冬の朝

梅林 冬実

冬の朝

シューズがアスファルトに擦れる。

住宅街が目覚めるにはまだ早い午前4時、潮崎紅子(こうこ)はひとり歩いていた。ウォーキングというより散歩に近い歩調で、2月の風に吹かれる。この1年であらゆることが変じた。散歩の時間、仕事、眠る時間、目覚める時刻。軽い運動を勧めるのは医師で、歩くことは今の紅子にとってとても大切なことのように思うのだった。


余計なものを削ぎ落したい。不要なものなら手放したい。欲求が衝動に変わり、行動に変化が訪れる。それは当然紅子の心境にも。吐く息の白さを視認して、紅子は静かな住宅街をただ歩く。

急勾配の短い坂を上り切ると平坦な道が続く。呼吸を整えながら空を仰ぐ。降り注ぐ星々は紅子にとても大切な何かを伝えようとしているようで、少し苦しくなる。

失ったものの尊さ。自分の未熟さ。

自嘲しても止まってしまった車輪が再び回り始めることはない。星たちの囁きを振り切るようにして紅子は再び歩き始める。

 広い公園に、葉を落としたメタセコイアが並んでいる。手袋に収まった指先はまだかじかむ。公園を通り過ぎ暫く歩くと小さな保育園に差し掛かり、更に先へ進むと交差点に突き当たる。右に曲がってなだらかな坂を下ると、右手に住宅が立ち並ぶ細い道が連なる。早朝ともなると車どころか人影もない。一定の間隔で設置された街灯を頼りにゆっくり歩く。15分ほども歩けば身体も温もる。

 大きな家の隣に小さく作られた菜園には、幾種かの苗が植えられているようだ。廃業したお好み焼き店の前を通り過ぎると、小さな学習塾が見えてくる。コカ・コーラの自販機が玄関前に設置されていて、その隣には2人掛けのベンチが備えてある。

冷たいベンチに腰を下ろす前に、温かいブラックコーヒーを買う。毎朝の習慣だ。空っ風が紅子の頬を掠める。ベンチに腰掛けてボトル缶の口を開ける。ふわっとコーヒーの香りが漂い、ひとくち口に含む。いい塩梅に広がって紅子の心を落ち着かせる。


 3年前の夏、その人と出会った。

野中真吾。フリーのカメラマン。紅子も名前くらいは知っている気鋭の若手。

見惚れるほどの端正な面立ちとスラリとした体躯、屈託のない笑顔からは穏やかな人がらが窺える。「男も女も惚れさせる」との評判を聞いたときは少し大袈裟に感じたものだが、会うたびにそれを実感させられる。仕事も丁寧で何せ頼り甲斐があった。だから6歳も年下と知った時の衝撃と言ったらなかった。

漁港から回航する船舶を撮影してもらったのだが、どれも没にし難い仕上がり。お陰で自分の仕事がルーティンワークになっていることに気付かされる。


 知り合って3ヶ月も経たない頃。何の気の迷いか真吾からランチに誘われた。それだけのことなのに何故あんなにはしゃいでしまったのか。遥か年下の真吾を異性として意識していると、心の真ん中が紅子を囃し立てる。そんな狂騒に釘をさす。


「仕事の邪魔だわ」


とはいえ。

光の早さで真吾にのめり込むのを感じていた。

30過ぎのおばさんなんて相手にされないと自分に言い聞かせる。けれどいつでもどこでも真吾は優しい。互いに思いは同じかもと勘違いしてしまうほどに。


 勘違いではなかったと知った日。真吾の誠実さは紅子の「6歳も年上」という、どうしても抱えてしまうコンプレックスを綺麗に払ってくれた。


「それはその・・・、お付き合いしたいって言われてると思っていいってこと?」


確認にも念を入れる。

「そうだよ」

穏やかな声が耳に届くとき。紅子の心は激しく波打ち、我慢しきれず真吾を抱きしめた。真吾も紅子を抱き寄せる。観覧車が見える公園。設置されたベンチに恋人たちが座り愛を語り合う。紅子は真吾にしがみ付き、私もあなたが好きだと伝えた。何度も。真吾は微笑んで思いを受け止める。

