六章 流血の金魚祭り
成海と葵は、ホテルに向かった。ホテルは葛西臨海公園の敷地内にあった。海側から観覧車、蓮池、ホテルとならんでいた。
三階建てのホテルだ。成海は葵をロビーで休ませているあいだに、チェックインを済ませた。カードキーをわたした。
葵は茫然自失といった様子だった。カードキーをかばんにいれた。
「橋口さんの様子はどうだった?」
「別人のように落ちこんでいた。知り合いが亡くなっただけじゃない。ただ、第一発見者になったから……。部屋のカギをあけたのも亜紀さんだった。それで、入室するまえのことを刑事さんに問いつめられてしまって……」
「カギをあけたふりをしたと思われたんだね。密室じゃなければ、だれでも犯行は可能になる」
葵はうつむきながら歩いていた。成海はエレベーターにのりこんだ。葵がはいるまで、あけておいた。三階のボタンを押した。
「カギがかかっていたのは、まちがいないよ。ぼくも確認している。藤堂にも伝えてある。いまごろ、捜査本部で、共有しているはずだ」
「でも、容疑者のひとりだと思われているんでしょう?」
エレベーターは三階に到着した。成海は部屋番号を確認した。いちばん、西側だった。長い廊下を歩きつづけた。
「うん。多目的研究センターは、オートロックで部外者がはいれなかった。犯行推定時刻に、施設内にいた人物が怪しまれるのは、避けられない」
密室内にはいることのできた人物が、三人、あげられており、そのなかに亜紀が含まれていることを伝えなかった。容疑者のなかでも、とくに、彼女が疑われている事実を黙っていた。ドアのまえで、カードキーをかざした。ロックが外れた。室内にはいった。
ツインルームだった。ベッドがふたつ、繋がっていた。成海の荷物だけが正面に置いてあった。郵送で到着済みだ。
「亜紀さんは、やっていない。わたし、信じている」
「……工藤さん、いまからでも、この仕事をおりないか?」
「えっ?」
「あとは、ぼくが仕事をする。葛西にいるだけでも、辛い思いをするかもしれない。犯人は、ぼくと藤堂がかならず、捕まえるから」
亜紀が疑われないとは言えなかった。真実がときに残酷である可能性もあった。成海は、誠意をもって、彼女の目を見つめた。葵は黙りこんだ。小学三年生のときと同じように立ち尽くしていた。当時とことなるのは、ふたりが会話できる距離で、向かい合っていることだ。葵はゆっくりと顔をあげた。
「いいえ。わたしも成海くんといっしょにいる。わたしだけ、逃げるわけにはいかない。少しでも、力になりたい。取材の手伝いだけだったとしても……。そばにいたい」
期する思いがあるようだ。けっして、あかるい顔ではなかった。決意というよりは、罰の悪そうな顔をしていた。葵は、まだ、小学校のころの後悔に囚われているのだ。
「……迷惑?」
「いいや。助かるよ。ほら、予約した部屋も無駄にならない」
「予約した部屋?」
葵は不思議そうに周囲を見た。
「ほら。さっき、わたしたカードキー。工藤さんの分だ。三日間、とっている」
彼女はようやく、自分が成海の部屋に泊まるわけではないことに気がついたらしい。葵は藤堂のことばを真に受けていた。ふたりで同じ部屋に泊まると考えていた。
成海の部屋に押しいって、そばにいたいと伝え、息のとどく距離で見つめている。葵は急速に、男女の関係を意識した。動揺をあらわにした。
あとずさる。両足がもつれた。
成海は彼女の手をとった。転ばないように、抱きよせた。
自分の部屋にいても構わない。そう、口にしてよかったのかもしれない。まだ、わからなかった。ふたりの関係は、そこまで、進展していなかった。
成海の右手は、葵の腰元をつかんでいる。手のひらから彼女の熱が伝わってきた。成海の全身に伝播している。はげしい胸の鼓動を相手にきかせまいと、お互い、身を引いた。
彼女はかばんからカードキーをとり出した。部屋番号を確認している。
「ご、ごめんなさい。勘違いしていて……」
半身を反対側に向けた。
「……あした、朝食もとっている。八時三十分だ。ロビーのまえでいい?」
成海は声をかけた。葵はなにも言わず、二度、首を縦にふった。
ドアがしまるまで、彼女の背中を見おくった。
成海はドアに向かって、語りかけた。
「殺人事件のあとは、だれでも怖いものだ。気分が落ち着くまで、ぼくの部屋にいないか?」
きこえないとわかっているからこそ、ことばを紡いだのである。
