第30話 夏休み 4


   こう


 夏休み最後の日曜日、藤堂さんの姿は紙芝居の上演場所にはなかった。

 屋上で約束したのに。

それなのに一度も観に来てくれなかった。

 気落ちしてしまい、自暴自棄になり、何もかもが嫌になって、全てを放り出して、ショッピングセンターを飛び出していく……なんてことはしなかった。

 ガッカリした気分になったのは紛れもない事実だけど、藤堂さんだけが観客ではない。実際に目の前には、ヒーローショーに比べればわずかだけど、それでもベンチが全て埋まるくらいにお客さんが。

 せっかく観に来てくれたこの人達を楽しませないと。

 それにはまず俺自身が楽しんで上演をしないと。

 そう心掛けるのだが、やはり藤堂さんが観に来てくれなかったことが心の奥底で気になってしまう。

 ……もう興味をなくしてしまったのだろうか?

 いや、たとえそうだとしても藤堂さんなら一度くらいは観に来てくれるはず。

 だったら……もしかしたら夏休みに入ってから事故にあった、もしくは大病を患ってしまい入院生活を送っているとか。

 気になると同時に、大きな後悔を一つ。

 どうして俺は携帯電話を持ってない、文字通り携帯していないんだろう。もし持っていれば、あの時藤堂さんの番号を合法的に知ることができたのに。そして今の状況で、あれこれと思い悩むことなく近況を電話で確認することができたのに。

 でも、持っていないのだから仕方がない。

 持っておけばよかったなと、また後悔を。

 二学期になったら藤堂さんの元気な顔が見られるのだろうか。また屋上で話ができるのだろうか。

 いつもは夏休みが終わらないといいのにと思ってしまうのに、今年は速く二学期になってほしいと願ってしまう。

 ……まあそれはともかく、観てもらえなかったのはやっぱり少しさみしいような気が。



   みなと


 自分のことがちょっと恥ずかしく、そして情けないと思ってしまう。

 屋上で、結城くんに絶対に紙芝居を観に行くと約束したのに、夏休みの期間中の日曜日に私は観に行くことができなかった。

 ……約束を守れなかった。

 九月に、二学期になってから、どんな顔をして結城くんと会えばいいのだろうか。そんなことを考えていると憂鬱な気分に。

 けれど憂鬱な気分になってしまうのは、約束を守れなかった以外にも理由が。

 それは夏休みの課題、宿題。

 もう残りわずかな日数しかないというのにまだ全部終わっていない。山積みとまではいわないけど、後数点残っている。

 とくに片付いていないのは数学の課題。正直苦手な教科だ。部活で疲れた体で机の前に座ってこの強敵に対峙しようとしたけど、あっけなく撃退される、睡魔に負けてしまう。課題が進まない。