宵闇に包まれた冬の公園。観覧車に灯る明かりが夜空をぼんやり照らす。

心の奥底に無理やり押し込めていた恋心の言いなりになる。その感覚をとても心地よいと感じた。初めて触れる真吾の腕も胸も優しく、そして温かかった。


 それぞれの部屋の鍵を交換したのはそれから少し経ってから。

聞けば電車で20分ほどの距離に真吾は暮らしていて、だから紅子は足繁く真吾の部屋に通った。掃除も洗濯も料理も。自分のことだといくらでも怠けられるのに真吾のそれとなると、急に手抜きができなくなる。齷齪働くばかりのときを長く過ごし、久しぶりに抱いた柔らかな気持ちに打ち震える。真吾が少しでも快適に過ごせるよう身を粉にできる自分に感心してしまう。やればできるじゃないか、と。

真吾はよく笑いよく食べ、紅子もよく笑いよく話した。恋人から得られるエネルギーは強大で、それぞれがよく働いた。

 周囲の嘲笑に気付かないわけではなかったが、年下の男に篭絡されたおばさんという見做され方は真吾と交際することになってある程度覚悟していたことだし、そもそも真吾は恋人を「女を篭絡し好きに扱うような男」ではないことを紅子は知っている。

仕事とプライベートの区別が付けられないほど真吾は青くないし、紅子は若くない。優しい真吾が好き。気持ちを強くもつための理由なら、それだけで充分だった。


新居に越したのは通う紅子の負担を真吾が心配したからだ。真吾が紅子の部屋を訪れることがなかった理由の殆どは仕事で、2人暮らせる程度の部屋を探そうと提案されたとき、紅子は飛び上がるほどに喜んだ。きっとこのまま共に過ごし、いずれ結婚するのだろう。そんな風に思った。

同居して暫く経ち、月のものがこないことに気付き、ひょっとしてと期待し。

意気揚々と産婦人科を訪れたのは春になる頃。嫌でも気持ちは浮き立った。



「気持ちは分るけど」


医師は言った。

男のくせに黙れといきり立ったのはその慰めをあまりに見当違いと感じたからだ。


卵巣が両方とも萎縮している?

生理がこないのは閉経しているから?

急にそんなこと言われて誰が「ああそうですか」と納得するものか!


喚き散らす紅子を落ち着かせるためか看護師が3人診察室に駆け込んできた。


「潮崎さん。ショックを受けるのは当然です。でもここは病院。とにかく落ち着いて!」


「うるさい!」

「うるさいうるさいうるさい!!」


真吾の笑顔が胸に突き刺さる。なんてことをしてしまったのだと思う。

半狂乱の紅子を看護師が抱え、関係者専用の通路から処置室へ連れて行かれる。医師はとっくに紅子に関心を失くしていて、別の患者のカルテが映し出された画面を眺めていた。


何の注射を打たれたのか分からないが気分は落ち着いた。どれほど眠ったのだろう。気付けば15時過ぎている。有給休暇を取得しておいてよかった。職場を抜けてここに来ていたなら「このまま休む」理由を何かしら思いつかなければならなかった。著しく下がった思考力にそんなこと頼れっこない。

意識が明瞭になるほどに現実が紅子を打ちのめす。何を考えられるはずもない。

 看護師がやってきて紅子を軽く診る。今日はこのまま帰っていいと言われ、晒した醜態を思い出す。


「さっきはすみません」


消え入りそうな声で言うと年嵩のその人は紅子を抱きしめてくれた。


「辛いこともあると思うけど負けないで」


この人は何人子供がいるのだろう。左手に嵌められた結婚指輪を見てそんなことを思う。妊娠したと知った日どんな風に祝ったのだろう。この人の夫はどんな顔をしてそれを喜んだのだろう。何も考えられないはずなのに頭に浮かぶのはそんな疑問ばかり。