葵もまた、廊下でつぶやいていた。
「わたし、成海くんとまだ、いっしょにいたくて……。ほんとうは、謝りたい。わたしのせいで、あのあと、成海くんは……」
背中をドアにあずけている。
ひんやりとしたドアは、成海のおおきな手とはことなり、冷えきっていた。
ふたりの恋愛感情は、まだ、気体のように、見えない空気のままだった。成海と葵の関係は、両者の境にあるドアのように、決定的に隔てられていた。
風が吹けば、すぐに離ればなれになる。空気とかわりない。
けっして、むすばれることは、保障されていなかった。
殺人事件の解決と同じように、迷いつづけなければ、出口のドアは見つからない。
ひらかない。交わらない。
成海はドアから離れた。エアコンを動かした。ベッドにすわった。横になった。
葵とすごす三日間のうち、初日が終わった。
一抹の寂しさはあった。
しかし、あしたからも葵と仕事ができる。
彼女とふたたび、会える喜びのほうがおおきかった。目をつぶった。
眠りに落ちようとしたとき、ようやく、ほんらいの仕事を思い出した。
「なにしているんだ。まだ、休むわけにはいかないじゃないか」
成海は肩掛けバッグをひらいた。荷物を解いた。ノートパソコンをとり出した。ネットに繋げる。オンラインノートを起動した。
きょう、観光した場所の地図、ルート、見出し、情報を打ちこんだ。
東京観光アルカディア:東部編にのせる文章を仮書きしたあと、セントラルスケジュール帳のページをめくった。きょうの日付をたしかめる。チェックリストを×で消した。
一日の終わりだ。すでに、すべての項目が消えている。
いつものようにページを破ろうとして、手をとめた。
裏側に、五つのチェックリストが加えられていたからだ。
殺人事件の解決にいたる示唆だった。
まだ、終わらせていない項目だ。成海は破かずに、つぎのページをめくった。あしたの日付を確認した。行船公園、自然動物園、平成庭園の取材が予定されている。
セントラルをかばんにもどした。汗のにおいが気になった。身体をのばしながら、浴室へと向かった。ジャグジーの浴槽がある。浴室の壁にはテレビがついていた。
しかし、ゆっくりと浸かる気分ではなかった。
成海はシャワーで済ませることにした。冷たい水が身体中の汗を排水溝に運んでいった。心の垢を落としていく。
となりの部屋では、同じように、葵がシャワーを浴びていた。
どちらも、陰鬱な殺人事件の記憶をシャワーで洗い流すように、お互いの顔を思い浮かべていた。辛いことばかりではない。あかるい未来も待っているはずだ。
成海は気持ちを一心して、ベッドのシーツにもぐるのだった。
こうして、初日の夜は終わった。
つぎの日の早朝だった。
「駄目だった」
藤堂の第一声だった。
成海と葵は、ホテルのレストランで、朝食をとっていた。唐突に電話が鳴った。
藤堂からの電話だった。
「予想どおりとは、いかなかった」
藤堂の声は、落胆の色を纏っている。
「白い蠍のタトゥーは、だれの身体にもはいっていなかった」
成海はフロアのすみに移動した。
「被害者の胃の内容物を見るかぎり、午後二時から午後三時のあいだに亡くなったのはまちがいない」
「検視医の指摘と同じ結果か。彼らのアリバイは、どうだった?」
「宇田川、加古、橋口の三人はきのう伝えたとおりだ。秋田は試料の確認、桐生は池の掃除をしていたときいている。目撃者の有無はきいていない。身体と所持品を確認したあと、すぐにかえしている。裏をとるのは、きょうからだ」
「寺崎さんは?」
「連絡がとれていない。音信不通だ」
「気になるね。いちばん、事情をききたい人だ」
「多目的研究センターは実験室のように使われているらしくてな。彼はイノベーション室の本部にいると考えられているようだ。まずは午後に、所轄の刑事が彼の自宅を訪問する予定だ。留守だったら、本部にお邪魔する。なんにせよ、今日中にわかるはずだ」
「いまの段階では、みな、一応のアリバイがあるわけだね」
「ああ。そのアリバイの確認にも困ったことがあってな。朝はやくに電話した理由でもある」
「困ったこと?」
「加古勝巳だ。警察への協力に、ひとつ、条件を出してきた」
「なに?」
「成海の同席だ。成海にならば、当日の行動を話すと言うのだ」
「……なるほど。加古さんは噂話が好きなようだね。きのうも、殺しがあった事実より、警察四一のほうに関心を示していた」
