第5話 人は迷うからこそ崇高なのである

「なるほど。全体最適と、個人の幸福、か」


 クミコは、アイコやレミとのこれまでの経緯を話した。何も隠すことはない。大神父様にすべてを打ち明け、この葛藤を伝え、そして・・・私の行いが過ちならば、懺悔するつもりだった。神父は時折、軽く相づちを打ちながら、その包み込むような優しいまなざしをクミコに向けていた。話を聞き終えた神父はあご髭をさすりながら、少し中空をみた後、話し始める。


「思うに、全体の最適と全人類の幸福は、二項対立ではない。全ての人の願いを受け入れる懐の深さをこの世界は持ち得ておると思う。もし調和が、誰かの不幸の上に保たれるのだとすれば、それは誤った形で調和が取られようとしているのではないかな?神はそのような調和を望まれてはおらぬじゃろう。じゃが最近の趨勢を見る限り、確かに世界は間違った方向に進もうとしているように見える」


神父は祭壇の前で立ち止まり、聖マリア像を見上げる。


「シスター・クミコ。そなたが、いま話してくれた件も含め、これまでわしに打ち明けてくれたこと、それは神に選ばれたごく一部の人間だけが知りうる世界のことなのじゃろう。このようなちっぽけな人間には到底、想像も及ばぬ世界。じゃが、これだけは言える。先ほども言ったように、何かが一方的に犠牲になるようなことは神は望まれておらぬはずじゃ。調和も然り、人も然り。もし、アイコさんというお方が、望まぬ役目を強いられる、そのような事態が起きているのだとすれば、それは何か、良からぬことが-おぬしの言うそのシステムに起きているのかもしれぬ」


私が間違っているのではなく、神の作りあげたシステムに何か問題が起きている・・?もしかするとシステムは本来の姿ではないのかもしれない?―その可能性は考えもしなかった。神の作り上げたシステムは絶対で完璧であり、綻びが生じるはずもない。そう思い込んでいた。もしもシステムに何らかの問題が生じたのだとすれば、それはどのような問題なのだろうか?そしてその問題を引き起こしている原因は?たとえばシステムの番人たる守護者達にも何か関連することがあるのだろうか・・いや・・それはさすがに行き過ぎた想像だ。その可能性と私の誤りを天秤にかければ、やはり、私が間違っていた可能性のほうが遥かに高いだろう。能力の喪失がなによりもそのことを示してしてる。

そんなクミコの心の声に答えるように神父は言葉を続ける。


「それともうひとつ。人の成長には絶え間のない内省が欠かせないのじゃ。なぜなら自問する機会を持てなければ、人は過ちに気づかず、一方向に猛進していくからじゃよ。人は弱い。己の自我に溺れることなく、欲望に打ち勝つのは容易なことではない。たとえ周りの人間が止めようとも、忠告を真摯に受け入れる心がなければ、破滅の道をひた進むことになるかもしれぬ。従って人を立ち止まらせ、内省するための抑制装置が必要になるのじゃ。そして、その役割を果たすのが迷いや葛藤なのじゃ。神はそのような苦しみを人間に与えられた。しかし、その苦しみは畏怖すべきものではない。むしろ進んで受け入れるべきものじゃ。神から与えられた苦しみを克服することにより、自己が深まり、より高次の存在へと導かれるのじゃ」


柔和な笑みを浮かべ、神父は続ける。


「わかるかな、シスター・クミコ。つまり、迷いや葛藤が生じるのは、人間が崇高な存在であることの証なのじゃよ。そなたが、守護者様の導き手として選ばれてもなお、そのことを妄信せず、絶えず自問自答を続けたことに、そして今もなお、大きな葛藤と向き合っていることに対し、わしはむしろ敬意を表したい」


神父の言葉には勇気づけられる。しかし・・


「神父様。お言葉は大変励みになります。しかし・・それでも私はわからないのです。人の最高位に近い存在である導き手が、このような暗がりに迷い込むことなどあるのかと」


神父はクミコから視線を逸らし、聖堂の奥に広がる闇を見つめる。


「ふむ・・邪推かもしれぬが、もしや神はそなたに意図して気づきを与え、何かを託されたのかもしれぬな。・・・神は救済を求めているのかもしれぬ」


神が私に救済を?一体どういうことなのか。人を救済するはずの神が、人に救済を求める?頭が混乱した。しかし大神父様は、何の根拠も無しにそのようなお言葉を発せられることは無い。これまでの私の話を聞き、何か危機の予兆を感じ取られたのかもしれない。大神父様と話しているうちに、だんだんと私が成すべきことが見えてきた気がした。それまで自責の念で埋め尽くされていた視界に、まったく異なる光が差し込む。私は行動を起こさなければいけない、何かがそのように急き立てる。


「何れにせよ、わしが言えることは一つ」


神父は力強い眼差しで、再びクミコを見る。


「己の信じる道を進むがよい」


私は、私の信じる道を進む。

・・・彼の元へ行かなくては。彼に、私の知りうるすべてを伝えるのだ。

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