第52話 ほかの男のことを

 ミルズはやって来ると恭しく礼を済ませ、あの時と同じ、少し悲しみを湛えた瞳でわたしを見た。それはほんの一瞬で、周りの人からはわからなかったに違いない。

 夏空のように、澄んだ瞳。

 これから彼が大変な任務に着くというのなら、わたしは席を外していた方がよかったのかもしれないとひどく後悔した。


「承知いたしました。何に変えてもこの書状、王宮に届けましょう」

「頼む。信頼している。本当は俺が行くべきなんだが、いつ状況が変わるかわからない今は動くことができないんだ」

「もちろんそれを承知した上での承諾です。ご心配なさらずに。先の失敗の分、必ずやり遂げてみせましょう」

「⋯⋯済まないな」

「いえ、信頼を裏切らぬよう、良い結果をお待ちください」


「ミルズ!」

 みんながわたしを見た。できることならわたしもわたしを見たはずだ。ヒューは慌ててわたしたちの間に入ろうとした。

「伯爵夫人。私は素晴らしいチャンスをいただきました。なにも心配なさることはございません」

「ミルズに何かあったらわたしは泣くわ! わたしをもしまだ泣かせたくないと思うなら、なにがあっても無事で帰ってきて。皇太子殿下を例え殺してでも逃げられるなら――」

「アントワーヌ!」

「お兄様! アンドリューは狡猾でいやらしい男よ。わたしたちを苦しめるためならなんだってするわよ。今回の件だって、目に見えるものだけを狙っているわけじゃないわ。わたしたちに対する圧力をかけているのよ。――ああ、ラカム。ミルズを行かせないで、お願いよ。たった一度の――」


 アントワーヌは激情したことが災いしたのか、そこでふとわたしの意識が戻ってきた。

「夫人。私にチャンスを」

「ならば生きて帰ってきて」

「必ず」

 ミルズはまるで戦地に差し出す生贄のように見えた。アントワーヌだけでなく、わたしの気分もダウンする。

「アン、意地悪じゃないんだ。俺の部下の中でも信頼に値するのがミルズなんだよ」

「⋯⋯わかってるわ。ミルズがどれ程有能で、信頼に足るのか、わたしにはわかるつもりよ。乗馬を熱心に教えてくれたもの⋯⋯」

 ミルズは最後ににっこり微笑んで、部屋を出た。わたしもできるだけやさしい表情で、彼を見送った。ラカムの目は見られなかった。ごめん⋯⋯。


 ◇


 ガイは話し合いの結果、鉱山に書状を持っていくことになった。ガイならまず心配はいらない。ガイを怒らせたらひどく後悔することになるから。

 まるで鉄のように熱しやすい。

「んじゃ、ワシはワシの仕事をするか。なんの心配もいらねぇぞ」

「お願いだからなんの結果も出ないうちに暴れないで」

 わたしは祈るような気持ちで言ったのに、彼は「ワシとアンの仲じゃねぇか。アンが不安に思うようなことはしねぇよ。安心して待ってろ。⋯⋯お前は今は身体が弱いんだから、無理するんじゃねぇぞ」と言ってにかっと笑い「行ってくっか」と城を出て行った。


 ヒューは「本当に大丈夫ですかねぇ? 私が一緒に行った方がよかったんじゃないですか?」とおろおろした。

 そこでラカムは「なるようになるさ!」とヒューの背中をバンと叩いたので、ヒューは思わず倒れるところだった。

 力加減を覚えて欲しいんだけど、勇者様。


 鉱山への手紙には「やたらに交渉に応じないこと」、「腹の立つことがあっても乱闘はしないこと」、「入り口はしっかり閉めておくこと」と書いた。ドワーフと言えば、みんながガイみたいなんだから約束事ひとつするのも大変だ。

 でも恐らくわたしたちとドワーフたちの協定は守られるだろう。

 ガイはドワーフ族の英雄だし、その英雄と人間の英雄が結んだ約束を反故にしないはずだ。

 だから、問題は⋯⋯。

 王室が強硬な手段に出たらどうしよう?

 わたしは王宮に駆けていって、お父様に泣いて縋ってでも事態を集収しよう。

 お父様はアンドリューの指示に従えと言うかしら?


 窓の外を見る。

 王宮は向こうの方角だ。

 急いで帰ってきてしまったけどこれでよかったんだろうか?

 伯爵領の自治をきちんと認めてもらうべきじゃなかったのか?


 わたしたちは政治に疎すぎる⋯⋯。


 そして春が来るまで、病床のお父様に会うことは叶わないんだ――。

 わたしはどこかで間違えたかもしれない。


「アン⋯⋯不安なのはわかるけど、思い詰めるのは良くない」

「わからないの。わたしとアントワーヌの想いが交錯して、急に胸がひどく痛んだり」

 ラカムはゆっくり歩いて近づいてきて、わたしの頭を自分の胸に押し付けた。ラカムの匂い⋯⋯。

「ミルズのことは悪いことをしたと思ってる。ほかの者に頼むこともできたはずだと」

「だったら」

「だけど俺はお前の護衛を頼むくらいミルズを信頼してるし、この間のことだってあの悪魔に唆されたんだってわかってるよ」

 ラカムの手は頭からゆっくり、頬に滑り落ちて、その濡れたような青い瞳でこう言った。

「頼むからほかの男のことは考えないで。アントワーヌの時も」

 そして顔の角度をやや斜めにすると、わたしの唇を奪った。わたしの手は冬用の厚いカーテンを握りしめていた。


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