妖殖の邑(むら)

@me262

第1話

 私の人生を自ら終わらせるに当たり、終焉の地としてあのむらを選んだのは当然と言える。あの邑こそ私の人生を一瞬だけ、誰よりも強く輝かせ、そして永遠に暗闇に陥れ、2度と消えない心の傷を刻み付けた場所なのだから。

 思えば長い、長過ぎる人生だった。しかし、その中身は虚ろでしかない。何とも言えない敗北感にまみれ、まさしく脱け殻の様に生きてきた私には、手に入れたものも、残すべきものもなかった。いつ死んでも構わなかったが、それでもこれまで生き恥を晒してきたのは、ある人の遺言を守る為だ。しかし、流石に長く生き過ぎた。もうおしまいにしたい。だから私は最期にあの邑に戻る事に決めた。自分の人生にけりを付ける為に。そして、長年目を背けてきた、ある事を確かめる為に。

 朝1番に東京を発ち、目的地の信州へと向かう列車の座席に大きめのリュックを抱えた姿勢で埋もれ、窓の外を流れる巨大なコンクリートの山脈をぼんやりと眺める内に、私の心は自然とあの頃へと引き戻されていく。平和と飽食に満ちた現代の日本国から、戦争と飢餓の蔓延る末期の大日本帝国へと。


 昭和20年、もはや和暦で表すと年月の感覚が掴み辛い時代になったので以降は西暦1945年とする。この年の3月10日に日付けが変わった直後の真夜中、連合軍の超大型爆撃機B29による大編隊が帝都東京に襲来し、空前絶後の絨毯爆撃を行った。3年以上に及ぶアメリカとの総力戦に、完全に押し負けていた日本は陸海軍共に充分な迎撃が出来ず、実に1600トンを超える焼夷弾が投下され、木と紙で出来た大都会東京を一晩で焼け野原に変えた。死者は8万人を超え、被災者は100万人を超えた。私と母は命からがら逃げ出して運良く助かったものの、家は完全に焼失してしまった。

 翌日、看護婦だった母は小学5年生の私に疎開を薦める。当時、既に小学校では地方への集団疎開が行われていたが、飽くまでも個人の判断で決める事であり、一人息子の私の事が心配な母はそれまで逡巡していたのである。

 東京は既に安全ではない。これからも又、同じ様な大空襲があるかも知れない。昨夜、生きるか死ぬかの瀬戸際を経験し、その事を痛感した母は、漸く私の疎開を決断した。

 とは言え、親戚筋は全員が神奈川や千葉などの東京に近い所に住んでいるので、具体的に何処へ疎開するかわからない。困った母は親戚達に片っ端から連絡を取り、遠縁の男が信州の農村に住んでいる事を突き止めた。母は一縷の望みを託してその縁戚に手紙を出す。数回の手紙のやり取りをした結果、私はその男に引き取られる事になった。

 私は嫌で堪らなかった。母も知らない縁戚の男と暮らすなど、想像も出来なかった。当然行くのは私だけだ。母は病院で看護婦の仕事があるし、徴発された輸送船で航海士として国に尽くしている父を待たなければならない。たった1人で何処かに行くなど、今まで無かった。

 しかし、駄々をこねて母を困らせる事もしたくなかった。何よりあの大空襲を考えると、今度敵の爆撃を受けたら生きてはいられないと思った。低空飛行をする無数のB29のエンジンが発する低い轟音が耳にこびりついている。母同様に私自身も大空襲の恐ろしさを痛感していたのである。

 私はやむ無く疎開をする事にした。

 送り側と迎え側、双方の準備が整うまで数週間を要し、私が疎開先への汽車に乗り込んだのは4月に入ってからだった。私は6年生に進級していた。

 こうして、寂しさと心細い思いを抱いたまま私は上野駅のホームで母と別れ、1人信州へと向かったのである。

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