Angel Fall

渡貫 真琴

episode1[Angel Fall]

第1話

 地上から1000m、この時代では有り触れた超高層ビルの60階にあるカフェテリアで男はコーヒーを飲んでいた。

 カフェテリアの壁面を兼ねている窓ガラスには、本日のニュースと数分ごとに挟み込まれる企業の広告が映し出されている。

 せっかくの高層階なのだから、客はニュースという名の広告媒体よりも外の背景を眺めたいのではないだろうか。男はコーヒーの苦みに任せて渋い顔を浮かべた。

 西暦2600年ともなれば、巨大資本は世界への影響力をさらに強め広告関連の法律を骨抜きにしてしまっている。監視社会とインターネットによる世論の分裂は、それぞれの真実への内向きな総括を生み、古くからの権力者を更に自由にしただけあった。

 男はリラックスに失敗したことを悟り、店員に手を挙げる。

「すみません、外の空気を吸いたいのですが」

 にこやかな店員の顔から表情が消えた。

 店員は男に近づくと、その目を覗き込む。

 機械に置き換えられた店員の目から発せられた光学スキャンが男の生態情報を読み取ると、脳内に埋め込まれたコンピュータがデータベースから情報を引っ張り出し比較を開始する。

 店員の脳内に『100%一致』というデータが弾き出されてから、ようやく店員は笑顔を浮かべた。

「畏まりました。それではこちらへ」

 従業員スペースに入り、店員は壁の一部を規則的に叩く。

 スライドした壁の中に備え付けられたポートに、店員は自分の首から引き抜いた端子を突き刺した。

 空気が抜けるような音と共に、壁面が幾何学的な模様に沿って動く。

 男の体に強烈な風が吹きつけた。

 地上1000mの空中に向けて、ビルの壁に小さな穴が開いている。

「それでは、快適な空の旅をお楽しみください」

 店員の言葉に思わず苦笑しながら、男はその穴から外に身を投げ出した。


 重力に身を任せながら自由落下フリーフォール、男の頬を薄い空気が撫でる。

 機密保持を名目に設定されているこの自殺じみた手順は、やはりシビアなタイミングを要求する。この移動方法に失敗した者たちは数知れず、この高層ビルは人の死を引き付ける呪われたビルとして「自殺ビル」というとんでもない呼び名で世間から呼称されていた。

 もっとも、それは未熟な者にこの場所を使わせる気はないという支配人の意思が反映された設計思想通りの働きであるのだが。

――5秒後に合流ポイント!5秒後に合流ポイント!

 突如、男の脳内にかわいらしい声が響き渡った。

 それは彼の脳内に埋め込まれた生体コンピュータに実装された彼の相棒、彼の体の共同操縦者である電子妖精サイバー・フェアリーである。

 男は空中で目を開き、体を捻るとビルの壁面にあるわずかな凹凸に足を掛ける。

 電子妖精が脳の電気信号を制御、男の足の微細なぶれを排除し、完全な角度での突入を可能にする。

 一瞬壁面に開いた穴に、男は体を投げ入れた。

 着地すると共に、背後で壁が瞬時に閉じる。


――大成功!21連続記録達成!

 この連続記録が途絶えることは男の死を意味している。

 元気に電子妖精が騒ぎ立てる中、馬鹿げた設計に男は疲れた表情を浮かべた。

 表向きには「不吉だから」という理由で存在しないことになっている44階への正式な入室方法はこれ一つしか存在していない。

 わずかな時間しか空いていない壁の穴に飛び込むタイミングを一瞬でも狂わせてしまえば、壁面に激突して死亡が確定するというわけだ。

 それでも利用者が居なくならないのは、ここが裏社会でも認められた有力者たちの会合の場所として確固たるブランドを築いているからであった。

 面倒なセキュリティや手回しを乗り越えた上、ここに辿り着ける者なら、ある程度の実力は保証されるというわけである。

 

 不意に、男の背後から風が吹き込んだ。


 男は背後を振り返る。

 そこには、一人の女が膝をついて着地していた。

 荒くれものたちの巣窟には似合わない、堅苦しいスーツに身を纏った白髪の女は立ち上がると男に笑いかける。

「ねぇ、この設計どうかしてるんじゃない?」

 気が合いそうだと思いつつも、男は背を向ける。

「ちょっと、無視しないでよ」

 小走りで肩を並べた女に、男は胡乱な瞳を向けた。

「この業界での知り合いは増やしたくない主義なんだ」

「どうして?」

「どいつもこいつもイカれてやがる、碌な事にならない」

 なおも女は食い下がる。

「私みたいな健気な女の子が頼んでるのに!?」

「健気な女はそんなこと言わない!」

「とにかく!いいじゃないのちょっとぐらい、案内して」

「……分かったよ。厚かましい奴だな」

 根負けした男のボヤキを無視して、女は男に手を差し出した。

「私はミーシャ・サヤマ。あなたは?」

「鶴屋仁」

「よろしくね、ジン!」

 ミーシャの差し出した手を握った仁の脳内で、電子妖精が囁く。

――警告、生体反応により、体の大部分が義体メカであると断定

 面倒ごとの影を感じながら、仁は渋い顔のままミーシャと通路の奥へと消えた。


 自殺タワー44階のラウンジは殺風景なものだった。

「ここで大抵の奴らは取引を行っている。

 奥には宿泊施設もあるが……大抵は悲鳴やら異臭が漂っているからおすすめはしない。手に入れた人間をすぐに味わいたい異常性癖の奴らしか使わないからな」

 特定の機器を装着したものにしか聞き取れない周波数で電子ドラッグの商談をする機械頭のサイボーグ・マフィアや、バイオリンケースに入れられた軍の横流しプラズマライフルを売りさばく不良軍人などがまばらにソファーに座っている。

 鋭い目線を周囲にばらまくミーシャに、前を歩く仁はため息をついた。

「あんたが何者かは知らない、興味もない」

 ミーシャの視線が跳ねる。

「だが、俺がいるうちは面倒ごとを起こさんでくれよ。

 それ位の義理立てがあってもいいんじゃないか」

 ミーシャは飄々とした様子で笑った。

「あなた良い人ね」

「良い人はこんな悪の巣窟に用はないだろ」

「じゃ、良い悪人ね」

 思わずにやりと笑った顔を素面にもどし、真面目ぶった口調で仁は振り返った。

 ミーシャの白髪は艶を持って輝き銀の流水の様に流れ、瞳は今では一般的になった義眼特有の濁った白色を湛えている。その姿は街にあふれている、大した理由もなく流行に則って体の一部を義体化する若い女性たちと何ら変わらない。

 彼女はどんな人生歩み、こんな掃き溜めに足を突っ込んでいるのか。

 仁は詮索を思考から振り落とした。

「じゃあ、案内はここまでだ。

 あんたの仕事が上手く行くことを願ってるよ」

「ありがとう、後で会いましょう!」

 もう会うことは無いだろう。この世界で生き残るのにはコツがいるのだから。


 早くもミーシャの事を意識の外に置き始めた仁は、そこで足を止める。

 彼女は「後で会いましょう」と言った。

 妙な表現ではないか、まるですぐに再開することを確信しているような物言いだった。

――面会まであと五分!

 仁の思考を、怒る様な電子妖精の声が掻き消す。

 分かってますよ、お前は俺のかーちゃんかっての。

 電子妖精に毒づきながら、仁は気を取り直して取引へ向かった。

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