十七章 サスペンスインサート
殺意は伝播していた。犯人の身体のなかを伝播していた。
――この手で、寺崎と三浦を殺した。
ふたりの窒息死の感触を、犯人は忘れていなかった。
斬り刻んだ頭部、胸部、臀部……。
すべて、目に焼きついていた。
絞め殺した頸部、嗚咽、痙攣……。
なにもかも、耳にのこっていた。
――恐ろしかったのは、最初だけだ。
――人間は、簡単に殺害できる。
――ひとりを殺害すれば、何人、殺害してもかわらない。
殺意は全身に広がるものだ。一度、血の味をおぼえてしまえば、両手両足がさきに動いた。理性が効かなくなるのだ。
もう、犯人に自制する気はなかった。
いま、ふたりを殺した両手には、ゴム手袋がはめられていた。
どこにも、指紋をのこさないためだ。
二十メートルほど前方だった。林のなかを、ひとりの男が駆けていた。茂みのあいだを走り抜けていた。まったく、背後を警戒していなかった。
その男のうしろを、肉食獣の目つきで、にじりよる人影がひとつ、あった。レインコートをふかく着こんでいた。男につづいた。鬱そうな林を出た。
廃工場だ。
あちこちに、エンジンの抜かれた車が放置されていた。
白い蠍のもうひとつの拠点だった。
上空からは、疎雨が落ちはじめていた。夕立の予兆だ。天候は曇り空にかわっていた。
徐々に、日の光が奪われていた。口角をあげた。
話し声がした。外まできこえていた。ふたりの男の声だ。
足音を押さえ、廃工場のうしろにまわりこんだ。
窓を見つけた。ひらいたままだった。のぞいた。目のまえに、白い蠍のタトゥーがあった。その人物にとって、見たことのない男が椅子にすわっていた。上半身は裸だった。
桜井と呼ばれていた。
ふたりの男は、今後について話し合っていた。いっぽうは、事情を把握していないようだった。桜井はいままで、葛西署の取調室にいたようで、ひどく苛立っていた。愚痴るように話していた。はじめて知る情報もあった。
流血の金魚祭りは、辺見という男だけではなく、この桜井も参画していたらしい。寺崎と三浦を利用し、大石を殺害させたのだ。
相川会の壊滅と活動資金の獲得が狙いだったらしい。
犯人の知らない事実まで、饒舌に語っていた。
……許せない。
疎らだった雨粒は、細雨にかわっていた。暗く黒い雨雲は、犯人の殺意の高まりに呼応するように、伝播していた。
怒り眼を吊りあげた。視線を向けた。桜井のすぐうしろに立っていたが、気がつく素振りもなかった。彼の口は、その終わりまで、再生をつづける蓄音機のようだった。
――警察には無関係を装ったが、どこまで信用したか、わからねえ。
――せっかく、辺見が死んで、使える金がふえたってのによ。
――手広くやってきたが、そろそろ、引き時だ。
――三日後、再出頭を命じられている。応じるつもりだ。もっていけ。のこった金の在処が書かれている。
――あしたまでに、集めてこい。おまえにも、分け前をくれてやる。いいな。あした、同じ時間だ。
レインコートに、大雨がふりそそいでいた。雨粒は空気すらおもくしていた。数歩、さきも見えなかった。室内から外は見えないが、外から室内は見えている。
邪悪な意志は、すぐうしろで、顔をあげていた。手をくだす機会を伺っていた。雨音に混じって、ひとりの男の足音が離れていった。
桜井は、だれもいなくなったあとでも、身勝手な不満を吐き出していた。
雨音は鍵盤をはげしく叩きつづけていた。
背負っていたリュックが落とされた。ジッパーをひらく音も響かない。手にとった。女性、老人、だれでも扱える、サバイバルナイフだった。刃は雨に濡れていた。
鈍い光をゆらし、高らかと笑っていた。
夕立は最高潮だった。
豪雨は土を叩きつけ、白煙をのぼらせていた。照明は点いていない。昼間にもかかわらず、夜中とかわりない、暗闇につつまれていた。窓のうしろに立っていても、影すら、のびなかった。
両腕をそっと、あげた。ナイフが一段と光った。雨音はドレミファソラシドと、音階を駆け抜けていった。
刃先の狙いは、白い蠍のタトゥーの頭だった。背中である。心臓の裏側だった。
身体のうえから、一気にさげた。
グロウタトゥーは、一瞬で、鮮血に染まった。
桜井の悲鳴すらも、夕立の拍手喝采で消されていた。
後押しされるように、何度も何度もふりおろした。鼓膜が破裂するほどの雨音だ。
あまりにも、高音すぎて、無音にすら感じていた。犯人の呼吸だけが生きている。三回、六回、九回、十回、十一回……。ようやく、両腕をとめた。
桜井はぴくりとも動いていなかった。
雨足が弱くなってきたらしい。
犯人の耳に、周囲の雨音がもどってきた。
――白い蠍の頭は死んだ。この巣はお終いだ。
タトゥーに彫られた蠍の頭も、犯罪集団のヘッドも潰れたのである。痕跡をのこさないように靴を脱ぎ、窓を跨いだ。廃工場の作業場におりた。
片膝をついた。桜井の顔を見た。
両目を見開いていた。口はひらいたままである。
耳障りだった濁声は、もう、紡がれることはない。
蓄音機の終わりだ。
――余計な手間だった。
――いったい、どこにある……。
作業場のとなりにあるガレージにはいった。事務室のドアがひらきっぱなしだった。目当ての品を見つけた。無数のゴミ袋が積まれていた。
犯人はリュックサックからガソリン携行缶を出した。満遍なく、ゴミ袋にかけた。火のついたマッチを投げた。火柱が立ちあがった。
廃工場の外は大雨だ。すぐに、やんでも、湿った林までは、燃えないにちがいなかった。人的被害は出ないだろう。作業場にもどり、靴を履いた。
廃工場をあとにした。夕立は、数十分ほど、つづくはずだ。
足跡さえ、流し去ってしまう大雨である。
――後顧の憂いはなくなった。
――自分が犯人だとわかる証拠品は、消え去った。
多目的研究センターの取り調べで、アリバイと密室の謎を、まるで解けていないのも知っていた。
――完全犯罪だ。
犯人は勝ち誇っていた。成功を確信していたのだった。
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