19*約束と恋物語と -02-
ジェシカは、ぽつりと言葉を零す。
「私の方が、迷惑をかけてしまったわ」
「……?」
グレイは少し首を傾ける。
理解できなかったからだろう。
ジェシカはぱっと笑顔に戻る。
すぐに「なんでもないわ」と返していた。
そんな彼女の様子に。
グレイは何か言いかけるが。
「ジェシカお姉様は先生なの?」
急に真後ろからメイベルに声を掛けられ、グレイは身体をびくつかせる。驚いたようだ。それでも声を出さない辺りはさすが彼だろうか。
メイベルはきらきらした瞳を向けている。
グレイは明らかに困惑していた。
「先生、ですか」
「さっき色々教えてほしいって言っていたじゃない」
「それは……」
「ちょっとしたことをお教えしただけですわ」
ジェシカが苦笑しながら説明した。
城下や近くの公園に一緒に行ったことがあるのだが、今何が流行っているのか。どういうものがお店で売り出されているのか。公園にある植物や花の名前は何なのかなどを、ジェシカがその時に教えたのだ。
グレイは国の歴史や剣術等に関しては詳しいが、それ以外は知らないことが多い。子供でも知っているようなことを、彼は教わらずに育った。教わる前にリアンに引き抜かれた、といってもいい。
ジェシカが教えると、彼は子供のように目を丸くした。まるで、知れることを純粋に楽しいと思っているように。本人は自覚していないかもしれないが、ジェシカにはそう感じられた。
それを聞いたメイベルは「そうなのね」とにこにこしている。口元を緩ませながら、グレイに話しかけた。
「グレイは最近ジェシカお姉様と一緒にいるわよね。お姉様に対して恋慕は持たないの?」
「え」
ジェシカは思わず声を出してしまう。
対してグレイは何度か瞬きをした。
メイベルは大胆で行動的な人だ。リアンとよく似ているかもしれない。二人とも、自分の意見がしっかり言える。だがまさか、こういうこともストレートに聞くとは。
周りから噂されることはあっても、直接聞かれたことはない。貴族は特に噂話が好きな人が多いから。ジェシカは反応に困っていたが、彼は正直に答えていた。
「自分にはよく分かりません」
「おい。俺の側近に余計なこと言うんじゃない」
話が聞こえたのか、リアンが真顔で止めに入る。ロイとアイリスもこちらに顔を向けていた。メイベルの質問に、二人とも興味があるような様子だった。
リアンが話を遮ろうとするが、メイベルは引かなかった。愛しのジェシカに関係することだからか「お兄様は邪魔しないで」と、彼女もいつの間にか真顔になっている。普段笑顔が多いので、その表情だとかなりの圧だ。思わずリアンは怯んでいた。
「グレイ。あなたの境遇は理解しているわ。ジェシカお姉様と知り合って間もないこともね。でもね……ジェシカお姉様はこの国一番の美人で心遣いまで美しい人なの!」
「「「…………」」」
力の入ったメイベルの声が響く。
「そんな女性が近くにいて何も思わない男性がいるなら見てみたいわ! わたくしだって惚れてしまいそうだもの!」
「お前の場合はもう惚れてるようなもんだろ」
「まぁそうですわね」
こほん、と咳払いをしていた。
「とにかく。今ジェシカお姉様の一番近くにいる男性はグレイでしょう? ぜひ恋と愛について知って欲しいわ」
その言葉にリアンはぎょっとした。
ジェシカも若干顔が引きつっている。
誰しもが惚れてしまうほど素敵な女性の側にいて何も思わないわけがない。だからまず恋と愛について知れ、というのは、少し無理やり過ぎないだろうか。
友人になりたいとジェシカが申し出た時は、好きになる可能性もあるだろうと、リアンにもお伺いを立てた。彼のためにも。想像以上に友人としての関係が居心地良く、グレイも普通に接してくれている。このままの関係性が続くだろうと思っているのに、妹姫によって色々こじ開けられそうになっている。
それに気付いたジェシカとリアンは目で会話をする。今彼に、わざわざ恋愛について教える必要があるのかと。
「グレイは恋も愛もよく分からないのよね?」
勝手にメイベルが聞いていた。
彼は「はい」と素直に頷く。
「手っ取り早く知る方法があるわ」