堪らず泣き出す紅子を抱きしめる腕で、この人は愛する我が子を何度抱き寄せたのだろう。号泣したところで事実が覆るわけもないのに、ただ泣くしか術がない。

自身の無力さを呪う気力さえ紅子は失っていた。



 夜明け前が一番暗いという。紅子はふと夜空を見上げる。

冷めつつあるコーヒーを口に含み煌く星々を眺める。仕事を辞め1日を持て余す日々の中、唯一落ち着けるのはこの時間かも知れない。


真吾に別れを告げた日。真吾は狂った。

離れること以外思い付けなかった。2年ほどの間に真吾がどれほど子供好きで我が子を欲しているか、紅子はいくらも理解していた。自分にその未来が望めないのなら、訳は言わず消えてしまうことが、真吾のための最後の思いやりと信じて疑わなかった。


「理由を言えよ。何言ってんだよさっきから。訳分かんねぇよ!」


感情を高ぶらせる真吾を見るのはこの時が初めてだった。

どれほど穏やかで優しい人であるかを、紅子は思った。

もう1年も前の出来事。年上女房を気取った紅子は2人過ごす最後の日、真吾を落ち着かせることも納得させることもできなかった。


「34歳のおばさんが自然妊娠できるとか思ってるんですかぁ?」


何かと口さがない職場の後輩から、付き合い始めた頃に言われた言葉。上目遣いに擦り寄ってくる嫌な女。

この子も真吾のことが好きだったのね。そのとき軽く感じた気持ち。

自然妊娠どころか不妊治療さえ効果を成さない体は、女のそれでないと思った。

いけ好かないあの女が吐いた言葉は刃となり、心をえぐり取る。

真吾を思えばこその離別だった。その気持ちに嘘はない。


去年の暮れ。このベンチに誰かが座っていた。

人気のない時間。人気のない通り。

いつもいない誰かの影にどれほど震えたろう。


「よぉ」


耳に馴染む声。


「真吾?」


唇から零れる名前。

ホルモンバランスが乱れ、別れてから5キロほども太ってしまった紅子をここぞとばかりに侮辱する。真吾に近付けず、離れた位置で詰られるままに暫く過ごした。


「どうしてここにいるの?」


「お前に言う必要ねぇだろ」


研ぎ澄まされた剣のように真吾は振舞い、立ち尽くす紅子を一瞥して闇の中に消えていく。弾かれたように真吾の名を呼ぶ紅子に、真吾が応えることはなかった。

仄暗い街灯に映し出された真吾の頬も首筋も随分細っていて、紅子の目に焼き付いたまま消えない。


あれは夢だったんじゃないか。真吾と別れ仕事を辞め、新たに住み着いた知らぬ街で過ごすのに体を壊してしまった。診察してもらった内科医に紹介された心療内科で、処方された眠剤が手放せなくて困る。仕事も探さねばならないのにその気力が沸かない。医師から朝日を浴びるよう指示されているが従えない。外が明るくなるにつれ気持ちは塞がる一方でカーテンさえ開けられないのに。そんな自分にせめて抗いたいと始めたのが午前4時のウォーキングだった。


どうしてこの時間、ここで休憩すると真吾が知っていたのだろう?


考えたところで答えなど出ない。例えば真吾が紅子の住まいを探し当て会いに来たとして。昼間チャイムが鳴ったところで布団から出られない紅子に対応などできないし、夜の来訪者など相手にするわけがない。携帯電話などとっくに解約したし、真吾からの連絡が受けられない環境を整えたはずだったのに。


あの出来事が夢だったなら。


それなら、それでいいと思う。

真吾が辛くないならそれでいい。あれほど有能な好人物の、自分がその足を引っ張る存在であるなどあってはならない。真吾の幸せを心から願っている。眠れぬ夜の冷たさを、真吾が知る必要はない。


 すっかり冷え切ったコーヒーを飲み干し、紅子はベンチから立ち上がる。缶をゴミ箱に入れ再び夜空に目を移す。冬の星空の美しさを教えてくれたのは真吾だった。楽しかった日々を星々は知っているようで辛くなる。


静まり返った住宅街。朝はもうじきこの街に訪れる。

夜明け前に帰宅すればまた、代わり映えのない1日が終わりの始まりを告げる。

いつか見た夢をまた見たいと願っていることを、誰に告げることもない。

この胸に留めていればそれでいい。

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冬の朝 梅林 冬実 @umemomosakura333

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