9 闇
「紗耶、私だよ、せりか。……わかる?」
小鳥遊さんが、正木紗耶の汗ばんだ手を握り、呼びかけた。
「紗耶。具合はどう? 私の声、聞こえる?」
彼女は何度も何度も、友達の名を呼んだ。紗耶、紗耶。別の世界から呼び戻そうとするみたいに。
俺たちは、晶さんの指示を実行する前に、小鳥遊さんの強い希望で正木紗耶の見舞いに来ていた。俺は最初家の前で待っていようとしたが、小鳥遊さんが一緒に来て欲しいというので、しぶしぶついてきた。ちなみに、晶さんはいない。俺が代理だ。
母親は少し怪しんでいるようだったが、小鳥遊さんが適当に言い訳をすると、すんなりと部屋まで通してくれた。あまりに自然すぎて、内容を覚えてないくらいだった。
「……せりか」
突然、信じられないほどに乾ききった声が、かすかに小鳥遊さんを呼んだ。……当然それは、正木さんの声だった。
「紗耶!喋れるの? 無理はしちゃダメだよ」
「せり、か」
もう一度、正木さんは彼女の名を呼び、
「……やっと、あたしを殺してくれるの?」
安堵したように、そう言った。
ガラスが小さく砕けたような悲痛な音は、小鳥遊さんが息を呑んだ音だろう。
……俺は今、今回の事件の被害者にようやくお目にかかったというわけか。部屋の隅から神経を集中させて、ベッドに力なく横たわる正木さんを観察した。
噂に聞くような、快活で誰をも魅了する覇気は、欠片も残っていない。頬はやつれ、目は落ち窪んでいる。ショートぐらいに見える髪は、汗で張り付いて乱れっぱなしだ。呼吸は浅く、溺れかけているよう。……まるで生きながら、死に近づき続けているように見えた。
母親は何度か彼女を病院に連れて行ったと聞いている。内科、心療内科、精神科。ここまでになっても、現代医療は彼女に何もしてやれないのか。「精神的なものだろう」「思春期にはよくあることです」と嘯きながら。
……何故なら、前例が無いからだ。症状があっても、原因が存在しない。検査をしても、異常な脈拍と血圧以外に出てくるものはない。それに、彼女は何の悩みも抱えていなかった。突然こうなったのだ。少なくとも周りはそう言うしかない。
だから医者は何の診断も下せないし、何もできない。……「論文に示された病気以外は、存在してはいけない。それが医学が持つ宿命的な限界だ」。
俺は以前何かの拍子に聞いた晶さんの話を思い出していた。もちろん、その限界こそが医学を医学たらしめ、現代社会を支える礎と成している。
同時に俺は、晶さんが小鳥遊さんに言った言葉も思い出す。「ダメならまた病院に連れて行けばいい」。小鳥遊さんの意思を尊重するための言葉。
しかしそれはおそらく、無駄だ。これまで幾人かの「保持者」に関わってきた俺の直感がそう言っていた。
彼らは……そして彼らの犠牲者は、科学という陽の当たる場所から、決定的に、致命的にズレた場所にいる。そこに渦巻いているのは、小鳥遊さんの言うような……ペテンや悪徳商売、あるいは民間療法といった、低俗で胡散臭く、魔的なモノたちだ。
それらは遠い昔、魔術や呪いと呼ばれていた。
そして現代でも人間は、どんなに用心深く生きていても、あるタイミングで突然、そういう穢れた場所に落ちて出られなくなってしまう。何を信じればいいのかわからない、出口の無い闇に。
正木紗耶とその母親、そして小鳥遊せりかもまた、その闇の中にいる。俺にはそういう風に見えた。
小鳥遊さんと正木さんは、しばらく噛み合わない会話を途切れ途切れに続けていた。
やがて小鳥遊さんが、毅然として言った。
「……絶対に、助けるからね、紗耶」
そして正木さんの髪を少し撫でて、立ち上がった。
「ごめんね辻上君。行こっか」
「ああ……小鳥遊さんは大丈夫?」
「うん」
青白い顔をした彼女の目は俺を見ているようで、見ていなかった。晶さんに従うと決めたときから、ずっとそうなんだろう。
彼女には正木さんしか視えていない。
しかしこの惨状を見れば、頷ける話だ。それに、彼女を手伝っているのは晶さんで、俺はもうただの代理にすぎない。
小鳥遊さんはそれ以上何も言わずに、部屋の灯りを消して、スタスタと正木さんの部屋を出ていった。とても声をかけられる雰囲気じゃなかった。階段を降りていく音が聞こえる。力強い足音。
俺はもう一度、ベッドの方を見た。
血のように赤い夕日が滑り込んできて、部屋の中を、息苦しいほどに満たしている。
せりか、せりか、と、乾いた声が繰り返す。小鳥遊さんが去ったことを、まだ理解できていないようだ。
せりか、もう、あたしを。
「あたしをはなして」
それを聞き届けてから、部屋を出て、静かに扉を閉めた。
俺達はこれから、これ以上なく低俗で、魔的なごっこ遊びをしなければならなかった。
即ち、幽霊退治だ。
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