言いながらパチンっと指を鳴らす。
すると急に部屋のドアが開き、女性騎士が入ってくる。どうやらメイベルの側近らしい。どこからか本を取り出し、何冊かメイベルに差し出した。
メイベルは乙女的な思考も持ち合わせている。恋愛小説が愛読書のようで、側近に常に持ち運ばせているとか。その噂は本当だったようだ。
彼女は一番上にある本を手に取る。
「一番お気に入りの恋愛小説よ。ぜひ読んでみて」
「おいっ。俺の側近に勝手なことするなっ」
「本は知識を与えてくれるわ。これらの内容を得て、改めてジェシカお姉様のことよく考えてみて。きっと何かしら感じるものがあると思うわ」
「メイベルっ!」
「メイベル殿下。私を買って下さるのはありがたいですが、グレイにだって好みはありますわ。そこまでされなくても……」
ジェシカもそっとリアンに加勢する。するとメイベルは「あら」と心外そうな顔をしていた。
「グレイ。ジェシカお姉様のことは嫌い?」
「嫌いではないと思います」
「ほら。嫌いではないから大丈夫だわ」
「そういうことでは……」
リアンとジェシカが抵抗してみても、メイベルは聞こえていないのか受け入れていないのか、にっこりとただ笑っているだけ。何を言っても変わらないことが決定してしまい、二人共無言になっている。
メイベルに本を手渡されたグレイは、しばらく本を見つめていた、そして、そっと受け取っていた。リアンは側近の行動にショックを受けるような顔になる。
「グレイ、なんでだ。恋愛小説なんか興味ないだろ」
「なんかってなんですのなんかって」
メイベルが口を尖らせる。
グレイは迷うように視線を動かす。
ゆっくり口を開いた。
「知らないことを知れるのは、面白いことだと思いました」
ジェシカはその言葉に感動する。自分が伝えたことが、彼にとっていい影響を与えているのなら。教えた側も嬉しさが募るものだ。
「さすがグレイ! もう一冊お貸しするわ」
言いながらグレイに手渡している。
彼はそれも受け取っていた。
「主の役にも立つと思いますし」
「っ、」
リアンは言葉に詰まる。
正直恋愛を学んだところで何の役にも立たない、と言いたいのだろうが、グレイの場合は純粋な忠誠からくるものだ。最終的に渋々受け入れていた。ジェシカが友人になりたいと言った時も、リアンはそれが彼の成長につながるだろうと判断し、許してくれた。臣下想いなのが伝わる。
「ああ、そうですわ」
急にメイベルが思い出したような声を出す。
「恋と愛についても、ジェシカお姉様に教えてもらったらいかが?」
ジェシカは耳を疑った。
「きっと様々な経験がありますわ。小説だけでは分からないことも、きっと知っていると思いますし」
確かに知識や経験がないわけではない。リアンに頼まれてこうしてアイリスの補佐をしているし、よく令嬢や仕事場の女性達から恋愛相談をされることもある。だがそれは皆、恋というものが何か分かっているからだ。グレイはそれを、知らない。
本人だって望んでいるわけではない。そう思っていたが、彼の瞳に少しだけ、好奇の色が見えた。何か知れるのだろうかと、期待しているように。それが自分のためにも、主人のためにも役に立つのだろうかと、考えているように。
ジェシカはそんな姿に、少し動揺した。
「殿下、そろそろ打ち合わせをしないと。この後も予定が詰まっているのではないですか」
ジェシカが何も言えないでいると、アイリスがそう声をかけていた。リアンが「ああ、そうだったな」と返事をし、一旦その場は保留となる。メイベルは目的を果たしたからか、いつもの元気な姿であっさり帰ってしまった。
それを見送ったジェシカは。
やっと息ができるような気がした。
「当日行くのは俺とロイ、アイリス。護衛はガクに頼む予定だ」
「ガク殿に頼むんですか? グレイではなく?」
アイリスが不思議そうな顔をする。
ガクとは、リアンのもう一人の側近。
普段は隠密行動を取っている人物だ。
グレイが表の側近であればガクは裏の側近。隠密なので、誰も姿を見たことがなく、名前しか知らない。だがリアンを始め王族の前には姿を現すらしい。隠密なので神出鬼没であり、王族に対して助言をすることもあるのだとか。臣下という立場なのに、王族に対して気安い間柄のような気もする。
