コウスケ 3の1

 落ち葉が匂う。風は止んでいる。冷え切った闇の中に小石を踏みつける音だけが等間隔に響く。

 静かな夜の遊歩道だ。

 オレは今、寒さを感じていない。時間の感覚もない。足が勝手に体を運んでいく。胸の奥では心臓が別な生き物のように暴れ続けている。

 人を、シンジを殺してしまった。

 まだこの指先に、シンジの手を払いのけたときの感触が残っている。

 目を開いたまま後ろ向きに倒れてゆくシンジの顔が焼き付いている。

 夢であって欲しい。

 切に願うが、人生、そう甘くはない。

 白いため息が、生まれて、消えた。

 ゆるやかな右カーブが終わり駐車場に出た。中央に立つ外灯が青白い光を円錐形に投げかけている。目指す軽のワゴン車は、六台分ある駐車スペースの一番奥で濡れ濡れと光っている。その光景は三十分前となにも変わらず、他に車は無い。

 オレは歩きながらジーンズのポケットに右手をつっこみ、リモコンキーのボタンを押した。鈍い音とともにドアロックが解錠され車内灯がゆっくりと目を覚ます。無人の座席が古いフランス映画のような色合いに照らされる。

 このまま帰ってしまおうか。

 運転席のドアの横に立ったまま、あらがいがたい誘惑と戦った。

 だめだ。

 ここで逃げたらすべて終わりだ。

 奥歯を強く噛み、強引に体の向きを変え、車の後部に回った。リアハッチを押し上げてラゲッジスペースに上半身をもぐり込ませ、奥にあるはずの小型シャベルを探る。九月に行ったゼミのキャンプで使ったあと、洗いもせずに積みっぱなしにしてあるやつだ。

 あった。指先が触れると、硬くこびりついていた土がぼろぼろとはがれて落ちた。

 シャベルを引きずり出す途中で床の隅に転がる大型の懐中電灯が視界に入った。これも必要だろうといったん手にしたが、少し悩んだ末に元の位置に戻した。強い光はまずいと判断したのだ。いざとなればスマートフォンのライトで間に合わせればいい。

 ハッチを閉じると同時に駐車場と道路を隔てる白樺並木が白く浮かび上がった。街の方角からのヘッドライトだ。エンジン音が接近してくる。オレはとっさに車体の陰にしゃがみ込み、無意味とは知りながら息を止めた。

 一台のタクシーがアスファルトを鳴らして走り去った。

 静寂が戻る。

 溜めていた息を鼻から細く長く吐き、シャベルを杖がわりにして立ちあがった。

 時計を見た。間もなく日付が変わる。

 オレはシャベルを右の肩にかつぎ、今歩いてきたばかりの遊歩道に向かった。

 ほどなく靴の底に当たる地面の感触がアスファルトから未舗装のものとなり、再び、小石を踏みつける音が等間隔に響きはじめた。


 死体は変わらずそこにあった。

 展望公園に隣接する雑木林の奥まった場所で、一本の立ち木に背中をあずけ、両足を投げ出した状態で座っていた。

 展望台から三メートルほど下にある遊歩道の真ん中で、首と手足を変な方向に曲げたままうつ伏せに倒れていたシンジを引き起こし、背負い、この場所まで運びこんだのが五分ほど前のこと。今、目の前にある死体はそのときのままの姿勢だった。

 車から戻ってみれば死体は跡かたもなく消えていた、という期待をしないでもなかったが、現実にそんなことが起これば問題はさらに面倒なものになる。たとえ姿を消していなくても、体の向きが微妙に変わったりしていれば別な意味で怖い。

 なにも変わらずそこに死体があったというのは、むしろ安心すべきことなのである。

 待てよ。

 ふとよけいなことを考えた。

 死体が別人のものに入れ替わったりしていないだろうか、と。

 馬鹿馬鹿しい。

 ありえない。

 だが、一度芽生えた不安は際限なく成長していく。

 ちゃんと見るんだ。

 見て、納得して、やるべきことをさっさとやるんだ。

 オレは無意識のうちに前方の闇へとそらしていた視線を無理やり斜め下に向けた。

 そのタイミングと合わせるように、立ち木の根元に寄りかかった死体とその周辺がふわりと明るくなった。

 な――

 オレは背後を確かめ、周囲を見渡し、最後に空を見上げた。

 雲の切れ間に丸い月が浮かんでいた。

 真珠色に光る夜空を背景にして、葉の落ちた木々の枝が黒い血管のように広がっていた。

 深い吐息とともに両肩が下がる。

 落ち着け。

 とりあえず深呼吸だ。

 そして――ちゃんと見ろ。

 オレはそろそろと足を進め、死体の脇にしゃがみ込んだ。

 現実がそこにあった。

 目を開いたままの横顔は、間違いなく、シンジのものだった。

 薄っぺらなジャンパーと綿のポロシャツにコーデュロイのズボンという、この季節に屋外を出歩くにはあまりに寒々しい服装だ。

 念のためにと、間近に顔を見る。

 まばらな無精ひげに、寝癖がついたままの髪、たるんだ頬、あごのホクロ。

 さらさらと降りそそぐ月の光はすべての色を奪い、細部を際立たせていた。

 その姿は静かで、冷ややかで、なんともみすぼらしく見えた。 

 迷惑なヤツめ。

 突然生まれた怒りの感情とともにオレは立った。持ち直したシャベルをありったけの力で足元に突き立てる。

 サクリ。

 ほとんど人が足を踏み入れない場所のせいか、シャベルの先端はいともたやすく地面に潜り込んだ。

 馬鹿なヤツめ。

 怒りにまかせてシャベルの柄をねじる。湿った土の匂いがする。

 くそっ。

 宙を飛ぶ土の塊が放物線の途中で闇に吸いこまれ、少し遅れてどさりと音がする。

 くそっ。

 オレは再び全身の力を込めてシャベルを地面に突き立てた。

 

