44 バーカ!
ひとりきりの屋上に、扉が開く音が響いた。
振り返った天梨の視線の先には、想い人である瀬川一生がいた。
目が合うとどちらからともなく、困ったように薄っすらと笑った。
「まったく、あの男には困ったものね」
先に口を開いたのは天梨のほうだった。
「まさか初対面にも関わらず、イッセーのふりをするんだから」
「まあ、仕方ないんじゃないかな。一緒に回る予定だった子たちが、どこで見てるかわからないから」
兄を擁護した一生は苦笑した。
「それに天梨も、迂闊なところはあったんじゃない?」
「むっ……私のどこが迂闊なのよ」
「元々イッセーってあだ名は、兄さんが呼ばれてたあだ名だから。僕がそう呼ばれるようになったのは、兄さんがいなくなってからなんだ……って、前に言ったはずだけど?」
「うっ……そ、そういえばそんな話、聞いた気がする」
「出会ったのが小四なら、まだ離婚前の話だ。イッセーのあだ名を出したのなら、その相手は兄さん以外他ならないよ」
バツの悪そうに天梨は口を尖らせた。
一生が語った事情は、天梨はちゃんと覚えていた。よくよく考えれば、辻褄があわない。きっと第三者の立場でその話を聞けば、すぐにわかったことだろう。
矛盾に気づかず、勘違いを通してしまったのは、ひとえに意地になっていたからだ。思い出してもらうことだけを一番に考えたゆえに、兄のほうだったかもしれないなんて、少しも思っていなかった。
「小四、夏祭り。このワードが出た時点で、兄さんと勘違いしてるんだなって、すぐにわかったよ」
「そんなくだらない勘違いのせいで、四年も無駄な意地を張ってきたなんて……あー、もうバカバカバカバカ。ほんと私ってバカみたい」
「そのくらい天梨にとって、大事な思い出だったってことじゃないか」
慰めでも擁護でもなく、心からそう思っているというように一生は言った。それから考え込むように押し黙り、束の間の沈黙が流れた後、意を決したように口を開いた。
「僕ってさ、自覚はなかったけど鈍感な人間らしいんだ」
「そうね。イッセーってば、こっちがやきもきするくらい鈍いわよ」
「それはほら、天梨ほどの女の子に好かれてるなんて、夢にも思わないからさ。でも兄さんと勘違いされてたなら、それも納得かな」
照れるように一生は頬を掻いた。
その勘違いに、天梨はむっとしながら腰に手を置いた。
「言っとくけど、あの思い出は初恋でもなんでもないからね!」
「そうなの? でも天梨、僕に勘違いだって言われて、凄いショックを受けてたから」
「たしかにショックだったけど……思い出して貰えないくらいなら、勘違いだったほうがマシよ。イッセーと出会った思い出だって信じてたから、余計大事になっただけだし」
「それって……」
「私が初めて好きになったのは、あの男なんかじゃない。間違いなく瀬川一生なんだからね」
ようやく想いを口にできた。そんな清々しい気持ちが、天梨の顔に浮かんでいた。
虚を突かれたように一生は目を瞬かせる。
天梨が自分のことを好きだった。そう気づいたのは、兄の背中を見送った後だ。自分と初めて出会った思い出。それを一成と相手を勘違いしていたのなら、そうなってもおかしくない。
だから一成とは関係なく、天梨が自分を好きになったというのは、一生にとって予想外だった。
「なにか、あったっけ?」
天梨ほどの相手に好かれる理由に、一生は思い至らなかった。
友人として過ごしてきた時間の中で、特別なことなんてなにも起きなかった。たしかに自分は鈍いかもしれないが、天梨に好かれるようなキッカケ、特別なことがあったらすぐに思い至りそうなものだ。
「ううん。特別なことなんてなにもなかったわ」
天梨はゆっくりとかぶりを振った。
「一緒に過ごしている内に、気づけば好きになっていたの」
「気づけばって……それだけで僕を?」
「信じられない?」
「天梨はほら、みんなにとって特別な存在だから」
「その特別な存在の一番近くにいた男は誰なのよ」
「ほら、卓もいたし。卓と比べれば僕なんて……それこそ天梨と吊りあう男なんて、兄さんくらい――」
「あの男だけは絶対に嫌!」
「兄さん……天梨になにしたんだよ」
これでもかという天梨の拒絶に、一生は肩越しに振り返った。その扉の向こうに控えている兄と、今日までなにがあったのかと。
腹立たしそうに天梨は眉をひそめながら、
「あの男にはこの二ヶ月の間、散々酷いこと言われてきたんだから」
「たとえば?」
「傷心中の私に向かって、イッセーのマネしてからかってきたり、選ばれなかった恋愛敗北者呼ばわりしたり、果てには弟の使い古しの中古女扱いよ。さっきなんて、記念受験つもりで告ってこいとか言われたわ」
「兄さん……本当になにやってるんだよ」
兄の横暴っぷりに、一生は頭を抱えた。