ちなみにリアンが城下へ変装して出かける時は、見えない位置から守っているそうだ。だからリアンは気兼ねなく城下へ遊びに行っている。この自由が許されるのも、優秀な側近のおかげだろう。
ガクの姿はアイリスも見たことがない。男性らしいが年齢はどれくらいなのか。少年なのか青年なのかそれとも年長者なのだろうか。想像ばかりしてしまう。
それにしてもグレイと一緒ではないとは。
ガクと一緒の方が動きやすいからだろうか。
と思っていると、少しだけ渋い顔をされる。
「グレイは顔が良すぎるだろ。王子なのに俺がかすむんだよ」
「え。今更……」
「おい何か言ったか」
グレイの顔が端正なのは今更だ。だがリアンだって別に劣っているわけではない。種類が違うと言えばいいだろうか。グレイが美青年ならリアンはどちらかというとワイルド系。形のいい眉に活発そうな赤い髪。俺様な性格も合わせて男らしいとも言える。
「『深窓の姫』にもご挨拶をするんですの?」
ジェシカが自然な流れでそう聞いた。
彼女は紅茶に手をつけていた。
するとなぜかリアンが凝視する。
「なんでそう思う」
「レナード殿下にお会いするなら、妹君にもご挨拶をされるのかと思いまして」
穏やかな笑みと共に答えていた。
リアンの目力に動じていない。
レナードは女好きで自由人だが、彼の妹は国の未来のため勉学に励む、真面目な人物のようだ。あまり公に姿を現さず、世俗的な物に全く染まっていないという意味でも「深窓の姫」と呼ばれている。
「……さぁな。俺もあんまり会ったことがないから」
なぜか少しだけ不機嫌な様子だった。
それよりもアイリスは別のことが気になる。
「ガク殿はどのように護衛されるんですか」
「いつも通り隠密行動だ」
「では姿は見せないと?」
「ああ。アイリスは俺の側近みたいなもんだろ。別に問題ない」
「ええ……」
つまり表では側近役をしろということか。
ガクに会えるかもしれないと少しだけ期待していたのに。
「俺が隣国に行ってる間、グレイのことはジェシカに頼むぞ」
「え……?」
ジェシカは珍しく呆けた声を出す。
「俺がいないと暇そうだからな。よろしく頼む」
「お願いします」
グレイが律儀に頭を下げていた。
「え、ええ」
ジェシカは小さく笑って頷く。
だがどこかぎこちなくも映った。
(……ジェシカ?)
メイベルから恋愛について教えてもらったどうか、という話が出た時、彼女は明らかに困っている様子だった。だからアイリスは話を逸らしたのだが、少し意外だった。いつものジェシカなら、喜んで教えてあげそうな気がするのに。
当日の段取りの話になり、全員で共有する。
それが終われば、リアンは最後に確認してくる。
「二人共、準備はできているか」
「一応は」
「できることを行うだけです」
アイリスとロイが順に口にする。
(もうやるしかないわ)
準備は色々してきたため、アイリスはどこか開き直っていた。ロイへの気持ちを自覚したことで、さらに気持ちは強くなっている。後は素直でいることだけだ。
リアンはふっと笑う。
「まぁお前達なら大丈夫だろ」
「……いやそもそも私の話をレナード殿下にしなければこんなことにならなかったでしょう。今後はこういうのやめて下さいよ」
「口やかましいなぁお前は。まだ言うのか」
「誰のせいだと思ってるんですか」
結局最後までぎゃあぎゃあ言い合いになった。
それをロイとジェシカは苦笑しながら見つめる。
グレイはいつものことだと、さして気にしていなかった。
「いよいよ明日だな」
「そうですね」
アイリスとロイは並んで歩いていた。
明日の朝は早い。身支度だけでなく心の準備をするためにも、早めの解散となった。明日には隣国に行くわけだが、どこか実感がない。この一か月が思ったより濃かった。そのせいかもしれない。当日になれば自ずと緊張するだろうか。
「アイリス。約束してほしいことがある」
「?」
首を上げれば、微笑まれる。
「絶対に無理はしないこと。俺を頼ること」