「加古ほどじゃないが、宇田川と橋口も同じことを言っていた。宇田川にはスペアキーをもっていなかった事実、橋口には被害者の部屋にカギがかかっていた事実、どちらも、成海の証言が重要になるからな」
「ぼくはどちらも、藤堂に伝えてある。それをふたりは、知らない。不安になって、とうぜんだ」
「まァ、市民が捜査に協力してくれるのは、喜ばしいことだ。親父殿の狙いでもある。そのために、協力者への褒賞金があるんだからな」
褒賞金は捜査費に含まれる。広範囲の使途に認められていた。
警察の捜査は、刑事だけで完結するものではないのだ。
「いまは昔とちがって、警察全体で、市民の協力をえられる流れをつくろうとしている。願ったり叶ったりだ。しかし、成海の都合をきかなければならない」
ほかの刑事から窓口に使われていることを察した。
「構わないよ。ぼくたちは、午前中、西葛西から北葛西をまわる。午後には終わるかな」
「ちょうどいい。調書も午後からはじめる予定だ」
「場所は?」
「多目的研究センターの休憩室だ。一時間ごとに、五人のアリバイを調べる。五人と言っても、疑われているのは、宇田川、橋口、加古の三人だ。この三人に時間を割くだろうが」
「三人……。だとしたら……、やはり、天井裏に?」
「ああ。鑑識が見つけた。唯一のいいニュースだな。天井裏の散歩者の痕跡だ。両手の痕がのこっていた」
「驚いた。ほんとうに、天井裏を進むことができたのか」
「ああ。入り口はせまいが、ダクトが上部をとおる分、途中から広くなる。それでも、160センチ前後にかぎられる」
藤堂は外の排気口からの侵入でなければ、移動はできなかったと補足した。
胴体をつけずに、室内のふたから、出入りすることはできない。一度でも被害者の部屋におりたら、天井裏にもどれないらしい。胴体の痕跡がない以上、出入りは考えにくい。天井裏の内部にのこっていた両手は、首を吊っていた場所へと真っ直ぐ向かっていた。
成海はかばんからセントラルをとった。
二日目のページ裏に書いた。六回目だった。
「――天井裏に胴体の痕跡がなかった以上、両手の痕跡を内側に作為することは、むずかしい。進行方向は可能でも、反対方向には、一定の角度が必要になるからだ。きいているかぎり、人間には不可能だね」
「ああ。内側から鋭角に向けられた角度を、室内からのこすことは現実的ではない。人間の肩の可動域を大幅にこえているという報告を受けた。身体だけを天井裏にいれることができなかった以上、天井裏の散歩者は排気口から進んできたことになる」
携帯電話から鑑識の報告書をめくる音がきこえた。
「また、両手の痕跡は、三カ所のふたの前後に、集中的にのこっていた。前腕、手首、手のひら、五指だ」
「中腰を強いられるからね。手を使わずに、進むことができなかったのかもしれない」
両腕全体の痕跡だと、這いつくばるような角度になる。
排気口から侵入する姿が成海の目に浮かんだ。
「ほかの理由として、部屋をのぞいたからだと考えられている。もっとも痕跡が多かったのは、被害者が首を吊っていた場所の天井裏だった。被害者が顔を出したところで、上衣をつかみ、金槌で気絶させたというのが捜査本部の結論だ」
「天井裏に血痕は?」
「なかった。上衣にはのこっていた。後頭部から垂れたのかもな。犯人は気絶した被害者の上衣を梁にむすんだのだろう。両手を自由にするためだ。犯人は懐から縄を出して、同じように梁にむすんだ。最後に彼の首を吊したんだ」
「現場の状況と同じになるね。五指の指紋はとれている?」
「まだ、確認中だ。はっきりとは、のこっていないらしい。レザーの手袋を使っていた可能性もある」
「いまは夏だ。手袋だったとしても、手掛かりにはなるね」
「まだ、繊維の報告は来ていない。半日しか経っていないんだ。本格的な捜査も報告も、きょうからだろう」
藤堂は、午後までに、進展があるはずだと言った。
最後に、成海の意見が戒名に採用されたことを伝え、電話を切った。
葛西周辺の四肢連続遺棄事件、および、『天井裏の散歩者』による絞殺事件だった。
成海はテーブルにもどった。すっかり、冷えてしまったホットコーヒーを飲み干した。
葵も電話に立っていたようだ。
同時にすわった。
「亜紀さん、午後から刑事さんに呼ばれているって……」
「いま、藤堂からきいた。多目的研究センターにいた五人が順々に呼ばれているみたいだ。ぼくも同席することになっている」