「まさかそれ、全部学校で言われてきたことなの?」
「周りに人がいようとお構いなしよ」
「男子たちから目の敵にされるわけだ。そこまでやっておいて、なんで卓や凛子が放っておくのさ」
「まあ……どうあれあの男は、私の気持ちだけは大事にしてくれてるから」
「天梨の気持ちを?」
「イッセーと同じ顔の男に優しくされたら、私は絶対、求めずにいられなくなる。でもそれは、都合のいい代替品を求めているにすぎないから。だからあの男は、私に絶対優しくしない。イッセーの代わりはいないってちゃんと受け止めた上で、前を向けってさ」
「兄さん。傷心中の女の子相手にも、そんな厳しいのか」
「厳しいってもんじゃないわよ。ほんとどうなってるのよ、あんたの兄は……」
文句を通り越して呆れている天梨に、一生は苦々しい表情で笑うことしかできない。
一生に当たっても仕方ないと天梨は、大きなため息をついた。
「ま、いいわ。こうしてイッセーの前に立てているのは、どうあれあの男のおかげだから」
天梨は不承不承に肩を上下させると、うっすらと笑った。
「元々悪いのは、私なんだし」
「悪いって、そんなことは……」
「ううん。好きなら好きだって、さっさと言わなかった私が悪いのよ。イッセーが誰かを好きになる前に、ちゃんと気持ちを伝えるだけでよかったの。それだけでおまえは、幸せになれたって言われたわ」
「それは――」
「なにも言わないで。イエスでもノーでも、どちらにせよ複雑だから」
「ははは……」
渋面を浮かべる天梨に、一生は乾いた笑いしか出なかった。
しばらくの間、そうやって見合った後に天梨は居住まいを正した。
「ねえ、イッセー」
「なんだい、天梨」
「ずっとあなたのことが好きだったわ」
改まって想いを告げられた一生は息を呑んだ。
本日二度目の告白。応えてもらえないとわかった上での伝えられる気持ちは、胸が締め付けられるようだった。
大切な友人だからこそ、傷つけるしかできないのが辛かった。でも相手はその何十、何百倍もの辛い痛みを覚悟して、想いを告げてくれたのだ。気持ちに応えることはできなくても、その覚悟だけはしっかり受け止めたかった。
「たとえ選んで貰えなくても、その先にあるあなたの幸せを、私は笑って願える。だからあなたの選んだ大事な人を、ちゃんと幸せにしてあげなさいよ」
「うん。ありがとう、天梨」
心からの感謝を告げる。
ごめんという言葉を使う余地がない。まさに激励だった。
綺麗な微笑みを浮かべる天梨を、強いなと思った。華香もそうだった。なぜこんな風に笑顔を見せてくれるのか、一生は不思議でならなかった。遅れてからそれが、自分のためだと気づいたのだ。
一生が負い目を感じないように、ふたりは笑ってくれているのだと。
たとえその想いに今日まで気づかなかったとしても、こんな素敵な女の子たちを傷つけたのだ。絶対に自分は不幸にはなれない。選んだ相手を幸せにしなければならない。
そんな風に、ふたりの想いを一生は受け止めた。
すると突然、天梨は右手を振り始めた。
「さて、それじゃあ最後に一発、入れさせてもらうわよ」
「へ?」
いきなりそう言われ、呆気にとられた一生。
はー、と右掌に天梨は息を吹きかけたところで、一生はなにをされるかに気付いた。
「あ、天梨さん? その手は一体……」
惚けたように顔を引きつらせる一生に、天梨は楽しそうに笑った。
「『折角だから一発くらい入れてこい。それを受け止めてやれないほど、俺の弟はヤワじゃない』ってさ」
「兄さん……他人事だと思って」
「ほら、華香の分もあるから。歯を食いしばりなさい」
そう急かされて、なし崩しに一生は覚悟を決めた。
きたる一発に供えて、目を瞑り、言われた通りに歯を食いしばった。
深呼吸している音が伝わってくる。
腕が振り上がる気配を感じ、一生は身を強張らせた。
「イッセーのバーカ!」
バチン、という痛烈な音が屋上に響いた。
たたらを踏んだ一生は、その場で尻餅をつく。遅れてじんじんとした傷んできた頬を押さえると、
「いったー!」
天梨が先に痛みに叫んだ。涙目で右手を押さえている。
「それ、僕の台詞なんだけど」
「うるさいわねー……痛いものは痛いのよ」
焼け石に水をかけるように、天梨は右掌に息を吹きかけた。それで痛みが引くわけもなく、今度は右手を振り始めた。
「冷やさないと駄目ね、これ」
「僕も頬を冷やせるものが欲しいんだけど」
「だったらジュースでも買えば?」
天梨は慮る様子もなく、座ったままの一生の横を通り過ぎた。
それ以上の言葉はなにもなく、天梨は屋上から出ていった。その後姿を追いかけることなく、一生はそのまま大の字になった。
「痛いなー……」
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