第20話 子どもが転んだ

 翌朝、奪った干し肉を食べ尽くし、おれらはまた表通りへと出ていた。食糧調達と情報収集のためである。裏路地はこの前追い剥ぎをした男らに遭遇すれば厄介なので、しばらくは避けたかった。

 表通り。白い石畳が眩しい。でも、昨晩奪った服のおかげで人々の好奇の視線を受けることはなかった。

 かたりかたりと、石畳を歩く。足から伝わる硬い感触が新鮮だ。ユートピアに石畳はなかった。それよりも。

 ぐう。

 おれとアベルの腹が同時に鳴った。

「腹が減ったな」

「ああ」

 腹が減れば口数だって減るというもの。おれはなんとはなしに露店で売られているパンをこっそり失敬してアベルに渡す。ユートピアで食べていたものより幾分か柔らかいパン。躊躇わず口に含んだ。ふんわりとした小麦の香りが口いっぱいに広がって、腹の虫がさらに主張を激しくする。美味い。

「はっ、悪い奴」

 そう言いながらアベルはチーズをひとかけら手渡してきたので、お互いさまだ。行儀悪く、歩きながらパンとチーズを齧る。もう罪悪感なんて感じなかった。ユートピアにいた頃からこの手の悪戯は何度かしてきたので。食事が足りないのであれば奪う。与えられるのを待っているだけでは、それは生きているとは言えないんじゃないか。おれはそう思う。そう思うことにしている。

「そういうのを屁理屈っていうんだって」

 アベルがによによしながら言った。うるせ、と答えておれも笑った。

「喜べ、アベルも同類だ」

 そうして最後の一口を飲み込む。少し物足りないが、でも満足だ。満足ということにする。だって、満足を知らなければ幸せにはなれないのだから。

「万物に感謝を、ご馳走様でした」


 でも、そんなおれらを誰もみてはいなかった。誰もが必死だ。ここは貧困層の集まるエリアなのだろうか。みんな生気のない目を不自然にぎらつかせていて、自分の暮らしに精一杯といったふうだった。誰もが足早にすれ違っていく。逆に助かった。


 ふとその時、目の前で子どもが転んだ。

「あ」

 それはもう、派手にすっ転んだのだ。齢五つほどの小さな少年がべしゃりと地に伏した。とてとてと拙い足取りで走っているうちに石畳の亀裂に足を取られたのだろう。少年はすぐには起き上がらない。

「どうする?」

 ここから少年までの距離は十歩程度。この大通りで一番近くにいる人間はおれらだ。ちらちらと好奇の視線を感じる。子供がどう行動するかと、おれらが子供にどう動くかという好奇。困ったな。


 ここで助けてやるのは優しさなのか、優しさではないのか。少なくともおれらが目の前の少年くらいの歳だった時は誰も手を差し伸べてくれなかったし、おれもそれでよかったと思っている。だって一度助けられたら二度目を望んでしまうから。それでは強くなれない。おれらは強くならなければならなかったから、助けがなくてよかったのだ。

 だから、おれらは動かない。中途半端な救いの手なんて始めからない方がいいのだ。


 少年は自分が転んだことを理解できていなかったようで、むくりと起き上がった後もぼんやりと呆けた顔をしていた。しかし、視界に自分の手から流れる赤い血を見たかと思うと、

「マ、ママ……!」

 大声で泣き叫び始めた。ぴいぴいと甲高い鳴き声が大通りに反響する。道ゆく人もなんだなんだと足を停めたり怪訝そうに見たりしている。

 途端に駆け寄ってくる人影が一つ。母親だろう。今まで買い物をしていたと思しきふくよかな女は一目散に少年の元へ駆け寄った。

「はい、泣かないの。あんたは無事だって。強い子強い子、ほらママはここにいるから」

「ママ……」

 少年は泣きながら母親の腕に抱かれていた。少し泣き声が小さくなる。彼はそのまま抱え上げられて、どこかへ連れられていった。

それでおしまい。なんだなんだと野次馬になっていた人々も散って、それぞれの暮らしに戻ってゆく。おれらに戻る場所はなかった。


 そんなひとの流れを見ながら、アベルがぽつんと言った。

「知ってるか、カイン。ママっていうのは母親の呼称だ」

 アベルはおれをなんだと思っているのだろうか。それくらい知っている。でも、たしかにユートピア内で「ママ」という単語は一度も耳にしなかった。おれらにそんな存在はいなかった。

「……ママくらい知っている。本で読んだ」

「へえ、カインはそう言った文学は好きじゃないと思ってたけど」

 たしかに好きではなかった。半端な物語を読むと妙に寂寞を覚えて仕方がなかったから。手に入らない現実を突きつけられているようで。でも、それとこれは別だ。

「好きじゃなくても読むさ。知識は必要だからな。どんな些末なことでも」

「それは俺の、『頭脳』の役目だと思ってたけど?」

「たしかにおれは手足で、アベルは頭脳だ。けれど、それだけじゃないだろう? おれだって最低限の知識はつけるさ」

 ほう、とアベルは腕を組んで挑戦的な笑みを浮かべる。

「それは結構なことだな。俺に頼ってくれてもいいのに」

「頼ると依存は違うだろ。だからアベルだって最低限の鍛錬は欠かさないんだろう? 頭脳といったくせにそんじょそこらの暴漢には負けないくらいには鍛えているじゃないか」

「はは、買い被るなって」

 今朝もなかなか起きないおれをヘッドロックで殺――起こそうとしたやつが何を言っているんだと少し呆れる。馬鹿力のせいで起きるどころかあわや永眠するところだった。これはユートピアにいた頃からの習慣であるが、力が年々強くなっているのでタチが悪い。

「それはカインが起きないのが悪い」

 なんて見透かしたように笑うから、おれもつられて笑った。おれらに母親なんて必要なかった。ほしくもなかった。だって、今で十分なのだから。


 そうしておれらはどんどん普通から乖離していく。とっくの昔から始まっていたんだから、今更か。

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