 およそ三十分ほどだろうか。掘った穴はユニットバスのバスタブほどの大きさと、膝上までの深さになっていた。

 まだだ。

 深さをもっとだ。

 しかし腰が限界だった。

 シャベルを脇に突き立て、腰に手を当て背をそらせた。あちこちの骨が鳴る。手のひらにはマメができてじんじんと痛んでいる。汗で貼りつく背中のシャツが急速に冷えていく。

 くそっ。

 なんでこんなことやらなくちゃいけないんだ。

 たった三メートルの高さだぞ。

 シンジの方から手を握ってきたんだぞ。

 生暖かくて湿り気のある指が絡みついてきたんだぞ。

 ぞっとして振り払うのが普通だろ。

 オレがとった行動ってそれだけじゃないか。

 そんなことで人が死んでいいのか?

 オレが悪いのか?

 内定も決まり、卒論にもほぼOKをもらっているんだ。

 それに可愛い恋人だっている。

 でも、ひき逃げのことがばれたら全部がパーだ。そんなの駄目だ。せっかくここまで順調に進んできたオレの人生がめちゃくちゃになってしまう。

 だから、これは、正当防衛なのだ。

 自分の生活を守るためにはこうするしかないのだ。

 頭の上でざわざわと雑木林が騒ぎ出した。

 また風が吹きはじめたようだ。

 あとひと踏ん張りじゃないか。

 がんばれコウスケ。ここでやめたら負けだ。

 オレはシャベルを手にとり、穴掘りを再開した。


 石がシャベルの先端を跳ね返した。痺れが手のひらから肩へと走る。指で探るとソフトボール大の石だった。すぐ横にも別な石があるようだ。どうやらごろ石の層にあたったらしい。穴の深さは腰骨の少し上あたりに達している。手掘りではもうこれが限界だろう。

 あとは埋めるだけだ。

 鉄棒に飛びつく要領で穴から出ようとしたが、腕に力が入らず、毛虫のように這い上がった。胸、腹、腿に泥をなすりつけて、なんとか穴の縁に立った。

 シンジの死体はあいかわらず木の根元に背中をあずけ、足を投げ出し、座っている。

 この雑木林までは背負って運んだが、もうこいつと体を密着させる気にはならない。一歩ごとにがくんがくんと固い頭が左右に揺れるあの感触を味わうのはもう嫌だ。

 オレは死体の足元に回り込み両足首をつかんだ。薄い靴下を通して、くるぶしの骨とアキレス腱の存在が伝わってくる。思わず投げ出したくなったが、一度手を離すと二度とつかめないぞと必死に耐えた。

 そのまま後ろ向きに進む。綱引きのような体勢で一歩、二歩。

 ごつん。

 固いもの同士がぶつかる鈍い音がした。死体の後頭部が露出した木の根にでもぶつかったのだろう。気にするな。もうこれは単なるモノなのだ。こいつ自身は痛くも苦しくもないんだ。

 がさがさと枯れ葉の上を引きずって、なんとか穴の縁にたどり着いた。死体を持ち上げ投げ込むなんてことは体力的にも精神的にも無理なので、転がして落とし込むことにする。穴の縦方向と平行になるように死体を並べた。

 ん?

 足首から手を離そうとするが指がこわばって広げられない。まるで自分の手じゃないみたいだ。死体が手に貼りついてしまった。嫌だ。やめてくれ。

 手を振り払い、ようやく両腕が自由になった。荒い呼吸が出入りして胸が焼けるように痛い。ごうごうと喉が鳴っている。膝に手をつき息を整える。

 お前が悪い。

 死んだのはお前かもしれないが。

 被害者はむしろこのオレだ。

 すべてがめちゃくちゃだ。

 馬鹿みたいにあっさり死にやがって。

 いや、違う。

 お前は死んだんじゃない。

 どこかへ行ってしまったんだ。

 失踪、蒸発ってやつだ。

 世間ではよくあることだ。

 ニュースにもならない。

 ということで、悪いがこの世から消えてくれ。

 オレはシンジの死体の横にしゃがみ、腰と背中のあたりに手を当て穴に向かって全力で押した。転がるかと思った死体はそのままの体勢でずるりと向こう側へ移動した。

 あと一押しだ。

 すっと抵抗がなくなり、少し遅れてどさりと鈍い音がした。

 落ちた。

 あとは埋めれば終わりだ。

 なるべく穴の中を見ないように顔をそむけながら立ち上がった。

 シャベルはどこだ。

 わずかに視線を下げたとき、真っ黒な穴の底に白く光るものが二つ見えた。

 目だ。

 シンジの開きっぱなしの目に月の光が反射したのだ。

 オレは反射的に顔をそらせ、少し離れたところに突き立ててあったシャベルを手にした。

 穴の縁に積み上げた土の山をすくう。ずしりと重いそれを穴の中に投げ込む。むき出しの眼球に土が降りかかるところを想像し、全身に鳥肌が立った。

 オレは自分の目をぎゅっと閉じ、穴の底に土を投げ込み続けた。

 月はいつしか雲の後ろに隠れてしまった

 穴を完全に土で埋め、その上に枯葉を覆い被せて作業は終わった。

 そして気がついた。

 シンジの携帯電話を回収し忘れたことに。

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