家にある八重桜のことだ。実家はK県の山のふもとにある。桜は庭に1本あるだけだが、満開になると見事らしい。私は、庭に木があるのは知っているが、春に行ったことがないので、桜が咲いているのは見たことがない。
母の実家は私が11歳の時に、漏電が原因で焼失している。幸いケガ人はなく、桜の木も無事だった。けれども、地域の風習か縁起が悪いからか私にはわからないが、火事になった土地は30年使えない、と母のきょうだい達が言って、その場所は更地にしておくことになった。新しい家は、別の場所に建てた。母は、自分の生まれ育った家はもうない、と言って実家へ行くことがなくなった。そのため、新しく建てた家を私は知らない。親戚とも、すっかり疎遠になってしまった。
「一度だけ、船で行ったわね。お父さんが向こうで車を使いたいって言ってね」
母の言葉に私は頷いた。K県まで飛行機なら1時間くらいなのだが、カーフェリーを利用すると、半日かかってしまう。ただ、当時小学生だった私は、席でじっとしなければならない飛行機よりも、自由にできるフェリーの方がおもしろかった。確か、出港は夕方だった。船内に荷物を置くと、フェリーが動き出すのを見ようとデッキへ行った。すでに多くの人がデッキにいて、港にいる人々に向かって手を振ったりしている。私はその状況が珍しく、私を見送る人などいないのだが、皆の真似をして誰に向けてでもなく手を振った。そうこうしていると、どこからか色とりどりの紙テープが配られてきて、私も1つもらった。大人たちは、次々と紙テープを港へ向かって投げている。私は、自分の力では投げても届かないと思い、紙テープを父に渡した。何十本もの紙テープが船に乗った人々と、港で見送る人々をつないでいた。定刻になったのかフェリーが出港し、少しずつ動き出すと、次々に紙テープが切れた。なんとなく、もの悲しい気持ちになった私は、デッキにいた人たちが船内に入って行っても、陸地が見えなくなるまでデッキに残っていた。
私がフェリーに乗ったのは、30年ほど前のその時だけだ。今は、出港時に紙テープなど投げないと思う。
「飛行機の予約って、どうするんだったかしら。火事の時以来だから、忘れたわ」
母は、独り言のように言った。
そうだ。実家が火事になったと連絡があった時、母は1人でK県へ行ったのだ。母が実家へ行く理由を知らなかった私は、お正月に行った時のような楽しいことを想像して、一緒に連れて行って欲しいと頼んだ。あなたは学校があるからね、と言われ、私は、お母さんだけずるい、と拗ねた。数日して、母は実家から帰ってきたが、土産もなく、私は、そのことにも不満をもらした。母は、ただ私に、ごめんね、と謝るばかりだった。その日の夜遅く、私は、両親が小声で話し、母が泣いているのを見てしまった。母は父に、全部だめだった。何も残っていなかった、と言っていた。聞こえた話や、ここ数日の両親の様子をつなぎ合わせて、何があったのか、やっと私は理解した。けれども拗ねたことや不満をもらしたことは、母に謝れなかった。
私は、思い出の中の母から、今、ベッドに横たわっている母に意識を移した。私と目が合った母は、少し微笑んで言った。
「家は焼けてしまったけど、桜のことはずっと気になっていたのよ。40年以上も前だけど、おとうさんが結婚のための挨拶にきてくれた時も咲いていてね。それは美しかった。いつか家族3人で見に行けたら、と思っていたのに、おとうさんがいなくなっちゃって」
うん、うん、と私は返事をする。
「あなたにも桜を見せたいし、おとうさんは、そう、写真を持って行けば見せられるわよね」
母は満開の桜を思い出しているのか、嬉しそうに言っている。私もつられて微笑んだものの、母の体調が良くないのに、K県まで遠出をするのは反対だった。桜ならこの辺りにも名所はあるから、今年はそれで辛抱してくれないだろうか。しかし、念を押すように母は言った。
「おとうさんの写真、忘れないでね」
ニュースや天気予報で頻繁に伝えられていた桜の話題が落ち着いた頃、K県へ行くために、晴れの日を選んで飛行機に乗った。定刻通り飛び立った飛行機は、ちょうど1時間で着陸した。
空港から実家まではタクシーを使う。20分も走れば道は山に囲まれ、のどかな風景になる。そのうち、対向車がきても、すれ違えないような細い道に入った。アスファルトで舗装されているものの、でこぼこしている。そのまま揺られて行こうかとも思ったが、タクシーを降りることにした。歩きたくなったのだ。一本道なので、迷うことはないだろう。タクシーの運転手さんは、私の帰りのことを心配して名刺をくれた。
私は自分の足ででこぼこ道に立ち、ゆっくりとバックしていくタクシーを、しばらくの間見送った。それから、目的地に向けて歩き出す。細い道の両側は竹林だ。竹林が途切れると木造の屋敷が建っていて、また竹林がある。屋敷と屋敷の間隔は、隣りと言っていいのか迷うほど離れている。何軒か前を通ったが、どこも塀がないので庭先が見えた。洗濯物が干してあるところや、2、3頭だが牛を飼っているところもあった。
風もなく、何の音もしない。ただ、歩く。どれだけ時間が過ぎたかわからない。ふいに竹林がなくなった。そこは更地だった。やっと実家のあった場所にたどり着いた。そして、探さなくても目の前に、それはあった。
満開の八重桜。ひっそりと、誰に見せるでもなく咲いている。立派な幹から枝がいくつも分かれて広がっていて、ふんわりした花が鈴なりだ。
かつて、この桜を両親は見たのだ。
桜の前で立ち尽くしていた私は、ようやく鞄から父の写真を取り出した。もう1枚、母の写真も。
母は私に看病をさせてはくれなかった。脳に腫瘍が見つかり、あっけなく逝った。
今、両親に見えているだろうか。写真を向けても、何の意味もないかもしれない。けれども、私もこの八重桜を見たかったのだ。
きれいだね、お母さん。
(了)
故郷の桜 @yokonoyama
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