第七話 最期の願い
十
血だらけのフアが俺のそばに膝をついていて、あぁ、良かった、生きていたのかと俺は心の底から安堵した。血の海に倒れていたものだから、てっきり彼女が死んでしまったのかと勘違いしてしまっていたのだ。しかしその胸からはどくどくと血潮が流れ落ちており、彼女ももう先が長くないことを悟る。だから唯一無傷なのはトゥーだけで、彼女は初めて出会った時のように、まるで幼子の如く泣いていた。
「あぁ、イエン、フアおばさん!」
「ごめんなさいねえ、トゥー」
フアは血を吐きながらも、弱弱しく微笑む。
「スガタカクシの格好で訪ねられたものだから、てっきり貴方達が帰ってきたと勘違いして扉を開けてしまったの。だから油断していて、呆気なくやられてしまったわ。ごめんなさいねえ、ごめんなさいねえ」
「私のせいだわ、きっと、私の行動は村人達に知られていたんだわ。だから私とイエンが外に出たのを見計らって、その隙に花を奪おうと襲ってきたんだわ」
トゥーはそう言ってさめざめと泣く。俺はトゥーを慰めたくて仕方がなかったのだが、困ったことに、トゥーの予想は恐らく正しいだろうから何も言うことはできなかった。見計らいでもしない限り、俺達が外に出た時に丁度村人達が侵入してくるなんてことは起こらないだろう。大方、トゥーが俺を外に連れ出すためにスガタカクシの面を作っているところでも目撃されていたのではないだろうか。そういえば、トゥーがつい先程、村が慌ただしいと言っていた。それはきっと墓地を襲撃して死者に咲く花を強奪することを村全体で話し合っていたに違いない。隣町で死の流行病が広がっていると言っていたから、それは十分村全体で話し合うに足る議題であろう。そして俺と友人関係にあると既に知られてしまっていたから、トゥーだけはそのことを知らされていなかった。
「ごめんなさい、本当に、本当にごめんなさい!」
泣いて謝る彼女に俺は何とか手を伸ばそうとしたが、己の手が切り落とされていることに気がつき、仕方なく血を零し続ける口を開く。
「トゥー、どうか泣かないでくれ」
「あぁ、イエン!」
掠れた声しか出なかったが、まだ喋る力は残っているようで安心した。それでも、もう先は長くないだろうが。
「最後に美しい花を見せてくれてありがとう」
「イエン、どうか生きて」
トゥーは血の海に落ちている死者に咲く花の一つを手に取る。
「お願い、食べて」
震える手に握られた純白のそれに、俺は静かに首を横に振った。
「いらない」
「食べないと死んでしまうわ」
「俺はこのまま死んでいく」
「ねぇ、イエン、お願い!」
「墓の守り人として、俺を死なせてくれ」
死者に咲く花を口にすることは禁忌だ。俺は掟を破ることはできても、墓の守り人の存在意義に関わる禁忌だけは決して犯せない。けれども、トゥーは俺の口に死者に咲く花を押し付けようとした。固く閉ざした俺の唇を彼女は無理矢理こじ開けようとする。しかし、それを防いだのはフアであった。彼女は皺の寄った手でトゥーを制したのだ。トゥーはそれに泣きながら、何度も首を横に振る。
「いやよ、フアおばさん! 止めないで!」
「トゥー、お願い。どうかやめてあげて」
「でも!」
「それは、私達にとっては猛毒なのよ」
フアは己の吐き出した血で赤く染まった両手で、トゥーの手を包み込む。トゥーは動きを止め、フアの言葉に呆然と目を見開いた。
「……猛毒?」
「墓の守り人はねえ、血を繋いでいかないといけないの。ただの人間にやらせてはいけないの。それはねえ、墓の守り人が特別な体質を持っているからなのよ。普通の死者が咲かせる花は純白で、それは普通の生者にとっては至高の薬となるの。けれど墓の守り人にとってはねえ、たった少し呑み込むだけで死に至らしめる猛毒になってしまうのよ」
