第23話 フロー

「こっちだ」

 フローと呼ばれていた小柄な男に連れられて、彼が自分の縄張りだと呼ぶところまで走ることになった。

 罠かと疑いたくなるが、やはりおれらにはこれ以外に行く先がない。ちらりとアベルの横顔を盗み見る。盗み見たはずなのにバレたらしく、アベルはおれに悪戯っぽい視線を向けた。こんなことになっているのに余裕綽々な表情。不本意ながら少し安心する。アベルもおれと同じことを思っているみたいだったから。

 

 角を曲がって、細い路地を渡って、また路地裏に潜って。階段を下りたりしているうちに、やがてその一角でフローは足を止めた。目の前に広がるのは壁と道だけ。別に行き止まりでもない。

肝心のフローはというと、辺りを警戒するようにじろりと視線を巡らせているところだった。どこかびくびくしていて、小柄なこともあって年端もいかない子供のような仕草だ。

「……この辺りにおれら以外の気配はない」

 おれが事実を述べるとフローはうるせえ、と吐き捨てた。しかし言葉は信じてもらえたようで、その煙水晶の瞳に滲む警戒の色がほんの少し緩んだ。とはいえ、片割れの琥珀の瞳からは警戒の色が抜けていないようで。

「それで? ここはどこなんだ」

 アベルが慎重に問うが、フローはてんで聞いていなかった。

「うっせえ。静かにしろ、ガキ」

ガキはお前だろうと思ったけれど、言葉が通じなさそうだったので口を閉ざす。無意味なことはしない主義だ。


 ちゃかり。

 金属の輪に通された何本かの鍵が男のシャツの下から出てきた。首にネックレスのようにかけていたらしい。さぞかし用心深いことで。

 慣れた手つきで男はそのうちの一本を煉瓦と煉瓦の隙間に差し込んだ。壁かと思えば、ここは扉だったらしい。しかも鍵付き。男がいなければ確実に通り過ぎてしまっていただろう。

 かちり。

 静かな路地裏に鍵の開く音がした。次いで、ずりずりと重たい扉の開く音。

「ここはおいらの縄張りさ、滅多に人は来ない」


 案内されたのは細長く狭い、物置のような部屋だった。ソファーとテーブルと大きめのベッドが粗雑に置かれている。辛うじて小さな窓はあるが、それでもこの部屋は少し黴っぽい。隙間風はあるので窒息することはないだろうが、嫌に閉塞的な部屋だ。生活感が皆無なので住処ではないのだろう。

「ここはお前の家なのか?」

 試しに訊いてみると、フローはすぐに首を振った。

「いんや、客人もてなし用の部屋だな。金品はないから、おいらを脅しても何も出ないぜ」

「だろうと思った」

 この警戒心の強い男がそうやすやすと自分の寝床に案内するとは思っていない。最悪おれらを袋叩きにして消すための場所に案内されると思っていたので、これは思ってもいない好展開だ。アベルも驚いているようで、どこかそわそわしている。もっとも、アベルは動揺を隠すのが得意だから、フローには一抹も伝わっていないだろうけれど。


 はあ、とフローは気の抜けた返事をしながら短い指でソファを指した。「ま、その辺に座れよ」

 男の言う通りにソファに座る。少し埃が舞った。けれど久方ぶりに座れて力が抜ける。追われてばかりだったから、心安らかに座れるだけでありがたいのだ。

「とりあえずさっきは助かったから礼を言う。おいらの名前はフロー」

 そう小柄な男は名乗った。もうとっくに知っていたけれど。


 そこでふとマスターの言葉が蘇った。

 ――名前は役割を表すんだ。

 たしかそんなことをマスターは言っていた。ならばフローという名にも意味があるのだろうか。生憎フローという単語には聞き覚えがなかったのだけれど。


「まあ、これがおいらの本名かは知らねーけどな。ここでは本名を名乗らないか、持っていない奴が多すぎるからな。だからここでは名前なんて意味がねーんだ」

 へへ、とどこか品の欠如した笑いを零した。しばらくこの男を観察しているが、全く読めない。探ろうにもするりするりと漂うように躱される。ただのバカかと思えば、たまに核心を突いた言葉を零すこともある。年齢さえもわからない。

 この治安の悪い路地裏を自由に動いている男だ、侮ってはいけないのだろう。ちらりとアベルの視線を向けるが、アベルの瞳にも警戒の色がまだ色濃く滲んでいた。


 そんなおれらの思惑なんて知らないだろうフローは腕を頭の上で組み、ほんの少しおれらを見上げながら問うた。

「ま、とはいえ便利だから一応聞いておくか。あんたらの名前は?」

 アベルと視線を交差させる。意思疎通はそれだけで十分だった。アベルは親指で自身を指し、次いで人差し指でおれの方を指した。

「俺はアベルで、こいつはカインだ」

 かつてのようにもう入れ替わりごっこはしないのだ。そこに湧き上がった感情は寂しさ、懐かしさか、それとも。


 アベルの名乗りにふうん、とフローは胡乱な視線を寄こした。偽名っぽさを拭えないおれらの名前を彼はどう思ったのだろうか。そもそも彼は聖書なんて知っているのだろうか。ここに宗教は浸透しているのだろうか。

 しかしフローはあっけらかんと言った。

「ま、名前はなんでもいっか。そんで旅をしてるって言ってたが──」

 きろりと煙水晶の細い瞳が値踏みするようにおれらを捉えた。

「──あんたらは国の外からきたのか?」

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