「午後一時三十分って言っていた」
「だったら、五人のなかで、一番手だ」
「亜紀さん、北葛西のマンションに住んでいるのよ。わたし、いっしょに行こうと思っていて……」
「構わないよ。ぼくも被害者の人間関係について、彼女からききたいと思っていた。早期に解決できれば、きっと、彼女も楽になる」
「そうね。わたしたちにできることをしなくちゃ」
成海と葵はホテルを出た。葛西臨海公園駅前で、都営バスを待った。
すぐに、船堀駅前行きのバスが来た。行船公園前の停留所でおりた。二日目の取材の目的地だ。行船公園には、自然動物園、平成庭園、釣り堀、広場があった。
「ほんとうに葛西は、公園の街だと思うね」
「行船公園はすべて、無料で楽しめる。それがいいところね。動物園は、とくに、近隣の住民に愛されているってきいたことがある」
ふたりはアーチ状の門をとおった。
プレートに自然動物園と書かれている。成海たちはゆっくりとまわった
「見て、かわいいワラビーね」
葵は檻に駆けていった。お腹にはちいさい子どものワラビーがはいっていた。和やかな雰囲気だった。
「規模がちいさい動物園だからこそ、ほっとするね。動物もみな、可愛らしいものばかりだ」
「ワラビー。レッサーパンダ、フクロウ、リスザル、オオアリクイ、プレーリードッグ。人気のある小動物ばかり。女性でも怖くない。ちょうどいい」
「それに、ぼくが思っていたよりも、ずっと種類が多い。驚いた。水場の動物も十分すぎる。ほら、あそこ。フンボルトペンギンだっている。水族園も顔無しだ」
「ヤギやヒツジをさわれるコーナーがあるんですって」
「あの集団は、幼稚園児かな」
「ええ、賑わっているわね」
「どこも、子どもづれが多い。スロープがあって、ベビーカーや車椅子もはいりやすい。楽しそうだ。動物のかこいごとに、手書きの説明文が置いているところもいい。飼育員の愛情が伝わってくるね」
「時間があったら、もっと、見たいけど……」
「いつだって、来られるさ」
時間の都合上、長居はできなかった。
「行船公園には、ほかにも見所はある。動物園の正面には、水生池と釣り池があるんだ。こんどは鳥と魚が見られる」
動物園の出口をとおった。
「成海くん、掘りの手前を見て。アオサギが来ている。ちかくで見ると、ほんとうに、おおきいわね」
「一メートル以上、あるからね。翼をひろげているときは、二メートルにもなる」
「恐竜みたい。ワラビーのあとだから、怖く感じる」
「となりの釣り池では、おじさんが釣り糸を垂らしている。ヘラブナを放流しているって書いているね。ぼくも釣り竿をもってくるべきだったかな」
「もう終わっちゃったけど、行船公園と言えば、金魚祭りが有名ね」
葵は何気なく言った。
「いま、歩いている道に、露店、屋台がずらっとならぶのよ。一度、行ったことがある。素敵なお祭りだった。屋台のほとんどが金魚なのよ」
「江戸川区の特産品のひとつだからね。二日間で、二十種類以上の金魚が二万匹も集まる。四万人の見物客が来る、おおきなお祭りだ」
しかし、いまはべつのイメージをもっていた。
沼田の語った凄惨な事件を思い出してしまうのだ。ファイルにも書かれていた。
……流血の金魚祭り。死者ひとり、負傷者多数……。
自然と口数がへった。モミジ並木を進むと、平成庭園の前庭が見えてきた。池泉回遊式庭園と呼ばれる形式だ。庭の中心におおきな池があり、周囲に飛び石の遠路が広がっている。庭園の中心には、数寄屋造りの「源心庵」が建っていた。池のそばには、サルスベリが美しい花を咲かしている。咲きはじめだ。
サルスベリの真下には、花の色に負けないほど、赤々とした鯉が泳いでいた。飛び石の遊歩道は、池を跨いでいた。大石が等間隔にならび、子どもたちは、けんけんぱで進んでいる。成海は案内看板を見た。
「春にはサクラ、夏にはアジサイ、秋にはサルスベリ、冬にはモミジが楽しめるんだね」
周囲を見わたした。
「四季折々の木々が四方に植えている。目で楽しんでいるうちに、足が動く。いい庭園だ」
ふたりは、端から端まで楽しんだあと、行船公園の北口に出た。スポーツ広場、ゲート場、花広場、宇喜田公園へとつづいている。成海は公園内の丸時計を見た。
十一時をゆうに、こえていた。
「少しはやいけど、昼食にしようか?」
「ええ。どこかお店は……」
「さっき、見かけたそば屋さんにしよう。小松菜そばって書かれていた。ご当地グルメだ」
