第3話 マットの思惑

 中層の入り口は、マットにとって博打を打つような場所ではなかった。

 だからと言って誰でもが活動できる場所ではない。

 街に暮らす一般人や、階級の低い冒険者は、ファーンド森の中層が幾重にも別れていることを知らない。


 無知の恐ろしいところは、知らず知らずのうちに、自分が踏み入れてはいけないような場所まで分け入ってしまうことだ。

 あからさまに雰囲気の変わる深層ならばともかく、中層には境目なんて存在しない。その恐ろしさについては、金を払って情報を得るか、痛い目に遭って逃げ帰って学ぶものだ。

 

 マットは周りが思うよりもずっと慎重で、狡猾な性格をしている。

 B級に上がって間もない頃、死んでも誰も気にしないようなチンピラ崩れを言葉巧みに連れ出して、森の中層において自分が入り込んでも大丈夫な領域をきちんと探ってみせた。


 おかげで今はそれなりの稼ぎがあって、暮らしにも困っていない。

 身の程ってものもわきまえていたから、B級よりも上に行こうなんて大それたことは考えていなかった。

 安全に、確実に金を稼いで、自分より下のやつをうまく使って生きていくつもりだった。


 トールと初めて出会った日、マットは声をかけた女に逃げられたことに腹を立てながら、中層に向かって歩いていた。

 十分に警戒していたつもりだが、苛立ちが僅かに集中を乱していたことに、マットは気づかなかった。

 中層に入ることへの慣れによる油断もあった。

 だから、周囲がいつもより少し静かであることに、気づくことができなかった。


 がさりと音に目をやったマットは、内心でガッツポーズをした。

 今まで見たことのないような艶やかな毛並みの狼。殺して持って帰ればさぞかし良い金になるだろう。

 これはチャンスだと思い武器を構えてから、ふと思う。

 

 なぜこの狼は不意打ちをせずに姿を現したのか。


 その答えが出る前に、再びがさりと音がして、今度は反対側から若い男が姿を現した。

 真っ黒な服と真っ黒な髪に、夜明け前の空のような黒い瞳をしていた。

 そして気味の悪いことにその瞳からは、活力というものがほとんど感じられなかった。


 マットにとっては中層の入り口に現れた狼なんかより、得体のしれないその男の方がよほど不気味だ。

 

 まだ年若い男は「【軍狼】……」と呟いて、ため息をつき、何気ない仕草で剣を抜く。

 マットが警戒心を露わにしてトールを睨みながら問い返す。


「【軍狼】……?」


 しかしその問いかけに帰ってきたのは忠告だった。


「そこ、危ないですよ」


 マットは指さされた先へ素早く目を走らせたが、そこには何もいない。

 騙された、と慌てて男の警戒をしようとしたマットへ、タイミングをずらして草むらから何かが飛び出してくる。

 毛並みのいい狼。

 男の言うことを信じるのなら、中層の殺し屋【軍狼】だった。


 狼の一匹くらい、マットにはそんな思いがあった。

 しかし十分に引き付けて剣を突き出した瞬間、その狼の姿がぶれた。

 否、マットの体が男によって引き倒されたのだ。


 その直後、狼の悲痛な声が森に響いた。

 男は引き倒すのと同時に、ひそかにマットの足をかみ砕こうとしていた個体を蹴り上げ、とびかかってきていた【軍狼】をも切って捨てたのだ。

 

 足を痛めたマットは、助けられたことに気が付いて呆然と男を見上げる。


 その動きは優雅、ではない。

 高名な冒険者たちのような華も、ない。

 どこか諦念の漂う、命を的にかけたような、安全という言葉をどこかに捨ててしまったような戦い方。

 動きは常識的な範疇から逸脱しておらず、代わりにどこか生物としての欠陥を感じる。

 死人が動き出したのだ、と言われてもマットは信じていたかもしれない。


 やがてそんな気味の悪い戦い方をする男に、【軍狼】がすべて切り捨てられる。

 マットは馬鹿ではないから、男がその場にいなければ自分が命を落としていたであろうことはわかっていた。

 だからこそなりふり構わず、男の機嫌を取りにいった。

 そして、それは成功した。


 幸いなことに、その日マットはA級の昇格を狙うための武器あいぼうを手に入れることになったのである。


 その男の名前はトール。

 戦いはめっぽう強い代わりに、常識を知らないよちよち歩きの冒険者だった。


 マットにとってトールは、いい子ちゃんぶった忠告をしてくる鬱陶しい奴だ。

 ただトールには、それを補って余りあるだけの力があった。

 なにせトールと手を組んでさえいれば、諦めていたA級昇格も夢ではない。

 マットはどんなに鬱陶しくても、トールの言うことだけはある程度聞き入れるようにしていた。


 それだけ気を使っているというのに、どうやらトールが、自分をおいてどこかへ旅立とうとしているらしいことにマットは気が付いた。


 これはいけない。

 せめてA級昇格の時までは役に立ってもらわねばならない。


 急ぎそのための依頼を探し街を駆け回りながら、マットは心の内で毒づいていた。

 戦い以外はからっきしの気味の悪い道具が、黙って働いてればいいのに逆らいやがって、と。


 マットはそれをトールに直接伝えたりしない。

 マットはトールの不気味な強さを恐れていた。

 キラキラと輝いているくせに濁って見える、あの暗い目つきの前に、武器を構えて立ちふさがるだけの勇気はなかった。

 マットにできたのは、せいぜい聞こえないふりをして、いい子ちゃんの言葉を無視して時間を稼ぐことぐらいだった。


 駆け回った末に、マットは最高の依頼を見つける。

 ホガイの街を牛耳る裏の顔が、女を一人、探していた。

 どうやらこれから正規の依頼として、ギルドのA級B級たちに捜索の指名依頼が出るのだそうだ。


 その前にその身柄を確保したい。

 確保できたのなら、A級への昇格に口を利いてやる。


 マットはすぐさまその怪しい話に飛びついた。


 その日はもう遅いからと、英気を養うために散々に酒を飲み、トールの予定も聞かずに翌日の約束をとりつけた。

 マットが今日の夜を共にする予定の女の肌を見て、トールはため息をつきながら目を逸らしただけだった。


 ぎりぎり間に合った。

 約束を取り付けたマットはこの仕事の成功を確信していた。


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