生死の境

138億年から来た人間

第1話 山見 静

「人には生きる資格と死ぬ権利があります。私は、権利を行使したいと思っています。生きてきた人生に罪になるような事物はありません。でも、ずっと私の脳裏には、死ぬ事の方が明るく感じてきたのです。」山見 静やまみ しずかは、息を引き取る前に狭川医師に語り絶命した。



 令和4年3月、春はまだ足踏みして人間の心を切歯扼腕せっしやくわんさせていた。


「寒いなぁ、いい加減にしてほしいよな。」


狭川 真二郎さがわ しんじろうは病院への自転車通勤に嫌気がさしていた。

自宅から車で15分と言う中途半端な距離で妻から減量を言い渡され電動だが自転車通勤をしている。


勤務する東丁総合病院とうちょうそうごうびょういんには今年10年目を迎えた。

インターン研修からずっとこの病院に通っているが、年々体躯が妻曰く「ボリュームがありすぎる。」と言われ去年の春、車から自転車への変更を余儀なくされた。

電動自転車は、去年、中学卒業した娘のお古だ。

娘は、新しく17万の折りたたみ電動アシスト自転車に乗り換えた。

進学校への合格祝いには高すぎる代物だ。

然し、一人娘に対する妻の気持ちと自分の気持ちは躊躇いなく金銭を捨てさせた。


「おはようございます。」


皺としみの並びから看護師長の榎谷 甫子えのきや としこだと分かった。


「おはようございます。」


最近は、個人情報の問題から、何々さんおはようと言うのも憚れる。

挨拶は欠かさずとも少なからず時代の変化を感じる。

自転車を駐輪場に止めていると、同じように自転車を止めようとしている鴨臥木 芳太郎かもがき よしたろう院長に気付いた。


「おはようございます。」


狭川は院長が自転車通勤をしていなければ自分は果して自転車を使っただろうかと思った。


「おはよう、今日も寒いねぇ。」


院長の顔からそういう表情は全く感じない。

院長はロードレーサー姿でスリムな体に震え一つない。

噂では、院長のロードバイクは100万を超えるらしい。


「そ、そうですね。」


狭川にとっては神様くらいのお人だ、少し緊張しながら答え、病院裏のスタッフ入口から病院内に入っていった。

ロッカーで白衣に着替えると診療室へと向かう。


狭川はこの総合病院の精神科で医師として働いている。

彼はゲートキーパーの研修を受け、自殺者への懸命な診療を続けている。

勿論、患者として外来を担当するが、時間外には病院内の医師、看護師、スタッフに対するゲートキーパーも行っている。


「先生、次の方をお呼びします。」


看護師の石礫 聖美いしれき さとみは狭川とは5年の相棒だ。


「山見 静さんどうぞ。」


「はい。」


と診察室の引き戸越しに石礫から呼ばれた女性は、黄金比に整ったアジア美人でロングウルフレイアー。

今時の水も滴る美女だ。


静を目の前にすると狭川は自分の専門科を忘れそうになる。

彼女の視線の位置やしぐさ、言葉使いから自殺念慮があるようにはとても思えないのだ。

然し、この診察室に間違えて入って来たのではない。

先週から診療を始めたが、2回目の方が表情が明るいが、語る表情とは裏腹に出てくる言葉は死を求めて彷徨っている。

「何故、そう思われるのですか。」


狭川の質問に彼女は「意図しない状況でこの地に生まれました。」と答えた。

狭川は黙って聞いていた。

彼女は頭が良く人の主導を快く思わないと前回感じたのだ。


「前回は幼い日の事を話しましたが、今回は、学生時代の私の気持ちをお話します。学校は、法倭ほうわ高等学校に行きました。」


法倭高は卒業生に国会議員が多く、時の総理大臣もこの高校の卒業生だ。


「勉強は楽しく、全てが頭の中に滑るように入ってくる事が快楽の様にも思えました。」


「所謂人の吸収期間の状態ですね。それはほんとに快感に思えるでしょう。」


狭川は、自分の経験から同意を現した。

そう肯定する事で繋がりを密にする事になる。

静は続ける。


「勉強だけではなく、部活動も全国大会へ私自身も出場が叶いチームのメンバーとは仲良く過ごす事が出来ました。」


「部活動は何をなさいましたか。」


「スケボー部です。」


狭川はこの会話に対しても順風満帆落ち度など微塵も感じない完璧な学生生活に思えた。

一つ気になったのは、楽しさややりがいのある話をしている割には表情が余りにも落ち着いている事だ。

狭川は自分の専門から離れないと落ち着きさえも死を覚悟しているからだと思えてきた。


「スケボーは我々のもっと前の年代からありますが、最近またオリンピックでブーム化しましたね。」


静は、答えを探せなかった。

もっと前の年代からと言う意味がはっきりとは分からないからだ。

生まれる前の話を聞く事は出来る。然し、実態の無いものの名前を探す事と同じで経験と知識が一致しなければ人間は認識できないのだ。

狭川は、迷ったが、こう尋ねた。


「高校時代には、死を考える事は有りましたか。」


静は躊躇いなく「私は、一度も死を見失った事は有りません。」そう答えた目線は、狭川の視線をしっかり受け止めていた。


「山見さん、今、悩みや辛い事は有りますか。」


自殺企図を防ぐためには本人のよりそばにいる事が大事だ。

一人で抱え込ませずに死と言う言葉の筋道を見極めなければならない。文章には主語があり述語で終わる。然し、筋書きになる生きてきた道程を掴まなければ心理が理解出来るとは言えない。

然し、静は端的に答えた。


「今は、楽しく、幸せです。」と。



狭川は、静の診療を終えると彼女のカルテをもう一度見直した。


「言葉自体に自殺念慮ねんりょは垣間見えない。が、死と言うものに対して意志の強さを感じる。どこにその心因があるのか。」


どう知識を吐き出しても彼女からは自殺するような気配を感じなかった。




人の命が法益とするならば自殺すると言う事は法を犯すことになり罪人となる。

然し、命は本人のものであり最終決断が自殺であれば本人には有益と言える。

議論は様々あるが、今の自分を殺す事は将来の自分を殺害する事でもある。

それは、自分にとって有益なものであると言えるのだろうか?


将来幸せな自分を、今、不幸な自分が殺すことは本意と言えるのか?

彼女がどういう形で自殺をしようとしているのか?

リストカット症候群、パラ自殺、DSHと分かっている形であるのかないのか?・・・


 




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