第25話

 六本木ヒルズレジデンスC棟、四二階に設けられた一室に彼女は居た。


 LDK36.2帖と広いリビングルームから、窓の向こうに広がるパノラマを見渡す少女。その手には、最新のスマートフォンが握りしめられている。


 大理石のテーブルには書類の他にUSBメモリ、それに写真立てが一つ飾られていた。写真の中の少女はまだあどけなさが残っていて、隣に立つ男性はとても優しそうに微笑んでいる。


「これで……良かったのよね?」


 赤く夕暮れに染まったアビルのカーテンを見上げる少女は、先程から自問自答を繰り返している。少女の心もあのカーテンのように揺れていた。


 がらんとした部屋に甲高い音色が鳴り響く。それは訪問者を告げる合図であり、悲劇の舞台の開演を告げる音でもある。

 復讐心に囚われた少女の舞台、ハムレットが幕を開ける。


 携帯機器をパンツスーツのポケットに無理やり押し込んだ少女は、次いでテーブルに置かれたUSBメモリに手を伸ばす。それをジャケットの奥にそっと忍ばせた。


 それからすぐ、訪問者を向かい入れるため玄関に歩みを進める。


「どうぞ、入って叔父様」

「ああミチル! 私のかわいい姪にようやく会えた。……部下も一緒なのだがいいかな?」

「……ええ、もちろん。上がってもらって結構よ」


 幽霊のように無表情な顔と声音の姪に、京太郎は内心底知れぬ不安に駆られていた。


 すでに兄を、宗次郎を殺害したことが露見しているのではないかと、華奢な背中に向けられた暗い瞳がわずかに揺れる。かぶりを振るように不安を、恐れを振り払った男の目は、次第に底の見えない壺に広がる空洞のようになっていく。


「合図を出したら……手早く処理しろ」

「…………っ」


 背後に立つ間宮に声をかけると、彼は恐怖と緊張でガタガタ震えはじめる。すごい汗の量だ。宗次郎を殺害したときの感触が鮮明に、つい先程のことのように蘇っていた。


「何をしている、行くぞ」

「……は、はぃ」


 長い廊下を進みリビングへやって来た京太郎は、先程から鼻にツンと刺さる刺激臭に眉をしかめている。


 ――何だこの臭いは……? 掃除くらいちゃんとしろ、このボケがッ。


「――――!?」


 だが、すぐに悪臭などどうでもよくなってしまうものを京太郎は発見してしまう。


 大理石のテーブルに置かれていた書類の束だ。

 京太郎はその中から一枚を手に取った。


「こ、これは……」


 書類にはトリック製薬のこれまでの悪行の数々、汚職に関するデータが事細かに書き記されていた。当然、そこには彼女の父である宗次郎に関することも詳細に記されている。


「【人類永久計画】を中止しなければ父に、それらを公表すると脅されていたのよね? だから叔父様は父を殺した。違うかしら?」


 不気味なほど冷静な声音が鈴を鳴らしたように叔父の鼓膜を揺らすと、京太郎は深く嘆息しながら背中を丸めた。


「そうか。すべてを知った上で、私を呼んだということか。相変わらずのじゃじゃ馬娘だな」


 もはや優しい叔父を演じる必要はなくなったと、京太郎は風の向きが変わったように態度を変えた。


「それで、これを警察に渡すか? 兄を殺したのが私だと訴え出るつもりだったか? 証拠もなにも残っていない。小娘の戯言を誰が信じる……?」

「ええ、確かにそうね。ここにある書類は汚職に関するものばかり。これではきっと警察も叔父様を捕まえてくれないわね。各方面に多額の賄賂をばら撒いているならなおさら、私の証言は絵空事として処理されてしまうでしょうね。でも、そんなことを心配してくれなくても結構よ。私が知りたかったのは誰が父を殺したのか、それだけだもの」

「くだらん。そんなことをいまさら知ってどうする?」

「あら、やっぱり父と違って馬鹿なのかしら?」

「な、なんだと!?」

「だって知れば殺せるじゃない? 犯人である叔父様を……」


 二人の視線は絡みついたように、空中にじっと交錯したまま挑み合っていた。互いに、内側に獰猛な、とどろくような思いが胸のなかに渦巻く。全身をめぐる濁った気持ちが、血管からどろどろと滲み出てくるような、言葉ではいい表せないほどの憎悪が込み上げてくる。


「小娘がっ……私を殺すだと!? さすが無能な兄の娘だけのことはあるな。この状況でどうやって私を殺す? いい気になって私を呼び出し、ここに招き入れた時点で死ぬのはお前の方だ、このまぬけがッ!」


 先に口火を切ったのは京太郎だった。


 殺意が込められた言霊を投げつけられた少女の顔に冷笑が浮かぶ。蔑むような目で見下された途端、いつも自分を見下し続けてきた兄と眼前の少女が重なった。劣等感を植えつけられてきた男の怒りが、憎しみが火山の如く噴火する。


