星の降る部屋
執行 太樹
郵便受けには、中学校からの郵便物が近所のスーパーの広告とともにねじ込まれていた。優美は、雨のせいで少し湿ったその郵便の束を取り上げ、106号室へ向かった。廊下を歩きながら、空いた方の手でポケットから家の鍵を取り出した。家の扉の前には、回らなくなった風車と、花柄をあしらった表札が掛けてあった。表札には、岩橋恵子、優美、芽生と書かれている。
優美は妹の芽生と母親の3人家族である。父と母は、5年前に離婚している。父は下町の小さな会社で働いていたが、会社が倒産し、その日からよくお酒を飲むようになった。そして父は、お酒を飲んでは母に暴力を振るっていた。優美と芽生のいる前で、構わずに母に手を出していた。そんなときは、優美は芽生を寝室に連れて行き、布団に頭から潜り込んで、ただただ黙っていた。芽生は布団の中で、小さく震えていた。そんな芽生を、いつも優美は抱きしめた。近隣の人が警察に通報し、父は母に近づかなくなった。しかし母は、その頃の影響で、統合失調症を患ってしまった。それ以来、母は入退院を繰り返している。今も、ちょうど3日前から入院をしていた。
優美が部屋に入ると、中は薄暗かった。照明はついていない。窓に掛けられたレースが、外の雨雲の薄明かりを透かしていた。梅雨の強い雨が窓をうちつけていた。
「あ、お姉ちゃん。おかえりー」
妹の芽生が、部屋の奥から掛けてきた。優美は、ただいまと応え、部屋の真ん中に置かれたちゃぶ台に買い物袋と郵便物を置いた。芽生は、優美の持っている買い物袋の中を覗き込んだ。
「えー、またうどんー? もう飽きたー」
「ぜいたく言うんじゃないの。」
頬を膨らませている芽生を尻目に、優美は寝室へ向かった。寝室の真ん中には布団が不細工に畳まれ、床にはパジャマが脱ぎ散らかされていた。優美は黙ってそのパジャマを拾い上げ、洗面所にある洗濯機に放り込んだ。寝室にある、ダンボールの机の上には、優美の中学校の教科書が無造作に置かれていた。
優美は今、学校には行っていない。家事と入院中の母の看病をするためだ。母は症状が収まっているときは家族分の食事や洗濯などをしてくれた。しかし、症状が悪くなると、何もできなかった。ここ1年ほどは調子が悪く、頻繁に入退院を繰り返している。そんな母の代わりに優美が家事をするようになった。優美は現在中学2年生なのだが、去年のゴールデンウィーク以降、学校に通えていない。小学2年生の芽生も、今年度に入って以来、登校できていなかった。
優美が中学校に通っていた時、周りの友達と仲良く溶け込むことができなかった。周りの友達は、スマートフォンで遊んでいた。優美は、スマートフォンを持っていなかったため、友だちの話に入ることができなかった。また、優美は小学校の頃から毎日学校に通っていなかったため、勉強が苦手だった。周りの友達との学力の差に引け目を感じていた。次第に、友達などいらないと思うようになった。学校への興味も薄れていった。
優美が登校しなくなってから初めのうちは、ほぼ毎日学校から電話がかかってきた。はじめに優美がその電話に出た時、担任の先生が、心配だから一度学校に来てみないか、と言った。優美は、はいと応えたが、その後学校には行かなかった。母の看病で行けなかった。学校からの電話に出たのは、それが最後だった。それから少しずつ学校からの電話の回数が減っていった。今では、1ヶ月に1回程度しか電話がかかってこなくなった。
優美は雪平鍋に水を入れ、火にかけた。芽衣は女の子のお人形に話しかけて遊んでいる。優美は鍋の中に目をやった。鍋の内側の側面には、小さな気泡が少しずつ現れてきた。その気泡は次第に大きくなり、隣りの気泡とくっついていった。急に大きくなった気泡は、鍋の側面から離れ、ぶるぶると震えながら水面まで上がった。そして、ぱちんと消えた。優美は、その様子をぼんやりと眺めていた。
親戚や近所の人は、優美たちに声をかけることはなかった。優美たちの状況に気がついていなかった。それは、優美が自分の状況を周りに伝えていなかったからだった。優美は、自分たちが置かれている状況を考え、理解することができなかった。自分は今、辛いのか。不幸なのか。そんな事を考える余裕、そして知識がなかった。また優美自身、幼いなりに、周りの人が直接なにか自分たちをサポートしてくれることはないと決めつけてしまっていた。優美は、周りの人へ助けを求める勇気がなかった。助けを求めるよりも、自分が頑張っていけばよいと感じていた。周りの人からの助けは借りない。借りられない。
沸騰した鍋に、優美はうどんを2玉入れた。うどんは鍋の中で踊るように揺れた。優美は箸で鍋の中をかき回した。しばらくして、粉末の出汁を鍋に入れ、またかき混ぜた。ほのかに香ばしい香りが漂ってきた。雨は、まだ強く窓を叩きつけていた。優美は母が入院したときのことを思い出した。
