4-3

「よし、行くか!」

 自転車をそれぞれのものに戻したあと、目的地に向かって再び走り出す。

 その次の大きな道路を支える橋を通り過ぎると、遠くに目当ての高速道路が視界に入ってきた。

「お、見えてきたな!」

 その手前の人道橋の下を駆け抜け、もうすぐ高速道路の橋、というところまできた、のだが。

「……ここは、通るの無理だなぁ」

 後もう少しで、高速道路の橋桁が見える、というところで、通路を塞ぐように大きな壁が立ちはだかっていた。

 本来なら通路はこのまま橋桁の脇を抜けて向こう側まで続いているようなのだが、改修工事の最中らしく、白い布と金網で出来た大きな壁が作られている。壁にはご丁寧に『関係者以外立ち入り禁止』の文字と、工事の期間が掲げられていた。

 このままここを突っ切るのは難しい。

 和都が手元の地図を確認すると、少し戻って川沿いの通路から普通の道路に戻り、そこからかなり大回りすれば、高速道路の向こう側にはいけるようだ。

 しかし、今回の目的は、高速道路の橋の下を見ることである。

「かー、工事中かぁ」

「こればっかりは、しょうがないね」

 そう言うと、和都はバインダーに挟んだ地図上の現在地付近に、通路を塞ぐような赤い線を引き、そこに『工事中』と書き込んだ。

 祐介が工事期間の書かれた看板をよく読んでみると、八月上旬終了予定とある。

「夏くらいまでやってるみたいだな」

「じゃあ、終わったくらいにまた来ようぜ」

「いいの?」

「当たり前じゃん。オレも気になるし!」

 笑って答える翔馬の言葉に、和都は嬉しそうに地図内の『工事中』と書いたその下に『八月にリベンジ』と追加した。

「よし、帰ろう!」

「帰りも川沿い?」

「ちょっと戻って、車も通れる道路のほういって、そこの横道に入ると、わりと早く街に戻れるっぽい!」

「おし、帰りはそっち行ってみるかぁ」

 二台の自転車は、来た道をのんびりと引き返し始める。

 祐介の漕ぐ自転車の荷台で、和都がそっと後ろを振り返ると、白い西日に照らされた工事中の壁は眩しく輝いているように見えた。

 街に繋がっている道路までやってくると、翔馬が口を開く。

「あ、今度はどこ行く?」

「史跡探しがいい」

「わかった、なんか考えとく」

 太陽が西に傾き始め、深い青色だった空が白に近づき始めていた。



 ◇



 和都を家まで運び、祐介が自宅に着く頃には、辺りはだいぶ暗くなっていた。

 自転車を自宅横の駐輪スペースに駐めていると、玄関のほうから何やら言い争う声がする。

 母親と、もう一人、女性の声。

 急いで向かうと、ちょうど玄関のドアが勢いよく開き、中から女性が飛び出してきた。

 小柄で、見覚えのある綺麗な黒髪、そしてその顔。

「え、姉さん?」

「あ、祐介! 元気だった?」

 後ろ手にドアを閉めると、パッと明るい笑顔を咲かせた女性、春日美桜みさきは、そう言いながら久しぶりに見る大きな弟に飛びついた。

「うん、元気。……なんで、急に?」

「旅行の途中だったんだけど、ちょっと寄れそうだったから、祐介の顔見にきたの」

 美桜は明るく笑ってそう言うが、その後ろの玄関の向こうからは、母の怒声がかすかに聞こえてくる。

「……久々に娘が帰って来たっていうのに、あれは無理ね」

 そう言いながら、美桜が玄関の方を寂しそうに振り返った。

 祐介は美桜の肩をポンッと叩いて少し押し退けると、ひとり玄関を小さく開ける。

「ただいま」

「あぁ、祐介、おかえりなさい。今、いま、美桜が……」

「うん、そこで会った。少しだけ話してくるから、母さんは夕飯の支度してて」

 祐介の顔を見て少し正気に戻ったらしい母は、大きく息をつくと「分かったわ」と言ってキッチンへ向かっていった。それを見届けた祐介は静かに玄関ドアを閉めて、美桜と一緒に自宅近くにある小さな公園へ向かう。

