第26話

シッポ


なんとも退屈である

定年を迎えたばかりのあのときの幸福感は何だったのだろう

会社に行かなくても良いと思ったときの開放感は何だったのだろう

今ではその開放感も幸福感も無い

あるのは目の前に広がる無力感だ

一方、妻は朝から晩まで、趣味だ、会合だと忙しい

目は生き生きとし、体の動きはきびきびとしている

朝と晩にチラッと妻の影を見る程度であるが、決して仲が悪いわけではない

A氏は話し相手もなくぼんやりとすごす日も多く、日本語も忘れて仕舞いそうである

今日が何日なのかもわからない日もある

曜日なんかに興味も無い

予定も無い

訪問者は、物売りか、郵便配達。

電話も来ない、携帯もならない

それでいて、郵便物は大量に来る

たまに出かけて気まぐれに買った鉢物もすぐ枯らす

食い物を買っても、すぐ腐らす、

本は読まない、映画も見ない。

しかし、

こんな事はどうでもいいことだ

ただ、ただ、話し相手だけはほしいものだとA氏は考えた

そこで、A氏は飼い猫のタマに注目した

つまりタマを話し相手に選んだのだ


思いついたが吉日で

いきなり「タマ」っと声をかけた、

声をかけたが返事が無い

返事が無い代わりにシッポを振った

俺がいることを知りながら目を開けない

いつもの事だがチョット腹を立てた

次に「今日はどうだった」とえらそうに話しかけたが

またまた返事が無い・・・あたりまえか?


人間じゃないから返事はできないよな、と言うと

タマがニャーとないた。

このわずかな会話が楽しくてA氏は話を続けた

「今日は楽しかったか」と聞くとシッポが動く。

この反応にA氏は興味をふくらませた

今日はタマの好物の缶詰だったので「今日の飯はおいしかったろう」と聞くと

「ニャー」と鳴いた

今日は天気が良かったね、と話しかけたら「ニャー」と鳴いた

現実に今日は天気が良い!

餌と天気の質問の反応の仕方に、タマは人間のいっていることを理解しているのでは、と、A氏は何となく思った。

それを確かめようと、試しに今日は水曜日だが、「今日は日曜日だね?」とタマに聞いた。

タマのシッポは左右に動いた

もう、このことだけで「ニャー」はイエス、「シッポ振り」はノーだと言う仮説を立てた

立てた仮説は立証しなければいけない

もしこの仮説が立証されたら、タマは猫の中の天才かもしれないと、胸をどきどきさせた

しかし本当はタマが天才であるよりも話し相手になってくれることをA氏は望んでいるのである


A氏は座りなおしてタマと向き合った

聞いてくれるか、タマ?

ニャー

「確かに定年後は悲しいほどに暇だが、今まで精一杯やってきたからこれでいいんだよな?」

・ ・・・シッポを降る

つまり「ノー」の返事である

「お前はいつものんびりと日向ぼっこをしているが、毎日が幸せなんだろうなあ?」

・・・・シッポを振る

この意外な「ノー」の返事にA氏はわずかに驚いた

次に聞いた

「何か不満でもあるのか?」

・ ・・・ニャー

A氏の目をじっと見ながらの「イエス」である。

なんだろうと目をうつろにして考えた

「もしかしてトイレのことか?」

・・・・ニャー

「いつも幸せそうにおしっこをしているではないか!」

・ ・・・・シッポを激しく振る

目を細くして横を見て「ノー」である」

この振りの激しさを見てA氏は

「ヨシッ!今度はトイレ掃除を徹底しよう!」と薄目を開けて見つめるタマに愛情を示した。

・・・・・タマはニャーと鳴き、目をまん丸にして、いっぱいに体を伸ばした

これまでのタマとのやり取りから、イエスは「ニャー」、ノーは「シッポを振る」と確信した。

男は、少々興奮して又、質問を続けた


「タマは今の俺を見てどうしようとないヤツと思っているんだろう?」と語尾を上げた

・ ・・・・ニャー

「オレは、送れず休まず会社に行き、一所懸命働いてきたではないか」

・・・・・とシッポを振って「ノー」

「冷たい返事ではないの?それだけではだめだとでも言うのかい?」

・・・・・ニャーとうなずく

「これだけでは夫の役目を果たして無いとでも言うのかい?」と質問を重ねた

・ ・・・・ニャーと真剣なまなざし

タマとの会話に眉を上げたり下げたりする自分に可笑しくなって、

「まーこんな事をお前と話したって、しょうも無いことだ!

ただ、お前の食事に関しては気を使っているつもりだけど」とA氏は口元を緩めた。

それに対しタマは

・ ・・・・シッポを振る

それも、激しく振って「ノー」を訴える

何? もっと上等のえさを寄こせって?

・・・・ニャー

お前もここに来て13年になるから、人間で言えば結構な年だね!

「わかった、そうしてあげよう!」

目は大丈夫か?

・ ・・・しっぽを振る

「そうかそれはいけないな。老眼にでもなったか?

老眼鏡でも買ってあげようか」

・ ・・・ニャー

しかし老眼鏡をしているネコは見た事がないなー、と一人つぶやく

耳はどうだ?

・ ・・・・尻尾を振る、つまり、悪いという意味か?

「そうか、耳が遠くなったのか。

猫用の補聴器が発売されるまで、

お前を呼ぶときは声を大きくしよう!」

・ ・・・ニャー

足は大丈夫そうだね

・・・・・シッポを降る

前足かい?

    ニャー

道理で、壁をひっかくことも無くなったからね

    ニャー

こんな会話を一時間以上も続けていた

しかし、

窓を開けていたのがいけなかった

隣の主人が役所に電話したらしい「隣の人の様子がおかしい」。

「独り言がはげしくて、気が変になっているかもしれない」と。

隣の住人は「おかしくなっていて、火でも出したら大変」と自分に降りかかる心配を大きく膨らませたらしい

数日後、チャイムが鳴ってA氏が出ると

感じのいい民生委員の女性が、にっこりと笑って、ドアの前に立った。

「ご近所の方が心配しておられるのですが、どこか具合がおわるいのでは?」と言った

男は、急の事で質問の意味も分からずに「特に具合は悪くはありません」と穏やかに答えた


タマは後ろで、激しくシッポを振った


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