期間限定のアベル

淡青海月

第1章 ユートピア

第1話 夢とユートピア

 微睡みの、ヴェールのようなぼやけた輪郭が好きだった。

 だってここでは何者にならなくてもいいのだから。


「──カイン」


 名を呼ばれた。おれを夢から現実に引き戻す名前。いやだ、と直感的に思った。このまま夢の海に揺蕩っていたい。

 何だかとてもいい夢を見ていたような気がするのだ。どこかの楽園で幸せに生きるというような、そんな空想的で幸福でどこまでも曖昧な夢。

 楽園なんてあるはずがないからこそ、その夢がしあわせだったのかもしれない。もっと幸福に酔いしれていたかった。酒に酔ったこともないけれど。


「カイン」


 また記号なまえを呼ばれた。おれに与えられた役の名前。まとわりついている億劫さを何とか押し切り、返事をする。

「いま、起きるから」

 なんだか今度こそ起きないといけないような気がしたのだ。寝ぼけた頭ではそれがどうしてかは分からない。けれど直感だった。生存本能に近いのかもしれない。

「……おはよう、アベル」

 気だるい身を起こして挨拶をすると、まだあどけなさを残した少年が微笑んだ。黒髪に琥珀の瞳が特徴的な少年はアベルという名を持ち、おれと全く同じ顔をした双子の片割れである。


 カインとアベル。


 捨て子だったおれら双子につけられた記号なまえ。おれがカインで、片割れがアベル。この名に馴染んでもう随分と久しい。

 本名は忘れたし、知らないし、そもそも元から無かったのかもしれない。おれらは親の顔も知らないのだから。


 ♢


 ここは『ユートピア』と名のついた、平等を基本理念としている五十人ほどの集落である。質素倹約を体現したような色のない円形の建物が、深い森に囲まれただだっ広い草原にこじんまりと建っていた。そこに必要最低限の家畜と、無地の服に身を包んだ人間が暮らしている。

 森に囲まれている所為か、ここは他の国や集落とほとんど交流しない異様なまでに閉鎖的な集落だ。その異様さを知ったのは最近だけれど。だって今まではそれが普通だったのだから。普通がいちばん恐ろしいと言ったのはアベルだったか。

 普通でないといえば、おれらは捨て子である。だから「平等」で回っているこの集落は丁度よかった。なんたって、「平等」には格差がないのだから。蔑まれることも、奴隷にされることもなかった。


「運が良かったよなあ」

 絶え間なく流れる汗を拭いながらおれの片割れ、アベルが呟いた。まるでおれの思考を読み取ったようなやりとりはもう慣れっこだった。

 アベルはおれの思考がわかるし、おれもアベルの思考がわかる。だっておれらは双子だから。

「そうだな。……でも、息苦しい」

 それはユートピアに対する感想だったのだが、物理的におれの息は乱れていた。それはアベルも同じで、激しい運動に息を切らせながら座り込んでいた。


 今は体技の訓練中である。十歳以上の男子なら平等に課せられる、訓練という名の地獄。無地の綿の服に汗が染みて不快だ。

 残念ながら、おそらく十歳を超えたおれらにも今年から訓練が課されるようになった。そしてその訓練は日に日に激しさを増すばかりだった。

 まるで、軍隊を育てているように。


「そこ! 座り込んだ罰でAルート五周」

 マスターという名の体技の教官が怒声を上げている。そこまで大声でないはずなのに、びりびりと空気が震えていた。罰は平等じゃないのかよ、とぶつくさ呟いてアベルが腰を上げる。おれも重い腰をなんとか上げた。正直疲弊のどん底だったが、マスターに逆らうと後々面倒だ。

「承知」

 おれはマスターに伝わる最低限の声量で返事をした。余分なエネルギーは使いたくない。少し伸びてきた黒髪を舞わせ、アベルが走る。おれも走る。

 そうしておれらは平等から一歩だけ外れる。


「はは、目論見通りだな。マスターは単純で助かる」

 走り終わったアベルがやはり汗を拭いながら言った。生ぬるい風が頬を撫でて、ほんの少しだけ心地よい。もうすぐ夏が来るのかもしれない。

 先程おれらが座り込んでいたのはもちろん故意だ。罰によって周囲よりも訓練量を増やすため。この平等の元に管理されたユートピアでは、自分で勝手に走ることさえも許されていない。だから罰として課されるのが体力づくりに最も都合のいい方法だった。

 おれらは、少しでも平等から外れたかった。そして、強くあらねばならなかった。


 アベルの呟きにおれも呼吸の合間になんとか言葉をこぼす。

「そうだな。これで、周りより強くなれたかな」

「なったさ。なれなくちゃ困る」

 おれらの趣味は『平等の環』から外れることだった。

 この集落は平等に固執しすぎているきらいがある。何もかもが平等という規則に当てはめられているのだ。それがおれらの目には酷く珍妙で気味の悪いものに映っていた。

 食事量は年齢と性別ごとに平等。訓練も勉学も余暇も全て然り。一日のスケジュールも同じ要領で決まっている。朝食、訓練、昼食、講義、労働、夕食、湯浴み、就寝。

 『個人は全体のために存在する』。

 だから個人に自由はなかった。個人は全体のために動く駒なのである。平等とはそういうものだ。


「平等、平等、平等。聞き飽きすぎて耳にたこができちまった」

 アベルがうんざりといった表情で吐き捨てると、ゆっくりと立ち上がった。おれもがくがくする膝を叱咤して立ち上がる。深呼吸して呼吸を整え、努めて平気そうな顔で。アベルとの差はあまりつけたくなかった。

 そう、この片割れとはどこまでも同じでありたかった。


「そろそろ夕食当番の時間だな。今日の当番は確か……カインは配膳、アベルは盛り付けだったか」

 アベルが宿舎の方へ向かいながら確認してきた。

「ああ、そうだな。まだマシな当番で助かった」

 ひゅうと風が吹く。その時、にやりとおれらは二人同じ顔をして笑った。アベルの琥珀の瞳が悪戯っぽく煌めいて何だかきれいにみえる。瞳の中に隠された思考はろくでもないけれど。

「じゃあ、であるおれは配膳に行ってくるさ」

 アベルが笑いながら言ったので、おれも「のおれは盛り付けに行く」と笑いながら答えた。


 これも最近の流行り、入れ替わりというやつだ。

 幸か不幸かおれらは双子で容姿がそっくりなので、入れ替わっても誰も気が付かないのだ。ネタばらしをする気はさらさらないが、おれらが楽しいのでこの習慣はやめられない。

 双子を活かしたこの入れ替わりは、平等の環から外れていることを加味しなくても面白い遊びだった。ばかみたい。


「アベル、ここにある皿に全てのスープをよそってくれ」

 同じ盛り付け当番の男がおれに言った。おれはカインなのに、その事実に誰も気が付かない。

「承知。おれはアベルなので」

 おれの珍妙な返事に男は首を傾げる。でも何も言わなかった。おれらは問題児として知られているので、たぶん誰も関わりたくないのだろう。結構結構、全体のためと称して駒のように生きている人間とは、おれも関わりたくない。

「アベル、次はこのパンを――」

 今この場では誰もがおれをアベルと呼ぶ。おれはカインなのに。正確には、「アベルを演じているカイン」なのに。

 享楽の少ないこの平等な、いっそ狂気的ともいえる集落で最高に面白いジョークだと思った。虚しい。

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