 ブランコと滑り台、そして小さな砂場があるだけの、住宅街の公園。

 空はすっかり青味を帯びた紫色になり、公園や周辺の街灯が皓々と輝いている。

 自販機で買った飲み物を手に、それぞれブランコに腰掛けた。

「遅かったね。今日は塾だったの?」

 こうして会うのは、二年ぶり近くだろうか。

 それでも七歳上の姉は、以前のようにサッパリとした物言いで、明るく、綺麗な女性のままだった。変わったのは、少し髪が伸びたくらいだろうか。

「いや、友達と川沿いを走ってきた」

「あぁ日野くん?」

「うん、翔馬と、あともう一人」

「お。中学でできた友達かぁ?」

「まぁ、そう。一年の時に転校してきて、それからよく遊んでる」

 祐介は美桜に、発作でよく倒れ、手はかかるものの、今では仲のいい友人になった、和都のことを話す。

 美桜は和都にまつわる色んなエピソードを、大袈裟に心配し、驚き、笑いながら聞いてくれた。

 自身の表情がそこまで感情豊かに動かないのは、きっとこの姉が表情筋を全部持っていってしまったからではないかと、祐介は時々考える。けれど、コロコロ変わる表情を眺めている時間が心地よく、楽しかったので、それでいいと思っていた。

「あ、祐介。さては、その子のこと、好きなんじゃなーい?」

 ひとしきり和都の話を聞いた美桜が、妙に楽しげな顔でそう言い出す。

 姉の中で一つだけ困るところが、この少し仲良くなった相手を「好きなんでしょう?」と言い出すことだ。

 祐介はまたか、と息をついて訂正する。

「そんなわけないだろ。なんでそう思ったの?」

「えーそうなのぉ? なんか、好きな子の話をしてる時みたいな顔してるよ?」

「そういうの興味ないよ。そいつ、姉さんみたいによく人に絡まれるから、そっちの方が大変。それに……」

 ふっと頭の中にこびりついた、薄金の中で黒い瞳に言われた言葉が響く。

「すぐ死ぬとか言うから、見張ってないと」

「……そっかぁ」

 祐介の言葉に、美桜はそっと左の手首を右手で包むように抑えた。

 長袖のシャツの下のそこには、二年前に自らつけた大きな傷跡が、まだ生々しく残っている。

 本当に馬鹿なことをしたと、後悔しかない。

 最愛の弟が、人の死に敏感になってしまったのは、自分のせいだと、美桜は思わずにいられなかった。

 ブランコ近くの街灯から、ジジッ、ジジッ、と虫の羽がぶつかる音が降ってくる。

「そういえば、白鷹大付属、受けるんだって?」

「母さんに聞いたの?」

「うん。あんたと違って祐介はすごいところ行くんだから!って自慢されちゃった」

 祐介が帰ってくる少し前、母と美桜は家の中で盛大に罵り合いをしていたようだ。あまり鉢合わせたくないシーンだが、二人とも怪我をすることがなくてよかった、と祐介は内心ホッとする。

「分かりやすく有名だし、いいかと思って」

「……レスキュー隊、諦めちゃうの?」

「親戚に何人もいる職種じゃ、母さん納得しないだろうし。医者か弁護士か、白鷹大いくならそっち系かな」

 祐介の親類には、消防職員やレスキュー隊など、人を助ける仕事に就いている人間が多かった。だからこそ、自分も漠然と叔父や従兄弟たちのように成るのだと思っていたが、それはもう諦めた世界だ。

「そっか。……あたしのせい、だね」

 美桜の顔に影が落ちる。

 自分を慕う弟は、自分のしでかした過ちのせいで、夢を諦めてしまった。

 母の憎悪がこれ以上自分に向かないよう、小さい頃から自分を守ってくれたように、この弟は遠く離れても盾になろうとしてくれている。

「姉さんは別に悪くない。人を助ける仕事なら、俺はなんでもいいし。選んだのは俺だよ。勉強も嫌いじゃない。それに……」

 目指している白鷹大付属高校は、隣の県にある。

「付属のほう受かれば、家からも出られるし」

「……うん、そっか。そうだね」

 子どもの自分には、憎悪に満ちてしまったこの家から逃げ出すことは、まだできない。

 今はまだ、少しずつ準備している途中。

「受かったら、遊びに行くね」

 美桜が再びにっこり笑ったのを見て、祐介も小さく笑った。

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