アイリスは頭の中で言葉を反復する。
「無理をする場面とは……?」
「レナード殿下のことだから、無理難題なことを言われる可能性はある。でも無理はしなくていい。俺がフォローする。だから一人で突っ走らないように」
確かに何が起こるかは分からない。
レナードはただの女好きではない。
観察眼があり、話術もある。だから女性達は虜になるのだ。だから少しだけ不安なのだが、ロイはどっしり構えている。その姿が頼もしく、素直に委ねようと思える。アイリスは頷いて「分かりました」と伝えた。
「嫌なこともちゃんと嫌だと言うんだぞ」
「ロイ殿にされて嫌なことはありませんよ」
思わず笑って口に出してしまう。
言った後で自分で気付き、少し慌てた。
(気が緩んでた)
我ながら恥ずかしいことを口にしてしまったと思うが、事実なのだから仕方がない。だが社交界でロイにされたことも嫌ではない、ということを示してしまった気がする。アイリスは一人脳内で叫んでしまう。だが誤魔化しようもない。自分の気持ちがバレてしまうのではと、焦ってしまう。
「――本当に?」
彼の足が止まった。
向かい合うような形になり、いつの間にか頬に彼の手が添えられる。真剣な目をしていると思うと逸らせなくなって。アイリスはロイを見つめてしまう。
思わず唾を呑んでそのまま待っていると。
添えられた手がゆっくり動く。
アイリスの頬をつねった。
「?」
アイリスは目をぱちくりさせる。
なぜかほっぺが引っ張られている。
するとロイは「ふ」と声を漏らす。
「???」
(なにこれ)
眉を寄せると「ふはは」とさらに笑われてしまう。人の頬をつねって笑うとは一体どういうことか。まだ笑い続ける相手に、アイリスは思わず半眼になる。
「なんでひゅかこれは」
「ふ。はははっ」
「もうっ」
思わずロイの手を掴んで自分のほっぺから離す。
こんな目に遭うなんて聞いていない。
しばらくロイは笑っていたが、やっと落ち着いたようで、深く呼吸を繰り返していた。ロイに触れられて心臓が鳴り出してたのに、いつの間にか落ち着いている。若干冷めた。
じっと睨み続けると苦笑される。
「こうされても嫌じゃないかと思ってな」
「急に笑われたことは嫌でした」
「すまなかった……」
すぐに頭を下げてくる。
「アイリスとリアン殿下の関係が、俺にはやっぱり羨ましく思えてな」
「ああやって言い合うことですか? 私は殿下にもっと大人になってほしいと思っていますが」
人を平気でこき使うし、自分の悪いところは認めない。年齢的に少しは落ち着いてほしい。思い出してはむっとしてしまう。ロイは「そうだな」と肯定してくれた。一番の大人はやっぱりロイだ。
アイリスは思わず腕を伸ばす。
自分がされたのと同じように、ロイの頬をつねってみた。本来なら絶対にしないのだが、彼がリアンのような関係性を羨むなら、仕返しをしても許される気がしたのだ。
すると目を丸くされる。
「嫌ですか?」
聞けばふっと笑われた。
「急だと驚くな」
「でしょう?」
「でも」
頬にあるアイリスの手に重ねるように手を置く。
そのまま軽く握られた。
「アイリスなら嫌じゃない」
「ではおあいこということで」
早口でそう伝えた。
思ったより積極的なことをしてしまった。
その恥ずかしさを隠そうとする。
二人はしばらく見つめ合うが、甘い雰囲気というよりも、明日を乗り越える戦友のような眼差しだ。それぞれ秘めた心を隠すように、気合いを入れている。
「明日はよろしくお願いします」
「こちらこそ。初めての共同作業だな」
夫婦みたいなことを言うと思いながらも、アイリスは黙っておく言えば婚約者だろうと返されると思ったから。その関係は、期限付き。明日までだ。
自然と互いの手が離れた。
「ではまた明日」
「ああ、また明日」
二人はそれぞれの寮に向かう。
隣国へ向かうことよりも。その後、相手に気持ちを伝えることに対して、早くも意識し始める。関係が変わるのか変わらないのか。どちらにせよ、後悔のない選択肢をしたいと考えた。
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