シャボン玉のお姉さん

西園寺 亜裕太

第1話

「島沢さん、それシャボン玉っすか?」

あっ、とわたしは思わず声を出す。うっかりしてしまった。バッグの中からタバコを取り出そうと思ったのに、つい間違えてシャボン玉セットを取り出してしまったのだ。小学生が使っているような、ピンクのシャボン液の入ったケースに、緑色の吹き棒のついたやつ。おかげで、大学内にある喫煙スペースで一緒になった、後輩の男の子に笑われてしまった。


「それタバコ代わりに吸ったら良いんじゃないっすか? 健康に良さそうっすよ」

「そうね」とわたしは適当に答えながら、軽くため息をつく。このシャボン玉セットは、目の前にいる軽薄そうな人物に茶化されても良いような代物ではない。わたしにとって、大切な物なのだ。


「ねえ、島沢さん。今日ご飯とかどうっすか?」

後輩から軽い調子で声をかけられて、わたしは首を横に振る。

「やめておくわ」

「ノリ悪いっすね」

ケラケラと笑う後輩の言葉を聞いて、ええ、と面倒に頷く。悪いけど、彼との食事にまったく興味がなかった。


「もしかして、彼氏っすか?」

「違うわ」

「彼氏いないんっすか」

「ええ、いないわ」


彼氏なんて必要ないくらい、大好きな片思いの女性がいることは黙っておいた。これ以上彼に面倒な話はしたくなかった。


これ以上彼と会話をしていてもストレスが溜まりそうだったから、喫煙スペースから立ち去った。明日はとても大切な、映画の試写会の日なのだから、彼に時間を割いている暇なんてないのだ。


一人で家に向かって歩きながら、先ほど取り出したシャボン玉の入れ物を見つめる。小学生の頃によく見た、ピンク色のケースに入ったシャボン玉液と緑色の吹き棒。どちらもどこにでも売っているような普通のシャボン玉セットではある。けれど、これは大切な片思いの相手から貰ったものなのだ。


緑色の吹き棒についている赤い口紅は、もうすでに彼女のものではないのだろう。彼女のつけていた口紅と、できるだけ近い色のものを探して使っているわたしが、とっくの昔に上書きをしてしまっているだろう。けれど、その中に、ほんの少しでも彼女の温もりが残っていると信じながら、わたしはそっとシャボン液につけて、吹き棒を咥えてみた。歩きシャボン玉。フーッと息を吐くとたくさんのシャボン玉が飛んでいく。


「ママ、あのお姉ちゃんシャボン玉してるよ!」

「そうね、綺麗ね」

「うん、綺麗!」

近くを歩く親子に指をさされたけれど、気にせず吹き続けた。


明日は東京に行くから、今日は早く帰って準備をしなければならない。久しぶりに彼女の姿を見られると思うと、ドキドキしてしまう。つい力強く吹いてしまったから、勢いよく小さなシャボン玉が散らばっていく。


「わたしはこんなに楽しみにしてるのに、きっと向こうはわたしのことなんて覚えてないんでしょうね……」

高校3年生の受験に悩んでいたわたしが運命的な出会いをしたあの日を思い出しながら、またシャボン液に吹き棒を浸けるのだった。

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