イエルバの木は何故枯れないか

水銀コバルトカドミウム

完結

「私の人生は苦難の連続でした。

唯一の血縁者だった母は2歳の私をアパートへ置き去りにして、刑務所へ入れられました。

児相の人がくれたパンが美味しくて、美味しくて。

今も菓子パンを食べると自然と涙が出ます。

結局、頼る親戚も居らず、私は施設へ引き取られました。

勉強は苦手でしたが、何とか努力して市で1番の工業高校に入りました。

「普通」の家庭で育った友人に嫉妬を禁じ得ない。

馬鹿をやったりもしたけど、友達と遊ぶ時にいつもそんな事を考えてしまう。

そんな青春でした。

工場に就職して妻と結ばれ、娘が出来ました。

こんな私にも『普通』の家庭が築けるんだ。

一時期は本気でそう思っていました。

全てはつけ上がった私が悪いのでしょう。

10年前に妻が交通事故で……。


残された娘をこれ以上苦悩させたくない。

私が出来る全てを娘にしたつもりです。

グレたりせず真っ直ぐ可憐に育ってくれたのは嬉しかった。

神は私にまた私に試練を与えたのでしょうか。

働き詰めだった私が癌と申告されたのが1年前。

私はもう長くありません。

こんな苦行のような人生に後悔などありません。

ただ、娘がこの先どうなるのかが気がかりで……。

刑事さん、どうか、娘を見つけて下さい」

広い4人部屋の病室には暫し沈黙が訪れる。

演説を終えた病床の男は、やつれきった生気の無い顔を鵜飼刑事の方へ向けた。

事前に身の上話を聞いていたので予想しては居たが、その何倍も重苦しい話に、刑事は溜息を付いた。

これでは無作法だと思い、直ぐに返答をする。

「我々も捜査に全身全霊で挑みます。

娘さんを見つけ出すにはお父さんの助力が必要です。協力をお願い致します」

「もちろん、この身を捧げます。どうか、どうか……よろしくお願いします」

鵜飼刑事は井納を気遣って柔らかい握手を交わした。


女子高生の井納昭恵はどのような人物か。

父、井納信介の話によれば品行方正を絵に描いたような存在らしいが、どうにも信頼出来なかった。

病膏肓に入り、精神的に衰弱した人間が娘を理想化してしまっているという可能性が考えられるからだ。

報告によると近隣で被害者が身元不明の事件や事故は起こっていない。

多感な年代だ、父の死に絶望し恋人の元へでも身を隠した線もある、と鵜飼は推測した。


という考えは多数の聞き込みが覆す事になった。

友人、担任教師、バイト先、隣人、どの視点からでも彼女は理想的な関係を構築しているものと分かった。

容姿端麗で成績優秀、それを鼻にかける事もなく人徳ある人物としか言いようが無い。

それに交流関係が広い。

友人への聞き込みは労力が必要で困ったくらいだった。

特にそれと言って浮いた話は無く、病気の父親の為にバイトをして家計を助け、見舞いを欠かさない。

今どき珍しい子だと井納は思った。


駆け落ちの線は薄くなった。

誘拐され監禁や殺害を受けたのか。

昭恵の生活圏内にある駅や行きつけのカフェの防犯カメラを人海戦術でチェックしたが、有力な証拠は得られない。

関連がありそうな殺人や事件を調べても糸口は掴めない。

柄の無いジグソーパズルを組み立てているようで、無為に過ごすような日々に鵜飼は苛立ちを覚えた。

そうして、信介の余命は尽きてしまった。


見慣れた4人部屋の病室に赴く鵜飼。

井納信介は初めて会った時の顔が元気だったように見えるほど衰弱し、半分生きている状態だった。

「貴方には、なんと言えばいいの分からない。

死ねと言われれば死ぬし腹も切る覚悟でいます。

本当に、申し訳ありませんでした」

深く礼をする鵜飼。

謝罪なんて慣れたものだと思っていたが、信介の境遇を思うと小手先の話術も全て吹き飛んでしまう。

ただ思っている事を口にするのだった。

「良いんです鵜飼さん。

昭恵は私が殺したようなものですから」

「それは、どういう……」

「お時間です」

鵜飼の疑問を看護師が遮った。

看護師は虫を窓の外に追い出すように刑事を部屋から出す。

あれは衰弱から来る自己への過剰な嫌悪であったのか……。

鵜飼は病院を出ていつもの無為な作業に戻った。


井納信介が亡くなって3ヶ月後、捜査は急展開を迎えた。

信介の入院していた病院の移植臓器管理に不正が見つかったとの事だった。

登録されていない人間1人分の臓器は10代女性のものだ。

信介は本当に昭恵を愛していたのだろう。

鵜飼はイエルバの木は何故枯れないかという民話を思い出した。


ある所に父と美しい娘が居た。

父は娘を喪うという事を恐れていた。

創造主が現れて、そうとは知らずに父と娘は彼を人としてもてなす。

創造主は父に願いを叶えてやると言う。

娘を喪わないようにしたいと父は答えた。

娘を永久に若く美しく生かしておければ満足なのだね?と創造主は尋ね、そうだと父は言った。

創造主は娘をイエルバの木に変えて天へと帰って行った。

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イエルバの木は何故枯れないか 水銀コバルトカドミウム @HgCoCd1971

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