5-2

 ◇ ◇



 夏休みに入った。

 塾で授業を受けられるのは、火木土と決まっているが、この塾は夏休み期間に自習室を開放しており、予定のない日は祐介もここで課題や宿題をするようにしている。

「あれぇ? 春日くんだ」

 自習室は時々見回りの講師がやってくる程度で、この日の見回り担当は羽柴だった。中学生クラスの自習室利用者は日によってまばらで、今日は自分以外に三人くらいしかいない。

 見回りの講師は普段利用している生徒に話しかけることは殆どないが、羽柴は生徒と距離が近いのか、利用者全員に声を掛けて回るようなタイプだった。

「春日くんはわざわざこっちに来てまで、勉強しなくてもいいんじゃないの?」

 そう言いながら、祐介の使っている机の向かいの席に腰を下ろす。近所ならまだしも、祐介の住む杜山から塾のあるこの辺りまで電車で三駅、二〇分近くはかかるはずだ。

 祐介はこちらをじっと見る羽柴の視線を避けるように、スッと目を伏せる。

「……塾に行ってると、母が安心するので」

「あー、そっかぁ」

 春に姉の美桜が顔を見せに来て以降、母の「遊んでいないで勉強しろ」という圧力はこれまでより酷くなってしまった。夏休みに塾の自習室が開放されていることを知ってからは、毎日行くことを強いるようになり、翔馬や和都と遊びに出掛ける時も塾に行くふりをして家を出るようにしている。

 ──姉さんとは違う、真面目に見えるなら、なんでもいいんだろう。

 実態がどうであれ、母に「息子は毎日塾で勉強している」と思わせたらいいのだ。

「ああ、でも、ちょっと日焼けしたね?」

 羽柴がTシャツの短い袖の裾を指差す。言われてよく見れば、ほんのり肌の色の境目ができていた。

「……友達と川で遊んだり、この間は史跡探しにも行ったので」

 母の圧力は強くなったが、その目を掻い潜り、時々翔馬と一緒に和都の見つけてきた『ひまつぶし』に付き合っている。内容がはっきり言って無理難題な時もあるし、和都が一緒の時は何かとトラブルが起きやすく、普段以上に大変だったりするのだが、それが意外とストレス解消になっていた。

「ふーん、そっか。学生らしいことしてるの聞いて、ちょっと安心したわ」

 向かいに座る羽柴が、どこか嬉しそうに目を細めていた。



 ◇ ◇



 その日、和都の家に行くと、誰もいなかった。

 特に遊ぶ約束はしてなかったが、夏休み中はどうせ暇しているだろうとふんで、翔馬と祐介の二人で行ってみたのだ。しかし、インターホンを鳴らしても応答はない。

 見る限り明かりもついていないし、人の気配もしなかった。

 普段はそこまで使っていないメッセージ機能で和都にメッセージを送ってみたが、メッセージの時はわりとすぐ返事をしてくるタイプなのに、メッセージを見る様子も返信が来る気配もない。もしや寝ているのではないかという可能性を考え、電話も掛けてみたのだが、しばらく呼び出し音が繰り返された後、留守番電話へ切り替わるアナウンスが流れてしまった。

 和都の家の玄関先で、二人は顔を見合わせる。

「どこに行ったんだ?」

「車もないし、久々に家族水入らずでお出掛け中、とか?」

「あの家族がすると思うか?」

「うん、ねーな」

 眉をひそめた祐介に言われ、翔馬が大きく頷く。

 息子を襲うような父親と、家に閉じ込めるわりに居なくなっても必死に探そうとしない母親が、和都を連れて楽しく出歩くとは到底思えなかった。

「とりあえず晴れたし、川まで行ってみるか」

「そうだな」

 二人は自転車を裏山の向こう側にある、桜崎川まで走らせる。

 昨日は夕方から夜の間に凄まじい豪雨が降っていたのだが、今日はよく晴れて、空もすっきりと青く広がり、白い雲がもくもくと気持ちよく伸びていた。

 河川敷のある辺りまでたどり着く。見えてきた川は普段よりごうごうと大きな音を立て、灰色に近い泥のような流れになっていた。前日の雨で水量が増えたためか、河川敷もほとんど水没しており、水面は木の枝やゴミが大量に浮いている。

「すごい色だな」

「昨日の雨、すごかったもんなぁ」

「で、川まできたけど、何するんだ?」

 祐介に問われ、翔馬はうーんと腕を組んで頭を捻る。特に考えていなかったらしい。

 が、すぐに思いついたようで。

「あ! 高速道路の橋桁んとこ、工事終わったかどうか見に行かね?」

「あぁ、行ってみるか」

 以前、和都と一緒に行った時は工事中で見れなかった場所。

 白い壁に貼られた工事期間の表示では、たしか八月頭に終了予定と記載されていた。今なら終わっている可能性も高い。

 二人は増水した川を眺めながら、以前のように下流に向かって自転車でのんびりと川沿いを走る。

 もし工事が終わっていたら、橋桁の下の写真を撮って和都に送ってやろう。きっと悔しがるだろうから、そしたらまた三人で行こうと誘えばいい。そんなことを考えながら走っていると、最初の小さな人道橋が見えてきた。