「殺せぇええええええッ!! 間宮ぁあああ、今すぐにこの女をぶち殺せぇえええッ!」


 しかし、間宮が京太郎の指示に従うことはなかった。


「でぇ、でぎまぜぇん……。もう、もういやでず……」


 ガタガタと震えてその場に臀部を打ちつけた男は、ついに罪悪感に押し潰されてしまった。


「いまさら殺せないとはどういうことだァッ! ふざけるなよ、この役立たずがァッ!!」


 部下の胸ぐらを掴み取ると、間宮の顔面に何度も拳を振り下ろす。鈍い音が重なり、壁と言わず天井と言わずまるで噴霧器で吹き飛ばしたような血しぶきが、部屋を赤く染めた。


 ぜぇぜぇと肩で息を刻む男は、ピクリとも動かなくなった間宮を床に投げ捨てると、血に染まった手で襟締を外す。両手で襟締の端をピンと張るように握りしめた京太郎が、悪魔のような相貌で少女に向かい合う。


「大人しくしていれば何一つ不自由のない人生を送れたものを。父親同様大バカものだな!」

「頭に血が上るとすぐに周りが見えなくなる。叔父様のような愚者でないだけマシよ」

「減らず口をっ!」


 無抵抗の少女の首に襟締を巻きつけた京太郎が、憎悪に顔を歪めながら力を込めていく。


「父親の死に様を知っているかぁ? やつがアビルゲートでアビルの中に入っている間に、私と間宮で四本目のソウルエナジーを打ち込んでやったのだ。やつは自分が死んだことにすら気付かず、阿呆面さらして逝きやがった! とんだ間抜け野郎だ! この家に覚醒剤を仕込んだのも私だよ。世間的には自然死とされてしまったが、今となってはどっちでもいい」


 血の気を失いつつある顔で耳を傾けていた少女は、次の瞬間、覚醒したように眼を見開く。

 土手っ腹に強烈な前蹴りがたたき込まれた京太郎が勢いよく吹き飛び、テーブルに背中をたたきつける。その反動でミチルも床に倒れ込んでしまう。


「この糞女がァッ! いまさら逃げられると思っているのかッ!」

「だれも……逃げたりなんて、しないわよ」


 苦しそうに咳き込むミチルは、大理石にしがみつきながら起き上がる叔父を睨みつけた。


「叔父様はここで死ぬのよ……私と一緒に」

「死にたければ勝手に独りで死ね! 誰が貴様みたいな小娘に殺されるかッ」

「あら、怒りに我を忘れて気づかなかったかしら?」

「気づく……? 何をだ?」

「この部屋、ガソリンまみれなのよ?」


 ハッと息を呑む京太郎は、ようやく部屋の異臭の正体に気がついた。


「貴様……正気か!」

「もちろん正気よ。叔父様とそこに転がっている男を殺せるのなら、私はなんだってするわ」


 姪が本気だと悟った京太郎は、出口を探すように扉に視線を走らせた――そのとき。


「うわぁっ!? な、なんだぁっ!?」


 突然の爆発音とともに室内が大きく揺れると、京太郎はかたむいた体を支えようとテーブルにしがみつく。


「――――」


 京太郎は信じられない光景に声を失っていた。


 室内が、炎に包まれていたのだ。


「……き、貴様なにをしたァッ!」


 恐怖に震える京太郎に、冷笑を浮かべたミチルが淡々と語り出す。


「簡単なことよ。叔父様たちがやって来る前にガソリンを部屋中に撒き、浴槽にガソリンを張っておいたの。そこに火をつけた蝋燭を立てておけば、時間がきたら自動的にガソリンに引火するでしょ? あとはボンッと大爆発。部屋に撒かれたガソリンにも引火するって寸法よ」

「狂ってる……貴様は狂っているぞミチル!?」

「あら、私を狂わせたのは他ならぬあなたじゃない、叔父様。これは私から叔父様へのささやかなプレゼント。復讐の業火よ。罪人を裁くにふさわしい炎だとは思わないかしら?」

「くっ……わかった、わかったからひとまず落ち着け。このままだと本当に二人とも死ぬぞ」

「……叔父様、豚のようにみっともなく鼻を鳴らすのはやめて、素直に罪を受け入れなさい」

「うっ……わかった、謝る。だから――」

「無理よ。もう……何もかも手遅れだもの」


 燃えさかる憎しみの中で対峙する叔父と姪。

 これが彼女――裏道ミチルの思い描いた復讐だったのだろうか。


 罪には死をもって、彼女もまた自らの罪を業火で焼き尽くそうとしていた。



 これが彼女が視ていた物語の結末だったのだろうか。


 だとすれば――ああ、なんと呪われた因果か。

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