6)黒夜を駆ける
6-1
深くて冷たい黒の世界は、どこか優しい。
真っ暗な川沿いの道を、自転車一台で駆け抜けていた。
厚手のコートを着て、首元にマフラー。手袋もしているのでそんなに寒くはない。ひたすら前だけを見てずっと足を動かしているので、コートの内側はむしろ暑いくらいだ。
川沿いの道に街灯はなく、自転車のライトで照らす道だけが皓々と眩しい。
「寒くないか?」
腰のあたりに腕を回して、背中にしがみついたまま荷台に座っている和都に声を掛けた。
口を開くと、吐き出した息が白くなって後ろに流れていく。
「……うん、平気」
弱々しい返事が聞こえた。嘘をつけ。
どこかで休憩を取ったほうがいいかもしれない。
──何か、暖かい飲み物でも買ってやらないと。
風はないが、冷たい空気の中を突き進んでいるので、きっと寒いのだろう。
まだ先は長い。
この夜が明けないうちに、もっとずっと遠くまで、進まなければいけないのだ。
◇ ◇ ◇
「和都、オレはお前が死んだってニュース、向こうで見たくないからな!」
二学期の半ば、翔馬が転校した。
父親の転勤が突然決まり、隣の県へ急遽引っ越すことになったらしい。
最後の登校日は一緒に下校して、別れ道になった時に、翔馬が和都にそう言った。
「……気を付けるよ」
和都は困ったような顔で笑いながら答えると、翔馬は嬉しそうに頭を撫でる。それから祐介の肩を思い切り叩いた。
「頼んだぞ、祐介」
「ああ、分かってる」
翔馬が居なくなったくらいから、急に冷えるようになり、昼休みはいつもの屋上に繋がる中央階段近くのスペースで、二人それぞれ持ち込んだ本を読むようになった。
すぐ下は一年生の教室が並ぶ階で、騒がしく過ごす音が小さく聞こえる。
静かな時間。
和都はいつものように祐介の背中を背もたれにして本を読んでいたし、普段通りに見えた。
昼休みが半ばを過ぎると、いつもだったら、翔馬がやってきて大騒ぎになる。けれど当然ながら、昼休み終了の時間が迫っても特に何も起きない。
「……うるさいのがいなくなると、静かだな」
和都がそう言って本を閉じ、立ち上がったが、どんな顔で言ったのかは見えなかった。
「そうだな」
祐介も答えながら立ち上がり、少し思い出す。
あれは、一年の三学期半ばの頃だった。
「なー相模ぃ。相模ってばー、なぁ相模ぃ、相模ぃ」
まだまだ寒くて、いつものようにこの場所で過ごしていた。和都は今みたいに読書を続けていて、後からやってきたものの暇らしい翔馬が構って欲しいのか、ひたすら呼びかけていた時だ。
「あーもう、うるっさいな!!」
さすがに名前を連呼されて嫌気が差したのか、本に向けていた視線を翔馬に向けて吠える。
「あ、やっとこっち見た」
そんなことは全く気にした様子もなく、翔馬は呼びかけていたわりにやはり用事はないらしい。そんな翔馬に、和都は深く息を吐いて見せる。
「おれ、この苗字キライなんだよ。もうおれを呼ぶなっ」
「なんで嫌いなんだ?」
流石に呼びかけられたくない理由としては無茶があるので、翔馬は素直に聞き返した。
「母親の再婚で変わった苗字だから。元の『神谷』のほうがいい」
「へー、再婚だったのか」
転校してきてもうすぐ一年経つというのに、初めて聞いたので翔馬も祐介も驚いた。そんな二人の様子に、和都は少し視線を逸らして口を開く。
「……父さんが、小六の年明けくらいに病気で亡くなってて。おれ、変な時期にこっち来ただろ。あれも再婚の手続きとか引っ越しとかなんかそう言うので手間取って、それで来るの遅くなったんだよ」
和都は自分たちと一緒に入学ではなく、中一の四月半ばという、妙な時期に転校してきた。祐介は事前に和都がやってくることを知らされてはいたが、担任教師は確か『家の事情で』と言っていたことを思い出す。
「父さんが入院してる間、見舞いにも殆ど行かなかったし。亡くなった途端にすぐ今の人と再婚したんだ。父さんが死ぬの待ってたみたいにさ。……本当、気持ち悪い」
どうやら彼の女性嫌いは、実の母親が元凶のようだ。
病気で動けない父を放り出し、不貞に走る母の様子を、もしかしたら和都は見ていたのかもしれない。もしそうであれば、それも仕方がないだろう。
「そうかぁ、なるほどなぁ」
和都の話に、翔馬が腕を組んでうんうんと大袈裟に頷いて見せる。
が、何を思ったのか、突然、胡坐をかいていた自分の膝をポンと叩き、こう言った。
「よし、じゃあそんなに苗字が嫌なら、下の名前で呼び合おうぜ!」
「は?」
名案だろう? と言わんばかりに自信満々の翔馬に、和都は眉をひそめて疑問の声を上げる。
「オレはお前のこと『和都』って呼ぶから、お前はオレを『翔馬』って呼べ。あと春日のことも『祐介』って呼ぶこと!」
「いや、そういう問題じゃ、ないだろ……」
騒がしく名前を連呼するな、という注意のはずが、なぜか下の名前で呼び合えば解決だという、よく分からない理論になっている。
「お前もだかんな、祐介!」
「……わかった」
肩を叩かれ、翔馬が笑顔で圧力をかけて来た。どうやら任意ではないらしいので、祐介も仕方なく頷く。
こうしてほぼ強制のように始まった、下の名前で呼び合うという約束。
気付けばそう呼び合うのが当たり前になっていた。翔馬なりの距離の縮め方だったのだろうと思う。
不意に、昼休み終了を告げるチャイムが鳴った。
「行こっか」
そう言って階段を降り始めた和都の横顔が、少しだけ寂しそうに見えた。
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