小松菜は東京都江戸川区の特産品だった。
行船公園の北側にある小松川付近で、栽培がはじまった。江戸時代のころだ。もともと、葛西菜と呼ばれていた茎立菜を品種改良したのが、小松菜である。
小松菜には、ほうれん草の三倍以上のカルシウムが含まれている。栄養価の高い野菜である。葛西周辺では、小松菜を使った料理を見かけることが多かった。
とくに、そばとカレーの人気が高いようだ。
そば屋の暖簾が視界にはいってきた。同時に、男女の声がきこえてきた。
口論だ。
女性の怒鳴り声が響きわたっていた。
「さっさと、向こうへお行き!」
「ちょっと、くらいいいじゃないか。手つかずの裏庭だろ? のぞくだけでいいからさ」
「これ以上、しつこく言うと、警察を呼ぶよ」
「ちっ、なにか、見つかるかもしれないってのによ!」
「ふざけるんじゃないよ。まったく! 五年もまえだと言うのに……」
成海と葵は面を喰らってしまった。
「あっ。ごめんなさい。お客さんですよね。いま、案内しますね」
女将が引き戸をあけた。そばのいいにおいが漂っている。テーブルに汚れひとつない。清潔感のある店だった。客は少なく、五分ほどで、目当ての小松菜そばが運ばれてきた。
ふたりは舌鼓を打った。
葵がトイレに立っているあいだ、女将はコップに水をそそいだ。
「さきほど、なにをもめていたんですか?」
成海はたずねた。
「ああ。へんなところを見せて、ごめんなさいね。たまに来る、お客なんです。五年まえの事件を、まだ気にかけていて……」
「流血の金魚祭りですか?」
「ええ。よくご存じですね」
「だったら、さっきのお客さんは、警察のかたですか?」
「いいえ。まったくちがいます。昔から住んでいる近所の人です。五年まえの事件があったとき、盗難が多発しましてね。うちの店も被害にあったのですが、宝石店の被害がとくに多くてね」
「盗難品は回収されていないときいています」
「そうなんですよ。もめた連中は、しょっ引かれたんですけど、みんな手ぶら。だから、さっきの男みたいに、ちかくに隠したって思う人もいるみたいなんです。敷地内を見たがってね。迷惑していますよ」
「たしか……死者も出たのですよね」
「ええ。緑川大学の学生さんが巻きこまれてね」
「緑川大学の学生ですか?」
はじめて、知る情報だった。緑川大学は江戸川区にある理系の大学だ。多目的研究センターにもイノベーション室がはいっている。容疑者のなかでは、寺崎が所属していた。
「大学院生の男性だったかしら。背中を刺されちゃって。すぐに死んじゃったらしいのよ。衝突したグループのあいだに、たまたま、いただけで、無関係だったのにねえ……」
女将は、口を滑らせたと感じたようだ。口をとじて、ふきん掃除をはじめた。
「男子学生がひとりで、金魚祭りに来るとは考えにくいですね。友人か、恋人がいたのではないですか?」
「わたしは、あとからきいただけだから、なんとも……」
葵がトイレからもどってきた。時計を見る。
多目的研究センターに向かう時間を考えれば、三十分以上、余裕があった。
成海は会計を済ませた。有明単探社の経費で、ふたり分を払った。
「いまから、橋口さんのマンションに迎えに行くんだよね。ぼくは男性だ。住んでいる場所を知られたくないと思う。殺しのあとだから、なおさらね。ぼくは準備ができるまで、ちかくで、待っているよ」
「うん。わかった。あとで、行船公園の停留所ね」
葵とわかれた。
成海はこの時間を利用して、目にしたい場所があった。
西葛西を通過する。中川付近の教習所のほうへと向かった。
途中、最寄りの交番に顔を出した。制服警官、二名が立ちあがった。
彼らは、急に来訪した成海の顔をじっと見ていた。
「すみません。きのう、夕方五時すぎに発見された左腕について、おききしたいのですが?」
左腕の話は、三浦の死体を発見される直前に、藤堂からきいている。教習所のちかくで、左腕が見つかったという報告を受けていた。成海は右腕と左脚をじかに目撃している。左腕にかんしても、現場の声をききたかった。
「見回りが強化されたあとだったと思います。発見の際、不審人物の目撃はありませんでしたか?」
「はい。ありましたよ」
制服警官は、成海の顔を注視しながら、答えるのだった。
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