1週間ほど前の夜中に、母が急に叫びながら暴れた時があった。優美は母のもとに向かい、背中を擦った。お母さん、どうしたの、大丈夫だよ。しかし、母の衝動はなかなか収まらなかった。母は暴れながら部屋中のものを投げつけた。窓が割れ、壁に穴が空いた。芽衣は泣き叫んだ。優美は途方に暮れた。そして、近隣の人が部屋に怒鳴り込んできた。
今回の母の入院は、今年に入ってもう5回目になる。お医者さんは、今回は具合が悪いため1週間ほど入院し、様子を見ると優美に伝えた。
「お母さんがいないけど、頑張るんだよ」
お医者さんの言葉に、優美は黙って頷いた。
うどんが茹で上がった。優美は大小のお椀を2つ並べ、そこに出来たうどんを流し込んだ。小さい方のお椀に、少し多めに入れた。
「芽生、できたよ」
優美は、茶の間の真ん中に置かれたちゃぶ台に、お椀を2つ置いた。芽衣はわーいと言いながら、お人形を脇に抱えてちゃぶ台の方へ駆けてきた。優美は芽生のうどんに息を吹きかけ、熱いうどんを冷ましてあげた。芽生は、ちゃぶ台にお人形を座らせている。うどんが十分に冷めたので、優美は芽生に、ほらお食べ、とお椀を差し出した。
薄暗い茶の間で2人だけの食事だったが、楽しかった。芽生は話をするのが好きだった。いつも色々話をしてくれた。優美はそんな芽生の話を、いつもすべて聞いてあげた。部屋中に、2人で温かいうどんをすする音が聞こえた。豪華な食事では決してなかったが、幸せな時間だった。
2人とも食事を終え、芽生が食器を台所に持っていこうとした時、芽生は手をすべらせて、お椀を床に落としてしまった。お椀は床に落ちたはずみで割れてしまった。芽衣は慌てて割れたお皿を拾おうとした。あぶない、と優美が言ったが間に合わず、芽生は指の先を破片で切ってしまった。
「芽生、大丈夫? あぶないって言ったじゃない!」
「だって、お姉ちゃんが困っちゃうの、嫌だったんだもん。わたしも、お姉ちゃんのお手伝い、したかったんだもん」
優美は黙ってしまった。ただただ芽生の目を見つめた。芽生も、芽生なりに私を助けようとしてくれている・・・・・・。
「そっか・・・・・・。芽生、えらかったね。ありがとうね」
そして、ごめんね。優美はそう心の中でつぶやくと、床に散らばった食器の破片を1つずつ拾った。芽生のすすり泣く声が、優美の心に深く響いた。
2人一緒にお風呂に入った後、優美は寝室の壁や天井にシールを貼った。芽生は、それなに、と優美に尋ねたが、優美は寝るときのお楽しみだと伝えた。ずるい、と芽生は言った。
優美と芽生は、いつもは別々の布団で寝るのだが、今日は1つの敷布団に2人くっついて寝ることになった。芽生がそうしたいと言ったからだった。
夏の夜、この部屋は暑かった。コンクリートでできたアパートで、扇風機1つで夜を過ごさなければならなかった。お風呂に入った後だったが、、優美は日中遊んだかのように汗をかいた。
さぁ寝るよ、と優美は言った。芽生がはーいと応え、優美は寝室の電気を消した。寝室が真っ暗になった途端、部屋中に星の光が広がった。うわー、と芽生が叫んだ。プラネタリウムのようだった。寝転びながら、2人はキャッキャと騒いだ。
「お姉ちゃん。あれ、何?」
芽生がある場所を見つめながら言った。
「ああ、あれはおおくま座って言うんだよ。ほら、七つの星があるでしょ」
「へぇー。あ、ほんとだぁ」
「おおくま座の近くに、同じ形のこぐま座っていうのがあるの。ほら、あそこ」
どこ、と芽生が言うので、優美は指をさして教えてあげた。
「あっ、あった」
芽衣は優美の方に向きなおった。
「あのお星さまたち、おんなじ形だね。わたしたちみたいだね」
芽生が優美の顔を見つめながら、そう言った。芽生は笑っていた。
優美は2つの星座を見て、そうだねと応えた。すると芽生は優美に抱きついた。暑いよ、と言いながら、優美も芽生に抱きついた。2人の間に、幸せな時間が流れていた。優美は、いま自分たちは幸せだと感じた。
2人は黙った。そして部屋に降り注ぐ星を見つめた。綺麗だった。全てを忘れられそうだった。優美は少しの間、星を眺めていた。気がつくと、横から芽生の静かな寝息が聞こえてきた。いつの間にか寝てしまったのだろう。優美は芽生の寝顔を眺めた。そして、優美は静かに目を閉じた。
日本には、このような家庭が多くあるということを、どうか知ってください。
この物語はフィクションです。実在の人物や場所、団体などとは関係ありません。
星の降る部屋 執行 太樹 @shigyo-taiki
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