コウスケ 1の2

「もうすぐだね」

 シンジがぽつりとつぶやいた。

 車は少し前からカーブの連続する登りの区間に入っていた。シンジが言うとおり、あと数分というところまできているはずだ。暗くても、カーナビがなくても体が覚えている。つつじヶ丘の展望公園とは二人にとってそういう場所だった。

 ほどなくして目的地についた。今夜も駐車場には一台の車も停まっていなかった。

 エンジンを切りヘッドライトを消す。

「行こうか」

 オレがかけた声にシンジは返事もせず、助手席のドアを開けて外に出た。

 緊張感をはらんだ沈黙をとともにオレとシンジは駐車場から遊歩道に入り、雑木林を抜け、展望台に向かった。空気が冷えている。夜目にも吐く息が白い。やがて視界が開け展望台に出た。

「おっ」

 思わず声が出る。

 澄み切った夜の大気の底には、ちらちらと瞬く光の海が一面に広がっていた。

 冷凍庫でマイナス二十度に冷やした色とりどりの宝石を、黒い絨毯の上にぶちまけたかのようなその夜景は、これまで何十回と見てきた中で、たぶん一番迫力があった。

 シンジは無言のままオレの先を歩き、展望台の端にある腰の高さほどの木製の柵に両手をついた。オレは五歩か六歩離れた位置で立ち止まり、黒いシルエットとなったシンジの背中に声をかけた。

「で、話って、なんなんだ」

 シンジががゆっくりと振り向いた。

 表情が消えている。目の下のくまがさらに濃くなっている。

 その能面のような顔についている口がゆっくりと開いた。

「マナミと別れてくれないか」

 ごうと空が鳴る。

 背中が押され、髪の毛が逆巻く。

 ここへきて一番の強い風だった。

「意味がわからないんだけど」

「そのままじゃないか、なんならもう一回言おうか」

「いや、もういい」

 オレは手を突き出し指を広げてシンジの言葉を押しとどめた。

 マナミと別れてくれ?

 そんなことを言うために、わざわざこんな所までやってきたというのか。

 二年前、マナミがオレに好意を寄せていると知ったとき、シンジはなんの関心も示さなかった。あれはポーカーフェイスでも強がりでもなく、本当にマナミのことなど眼中になかったからだと思う。ただ、オレが「マナミとつき合うことにしたよ」と告げたとき、ほんの一瞬ではあったけれど、妙にぎらつく目でにらまれたことが印象に残っている。

「返事を聞かせてよ。マナミと別れるのか、別れないのか?」

「別れるわけないだろ」

「ふうん」

 シンジは表情を変えないままジャンパーの内ポケットに手を突っ込むと折りたたみ式の携帯電話を取りだした。

「これ、見てごらん」

 白い光を放つ小さな液晶画面がぐいと突き出された。

 なんだ、なにが映ってる?

 もしかして、マナミが他の男と会っている場面とか、それとも――

 オレは明かりに誘われる昆虫のようにふらふらと近づいていった。

 それは、畳の上に置かれたいびつな三角形の板だった。色は灰色、材質はプラスチックのように見える。目を近づけてよく見ると、平らな板ではなくゆるやかな曲面で、表面には筋状の傷が何本も走っていた。