 こんな私に救いの手が現れた。正確には現れたというのはちょっと違うのだが、先輩が課題をみてくれると言ってくれる。その言葉に素直に甘えることに。

 夏休みの最後の日、先輩の家での勉強会が決まった。この日は部活もない。

 残暑のはずなのにまだまだ暑い、日差しも強い。

 いつものデートではなく、今日は勉強。

 一応おしゃれには気を使いデートに臨んでいたのだが、今日はそこまで気を使う必要はないはず。

 楽な服。Tシャツにショートパンツ、本当はミュールかサンダルで足元も涼しくしたかったけど流石に素足で先輩の家に入るのは失礼だと思って短めのソックスにスニーカー。

 先輩のお家は通っている高校の近くだった。

 こんなに近いところに住んでいるなんて、今まで知らなかった。

「いいだろ。予鈴を聞いてから家出ても間に合うぜ」

 そんな先輩の自慢気な言葉に、たしかにちょっとうらやましいような気が。

 先輩の家は大きかった。そして誰もいなかった。

 生まれて初めて男の人の部屋に入る。こういったらなんだが意外にもきれいに片付いている。もっと乱雑というか散在というか、悪く言うと散らかり放題かと思っていたけど。

 勉強会が始まる。解けなくて苦労している問題を先輩に教えてもらう。

 先輩の教え方はあまり要領を得なかった。けど、経験者には間違いない。一気に解決というわけにはいかないが少しずつ解いていく。

 微々たる速度ではあるが課題をこなしていく。

 が、やっぱり苦手なことは苦手。得意ではないものに長時間向き合うような集中力は無い。

 それにちょっと寒い。

 先輩はエアコンをガンガン効かせているけど、この温度は今日の私の服装だと冷えすぎてしまう。

 失敗したな。もっと着てくればよかった。でも、外は暑いし。それなら何か羽織るものでも準備してくればよかった。

 どうしよう。このまま我慢していようか。それともお願いして温度を上げてもらおうか。

 思案する。課題よりも真剣に考える。

「……えっと……あの?」

 いつの間にか先輩の顔が近くに。私の顔を覗きこんでいた。

「うん、真剣な顔している湊も可愛いと思ってさ。もっと近くで見たかったから」

 じーっと見られていると照れてしまう。これまでにも何回もあったけど、まだ恥ずかしい。

 先輩が目を閉じて顔をさらに近づけてくる。

キスを催促する時の無言の合図。

 私も目を閉じる。唇が触れるのを待つ。ファーストキスからもう何回も口付けをかわしてきた。でも、一向に幸せな気分になんかなれない。

 鼻息がかかる。少し気持ち悪い。我慢しないと。もう少しの間耐えないと。

 今日のキスはいつもよりも長め、それに強く押し付けている。

 息苦しくなってくる。もういいかげん終わりにしてほしい。

 その意思を伝えようと先輩の大きな体を押し退けようとした。けど、反対に押されてしまう。

 バランスが崩れる。先輩の体は重たくて座ったままでは支えられない。押し返そうとしていた私の両腕は倒れないようにするために後ろに。

 キスはまだ終わらない。先輩の体重が私の上にのしかかる。

 後ろに回していた両腕ももう限界になる。私はそのまま床に仰向けに。

 押し倒されてしまった。

「……あの、……重いんですけど」

 ようやく解放された唇を動かし自分の状況を伝える。

 けど、先輩はどいてはくれなかった。

「……先輩?」

「俺たち付き合ってもう一ヶ月過ぎただろ。そろそろいいよな」

 目がすごく怖い。鼻息も荒い。

 跳ね除けたい。けど、先輩の体は重い。それに力も私なんかよりもずっとある。

 具体的な言葉で何をしたいとは言っていない。けれど、先輩が私に何をしたいのか簡単に想像がつく。

 先輩は私の体を求めている。

先輩がしたいのは、セックスだ。

 そんなことをするために先輩の部屋に来たんじゃないのに。取り組まないといけない課題はまだ終わっていないのに。

 暑いからといってこんなかっこうで来たのが間違いだったんだろうか。誘っていると誤解させてしまったんだろうか。そんなつもりは全然ないのに。

 強引にまたキスをされる。

 キスは唇だけじゃなくて、他の場所にも。

「止めて下さい」

 自分でも分かるくらいの弱々しい情けない声でお願いする。

 だけど、先輩は止まらない。

 シャツの上から先輩の手が私の胸をまさぐる、強く揉まれる。

 痛くて不快な感じが。

 付き合っている、一応恋人同士なのだから、こんな日がいつか来ることを、大人の階段を上る時が来ることを、おぼろげながら想像していたこともあった。

 周りの友人達にからかわれて言われたこともあった。

 だけど、それが今日になるなんて。

 それはもっと、ずっと先のことだと思っていたのに。そしてこんな怖い目にあいながらではなくロマンティックな甘いひと時に、ずっと幸せな気分に浸っていれるような体験になると想像していたのに。

 全然違う。

 それに私はまだ先輩を受け入れるような覚悟なんかしていないのに。

「……止めて」

 もう一度懇願する。けど、先輩の手は止まらない。

「いいだろ」

 いつもの先輩の声よりもずっと低く、怖い音。

 その音が耳に入った瞬間、私は恐怖心を感じ、委縮して、抵抗をすることを諦めてしまう。

 力では絶対に敵わない。止めてほしいと、お願いしても聞いてもらえない。このまま抵抗を続けても無駄だ。

 強引にシャツを脱がされそうに。

「……あの……自分で脱ぎますから」

 こんな状況なのに、お気に入りのシャツが伸びてしまう心配をしてしまう。

 先輩が私の上からようやく退いてくれる。

 震える手でシャツを脱ぐ、恥ずかしいけどブラ一枚だけに。

 さっきよりもずっと寒く感じる。

 服を脱いだからなのか、それともこれから体験することへの恐怖からなのか分からない。

「それじゃ続きをするからな」

 怖い顔で先輩が言う。

 本当はしたくない。

 けど、拒むと先輩は怒る。

 小さく肯きながら、

「……カバンの中にアレが入っているから……着けて下さい」

 と、お願いする。

 付き合いだし始めた頃に、誰かから冗談交じりに「必要になるでしょ、コレ」と言って、渡されたものがカバンの中にずっと入っていた。

「なんだ、湊もする気あったんだ」

 違う、そうじゃない。

 だけど、そんなことを言っても先輩には信じてもらえない。

 ……私は諦めて、先輩に抱かれた。


 一度では終わらなかった。

 何度も先輩は私の中に入ってきた。

 その間ずっと怖くて、そして痛かった。

 後で先輩に強引に求めすぎたかもしれないと、謝罪された。

 違和感と、引かない痛みのままで電車に乗る。

 涙が勝手にあふれてくる。

 こんな場所で泣いたりなんかしたら、他のお客さんに迷惑になってしまう。

 我慢する。

 我慢し続けたけど、もうこれ以上我慢できない。

 途中の駅で降り、トイレに駆け込む。

 もっとちゃんと抵抗しておけば、こんな目に合わないですんだかもしれないのに。

 情けなくなってくる。

 嫌だ、嫌だ、もう嫌だ。

 トイレの個室で泣き続ける。こんな場所で泣いていても誰も助けてなんかくれないのに。


 夏休みの終わりの日、私は望んでもいなかったに大人になってしまった。

 子供じゃなくなってしまった。

 

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