 往来の少ないその橋を何気なく見上げると、人がいる。

 その姿に見覚えがあって、祐介も翔馬も思わず自転車を停めた。

 Tシャツにハーフパンツを履いた、和都だった。

「あれ、和都じゃね?」

「何してるんだ?」

 翔馬の言葉に祐介が頷く。

 橋の上にいるにしては、なんだか不自然だ。

 本来なら手すりで見えないはずの身体が全部、見えていないだろうか。

「まてまてまて、なんか変だぞ!」

 同じ違和感に気付いたらしい翔馬と同時に、祐介も自転車を全力で漕ぎ出す。

 あれは、橋の欄干のこちら側、外側に立っている状態だ。

 遠くて表情が分からない。

「和都ー!」

 全速力で向かいながら、翔馬が大声で叫ぶ。

 しかし橋の下までたどり着いところで、まるで何かに引っ張られるように、和都が濁流の川に落ちていった。

「うわ! バカヤロウ!」

 翔馬の叫び声と同時に、祐介はすかさず急停止する。

 自分のスマホを翔馬に向かって放り投げ、

「救急車、よんどいて」

 そう言い残すと、祐介は羽織っていたパーカーを脱ぎ捨て、躊躇うことなく、濁った川に向かって飛び込んだ。

「あー! どっちもバカ!!」

 翔馬の叫ぶ声は、半分だけ聞こえて、あとは大きな水しぶきをあげる水音に掻き消えた。

 見ためよりも速く、見通しづらい濁った水の中で、和都の落ちた川の中央辺りまで懸命に泳いでいく。

 泥のような灰色が、グラデーションになって広がる世界。水面から差し込む日の光を頼りに、辺りをかき分けるようにして探しながら進む。

 ひときわ明るく照らされた中、小さく身体を丸めたような姿勢で、水中に浮かぶ和都を見つけた。

 落ちた場所はちょうど淵になっていたのか、水深が深く流れが緩やかだったので簡単に追いつけたようだ。すかさずそれを抱き込むように捕まえると、一気に水面まで引き上げる。

 水面から辺りを見回すと、飛び込んだところから思った以上に流された先にいるようだった。顔を出したのに気付いた翔馬が、何か叫びながら川沿いを走っている。耳に水が入ったのか、上手く聞こえない。

 翔馬の指差す先には、水量が増えたせいで少し狭くなった河川敷。そこからなら陸に上がれる、ということだろうか。祐介は和都を抱えたまま、そちらに向かって泳いでいき、河川敷に上がるとそのまま通路まで引き上げた。

 通路に横たえた和都の顔は、普段以上に青白く、目を閉じたまま、息をしていない。濡れて冷えた肌の上を、日差しがジリジリと焼いている。顎の先からポタポタと滴が落ちて、通路の上に黒いシミをつけた。

「祐介! 和都!」

 翔馬が自転車で追いついてきた。

「……救急車は?」

「あと少しでくるって!」

 心肺停止、呼吸停止から数分以内に救命措置をしなければ、助からない。水面に落ちた後に止まったと考えたとしても、陸に引き上げるまでに二分以上はかかっている。

 ──今やらないとダメだ。間に合わない。

 ヂリリと頭の隅で、同じように青白い肌を見た時の記憶が焦げ付いていた。

 自分の額や頬についた水滴を手の甲で拭うと、今度は仰向け横たわる和都の顔に濡れて張り付く髪を払う。

 そしてそのまま和都の顎を上げて気道をつくると、唇を合わせて息を吹き込んだ。

 二回息を吹き込んで口を離す。肺が膨らんで盛り上がったのを確認し、上がった胸元が沈むのを見てから、今度は膝立ちになって胸元に両手を重ねて当てた。規則正しく、一から三〇まで数えながら、力強く押し込むように圧迫を繰り返した。

「和都! 戻ってこい!」

 傍らで固唾を飲んで見守っていた翔馬が叫ぶ。

 三〇回の心臓マッサージを終えても、青白い顔に変化はない。

 もう一度だ。

 祈る気持ちで息を吹き込んで、胸部圧迫を繰り返す。濡れたせいか汗かも分からない水滴が、額からポタポタ落ちていった。

 と、不意に和都の硬く閉じていた目蓋が揺れて、次にゲホッと咽せる声。

 慌てて顔を横に向けてやると、ゲホッゴホッと咳き込むように口から水を吐き出し、和都の目蓋がうっすらと開いたのが分かった。

「すげぇ! やった!」

「和都、分かるか?!」

 小さく開いた瞳の隙間で、黒目がゆっくりこちらに向いたのが分かる。

 祐介が深く息をついたところで、遠くから救急車のサイレンが聞こえて来た。翔馬が呼んでくれたものだろう。

「きたきた!」

 翔馬が誘導のためにサイレンの音がする方へ駆けていく。

 それから和都は程なく到着した救急隊員によって担架に乗せられ、救急車の荷台に運ばれていった。貸してもらったタオルで濡れた身体を拭きながら、救急隊に起きたことを説明した後、祐介は置き去りにしてきた自転車を取りに行こうとその場を離れようとする。

「祐介! どこ行くんだよ!」

「え? 自転車取りに」

 いつも通りの祐介の様子に、翔馬が信じられない、という顔をした。

「お前も乗るんだよ!」

「いや、怪我はないし……」

「濁流の川に飛び込んでんだぞ! ちゃんと検査してもらわないとダメだろうが!」

 翔馬と同意見の救急隊員たちに説得され、祐介も仕方なく救急車の荷台にあがる。

「自転車も、おばさんへの言い訳も、こっちに任せとけ! なんとかしとくから!」

「……助かる」

 祐介の言葉に、翔馬が歯を見せて笑う。

 ほどなく救急車の各ドアが閉められ、サイレンを鳴らして動き出した。

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