「そんな」
「だからこそ、私達は墓の守り人の役目を果たせるの。だって、誰も自分を殺すかもしれない猛毒の花を摘み取ろうとはしないでしょう? 純白の花は普通の生者にとっては薬で、墓の守り人にとっては猛毒。けれどねえ、実は墓の守り人が死した後に咲かせる花は、純白じゃあないの」
フアは咳き込みながら、ゆっくりとトゥーに語った。本来ならば墓の守り人にしか受け継がれない知識を、ただの生者である彼女に伝える。
「私達の咲かせる花は、深紅。深紅の花は純白の花と真逆で、普通の生者にとっては猛毒で、墓の守り人にとっては薬になるの。だからねえ、トゥー。私の可愛いイエンを救うには、純白の花じゃなくて深紅の花が必要なのよ。墓の守り人が死した後に咲かせる、命の溶けた血潮よりもずっとずっと深い紅の花を」
フアは、困ったように微笑んだ。
「けれど、私よりも先に、イエンが死んでしまいそうねえ」
そう言って、彼女は血の海に落ちていた短剣を手に取った。それは俺が村人達の命を奪うために用いた刃であり、容易に人を殺せる鋭さを持った凶器である。だから俺はその刃を取った母に愕然と目を見開いた。
「母さん……?」
「私の父のように、私の祖父のように、私の曾祖母のように、代々の墓の守り人のように、私も深紅の花を咲かすのだろうねえ。きっと貴方も、それは綺麗な深紅の花を咲かすのでしょうねえ」
「母さん、やめろ」
「花弁も、がくも、茎も、葉も、全てが赤いの。だからそれを、深紅の花と呼ぶの。普通の生者にとっては猛毒でも、たった一輪だけで、私の咲かすたった一輪の深紅の花で、墓の守り人である貴方を救えるの。そうよね、私の可愛い子」
「救われない!」
俺は叫んだ。しかし、フアは短剣から血を滴らせながら、それを己の首に添えた。
「やめてくれ、母さん!」
俺は血を吐きながら絶叫した。
「墓の守り人としてそれは許されない! 母さん、どうかこのまま俺と共に、誰にも摘み取られぬ花となってくれ。ただ咲き誇るだけの無意味な存在となり果ててくれ」
「血を繋ぐのは墓の守り人の仕事。貴方も私も死んでしまう訳にはいかないわ」
「それは掟であり、禁忌ではない。けれど、墓の守り人が死者に咲く花を口にすることは、花に手を出すことは禁忌だ! 禁忌を犯してまで俺は生きたいとは思わない!」
それでも、フアは短剣を己の体に添えたまま、ゆっくりと首を横に振るだけであった。俺は動かぬ体に鞭打って、そばに座り込むトゥーを必死に見上げる。
「トゥー、頼む、母さんを止めてくれ!」
「トゥー、私のもう一人の可愛い子」
フアは短剣を握っていないもう片方の手で、滂沱の涙を流すトゥーの頭をそっと撫でる。そこには多分に愛情が込められていた。
「どうか、私のイエンをよろしくねえ」
「……はい、フアおばさん」
「イエン」
今度は、フアは俺の頭を撫でる。まるで生まれたばかりの赤子に触れるように、愛しそうに、俺の名を呼びながら、血を流しながら、彼女はあまりにも優しく俺の髪を梳いた。フアは目の端にくしゃりと皺を寄せて、穏やかな微笑みを浮かべる。血に塗れた墓地での、あまりにも場違いなあたたかさを持ったその笑みに、俺はもはや絶句するしかなかった。
「母さんねえ、イエンのことが、大好きよ」
とっておきの言葉を囁くように微笑み、彼女は首筋に当てていた短剣を引き抜いた。そして、フアの姿は血飛沫に飲み込まれ、墓地に響き渡るのは嘆きに満ちたトゥーの嗚咽のみとなった。
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