「なんだ、これ」

 シンジは携帯電話を突き出したまま「そうか、わからないのか」と薄く笑った。

「三日前の夜に拾ったんだよ。バイトの帰りに梅本町の三丁目交差点の近くを歩いてたら、後ろの方で車のブレーキ音がしたんだ。なんだろうと思って振り向くと、すごい勢いで走り去って行く赤いテールランプが見えた。ぼく、目だけはいいからナンバーも読み取れたんだ。時計を見たら夜の十時二十分過ぎだった。自損事故かなと思ったんだけど、念のためにと思って戻ってみたら道端に自転車とじいさんが倒れてた。ひき逃げってわけ。ぼくはあわてて119番に電話した。もちろんこっちの番号は非通知でね。電話に出たオペレーターにじいさんの様子を聞かれたんで確認してみたら、息はしていたけど呼びかけには反応しなかった。そう伝えたら手を触れずにそっとしておけって言われたよ。続けてなんか言ってたけど、ぼくは面倒に巻き込まれるのは嫌だったから電話はそこで切った。救急車が来る前にどこかに隠れようって思ってきょろきょろしてたら、車道と歩道の境目に白っぽい小さな板が落ちてるのを見つけたんだ。その瞬間、ピンときたね。もしかしたらさっきの車の破片じゃないかって。で、気がついたら拾ってポケットに入れてた。そうするうちにサイレンの音が近づいてきたんで、ぼくはあわててワンブロックほど離れたところまで走って電柱の陰に隠れたんだ。救急車がきて、少し遅れてパトカーもきた。じいさんが運ばれていったあとで警察官が懐中電灯で道路とか歩道とかを照らしてたよ。それを見てぼくは興奮したね。ぼくのポケットの中にあるこのちっこい破片が重要な遺留品かもしれないんだなってね。そういえば、ひき逃げ事故のことは新聞にも載ったらしいね。ぼくは新聞とってないから記事は読んでないけど、あのじいさん、その後どうなったんだろうか。けっこう弱ってたからね。死んでるかもしれないな。コウスケ、きみなら知ってるんじゃないのか、その後のじいさんのことをさ」

 シンジは大きく目を見開き、まるで人が違ってしまったかのようにべらべらとしゃべり続けた。

「ひき逃げで被害者が死んだってことになると、犯人の罪は重いだろうな。死刑ってことはないだろうけど確実に人生棒に振るってことになるね。ネットで調べてみたら、ひき逃げの死亡事故って検挙率が九十パーセントを越えてたよ。日本の警察って優秀だわ。それでも百パーセントではないんだよ。逃げ切るやつもいるってことだね。遺留品がないとか、目撃者がいないとかだと捕まりにくいのかもね。あのじいさんのひき逃げ事件はどうなるのかなあ。唯一の目撃者としては興味津々だね。コウスケはどう思う? 警察は犯人を逮捕できるかな」

 そこまで一気にしゃべったシンジは唐突に口を閉ざし、携帯電話を折りたたむとジャンパーの内ポケットにしまい込んだ。

 オレの口の中はいつしかカラカラに乾いていた。なにか言わなくてはと思うのだが、舌が上あごに貼りついてしまい、声が出せるような状態ではなかった。

「もしも警察が自力で犯人にたどり着けないようだったら、目撃者が名乗り出るかもしれないな。そいつは事故直後に現場から走り去った車のナンバーとテールランプの形を覚えてるし、遺留品も拾って持ってるからね。実はあの白いかけらが遺留品かどうか疑わしかったんだけど、さっき車に乗る前に確認したら形がぴったり一致したんだ。バンパーがじいさんの自転車とぶつかって欠けたんだろうね。古い車だから劣化して割れやすくなったたんじゃないかな。警察が詳しく調べたら自転車の塗料とかがついてるかもしれないね。そうなると、ひき逃げの犯人さん、残念ながらアウトだね」

 シンジの言っていることがはったりでないことは、オレ自身が一番よくわかっている。

 自転車のじいさんが今も意識不明の重体だということも知っている。

「調子にのってしゃべりすぎたな。ちょっと休憩」

 シンジは背を向け展望台の端に向かってすたすたと歩きだした。丸まった枯葉がひとつ、カラカラと転がってそのあとを追いかけてゆく。

「やっぱ、ここからの夜景は最高だね。ほら、コウスケもこっちにきて見てみなよ」

 シンジは腰ほどの高さしかない木製の柵に両手をつくと、透き通った闇の中にぐいと身を乗り出した。オレはその無防備な背中に誘われるように、息を殺し、そろりそろりと近づいていった。

 あと一歩だ。あと一歩進めば目の前の背中に手が届く。

 オレは唾を飲み込み、肘をくの字に曲げ、体の両脇に引き寄せた。

「なあ、コウスケ」

 シンジが振り向いた。

「な、なんだよ」

 シンジは木製の柵にひょいと腰かけると口の端を歪め、くいくいと手招きをした。

 オレは思わず半歩ほど前に出た。

「さっきの話は冗談だから気にしなくていいよ。だからさ――」

 シンジの手がすっと伸びてくる。

「マナミと別れてくれないか」

 生暖かい指がオレの右手を握った。

「離せっ」

 オレはシンジの手を思い切り振り払った。シンジはバランスを崩し、柵の向こう側へと倒れ込んでいった。

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