第53話 本当のこと、本当の気持ち
バカだな、と思う。
アントワーヌに支配されることがあったって、わたしの精神力の方がずっと強いはずなのに。
だけどアントワーヌの神聖力がわたしから消えないように、アントワーヌはわたしの影の中にひっそり佇んでいる。寂しげな少女のように。
わたしはその影を振り払えない。もしかすると振り払わないのかもしれない。
フードを被って約束の場所へ行く。馬小屋の中はいつも馬糞が転がって、決して快適とは言えない。アンだとしても、馬小屋しか泊まれないと言われた日は気分が落ち込んだ。冒険者あるあるだ。
そっと、カンテラを持って小屋に入ると、壁にもたれかかるミルズがいた。こんなことをしてはいけないと心に警鐘を鳴らしても、もうその音は心の中の風に乗ってどこかに消えてしまった。
なにも聞こえない。
誰の声も。
両耳を塞いだわたしの耳に、彼の声が聞こえる。
「アントワーヌ様」
ギュッと目を瞑る。こんなことなら会いに来なければよかったのに。
後悔、後悔、後悔、⋯⋯。ラカムの屈託のないあの頃の笑顔が、こんな時なのにまぶたの裏に浮かぶ。
ラカム。
こんなわたしにどれ程良くしてくれたのか。自分の命を犠牲にしてまで、他人の命を救ってくれる人なんている? そんなの⋯⋯狡い。わたしは一生、ラカムには勝てない。
文字通り、『魂が縛られてる』。
「アントワーヌ様、お寒いのではないですか? よろしければ私のマントの上に」
ミルズは騎士らしく、マントを敷き藁の上に広げていた。アントワーヌはそんなところに座ったことなど一度もないに違いない。
そろっと足を前に出して、馬小屋の奥へ向かう。
それは要するに、ミルズの隣に行くということだ。
覚悟が必要になる。
「さぁ」
ミルズは立ち上がってわたしに手を伸べた。わたしはそっと、その騎士らしいふしくれだった大きな手に自分の細い指を乗せる。
ミルズは手を取ると膝をつき、恭しくわたしの手の甲に唇をつけた。
「ああ、ありがとうございます。これで死地へ赴く覚悟ができました」
「な、⋯⋯なんてことを言うの?」
ミルズは仄暗い灯りの中で、ふっと笑った。
「ご主人様のお役に立てればいいのです」
「ラカムがそんなことをすると?」
「いいのです。今までの信頼が重いくらいです。⋯⋯私は恐らくアンドリュー殿下の手にかかって帰ってくることは叶わないでしょう。アントワーヌ様だって、殿下の気性をご存知でしょう?
どんな書状を持って行っても、殿下が納得するとは思えませんよ」
唇をギュッと噛む。
アンドリューは自分の威光のことしか頭にない。王国中の貴族に頭を下げさせて、自分が一番になりたい人。だからこそ、ラカムを鬱陶しいと思うんだろう。
「ラカムがきっと、そんなことが起きないようにしてくれるわ」
わたしは彼の両手を強く握りしめた。まるで、神に祈るように。でも、彼の手は大きくて包んでしまうにはわたしの手は小さすぎた。
「やはりご主人様を、愛していらっしゃいますか?」
「············」
そこでアントワーヌは唇を結んだ。それはイエスともノーとも取れる沈黙だった。
ラカムはわたしを攫った。わたしはふわふわした心地だった。そんなことは今までなかったから。
師匠への愛情は、子供が親に向けるようなものだったし、パーティーの仲間たちはわたしの大切な仲間だった。
そんなわたしを軽々とラカムは攫ってここまで連れて来た。ラカム······。
揺れる気持ちに船酔いしそうになる。
早く迎えに来てほしい気持ちと、見逃してほしいという相反する気持ちが心の振り子を揺する。
「アントワーヌ様、私はご主人様を尊敬しております。冒険者だった方がここまで政治を行うなら、きっと世の中のことを長い時間考えてきたのでしょう。領民たちの笑顔に勝るものはありますまい。
しかし一方で······あなたを独占するご主人様を妬んでおります。あなたたちは強く結ばれている。誰にも間に入れないほど」
「違うの! それには訳があるの! ラカムが愛しているのはアンで、アントワーヌではないのよ。彼の心の中にいつもいるのはアンなのよ! わたしではないの!」
頭の中は暴発しそうだった。
アントワーヌのいろんな想いがこぼれ落ちて、溢れた想いが掬いきれない。
わたしはアントワーヌがそんなことを考えているなんて微塵も気づかなかった。
「······よくわかりませんが······ではアントワーヌ様は」
「言ってはいけないの。言葉にはできないの。わたしにはなんの権利もないの。ごめんなさい、落ち着いて聞いてほしいのだけど、わたし、本当はもう······」
「アントワーヌ様、これ以上お辛いようでしたらお話されなくて結構です」
「いいえ! 言わせて。ミルズ、ごめんなさい、気を持たせるような行動をして。――わたしはあの晩の発作で死んだの。そして不条理に亡くなったアンの魂がわたしの身体に入ったのよ。今のわたしは思念の残留でしかない。アンが、わたしを心の中で受け入れてくれているからここにいられるの。そうでしょう、アン?
わたしはアンのやさしさに応えたい······」
「すきよ、ミルズ。ずっと前から。でもわたしは病弱だったし、あなたとは身分に差があるから想いを交わすことはあきらめてた。でもわたしってバカね。他人の妻になってもあなたを想っているなんて」
「そもそも私では不釣り合いなんです」
「いいえ、もしあなたになにかがあったら、今度こそわたしをあなたの元へ連れて行って。ひとりじゃ怖くてできなかったことを、あなたとならできそうな気がするから。
死はわたしたちを分かつことはないわ。
でも······生きて。わたしの分まで、見られなかったことをたくさん、後で聞かせて。そして抱きしめて」
ミルズは一度だけ、アントワーヌを抱きしめた。
それはラカムがいつもしてくれるような、ふわっとしたものじゃなかった。
嫌な予感がした。涙がこぼれた。ふたりがここで終わる理由はないように思えた――。
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