第19話
次にエレベーターの扉が開くと、奏多ははるか前方に死神の姿を発見する。
「げっ!?」
奏多の存在に気がついたMr.チェイサーは、迷うことなく黒い鉄の塊を奏多に向けた。
転瞬、雷が落ちたような爆音が鳴り響き、無数の弾丸がエレベーター内に打ち込まれる。
「うわぁああああああああああああああああああああああああっ!?」
絶叫しながら身を隠すように壁に体を押しつけた奏多は、「早く閉まれぇっ!」無我夢中で〝閉〟ボタンを連打する。
やがて耳をつんざく銃声が鳴り止むと、がらんとした建物内に忙しない足音が響き渡る。Mr.チェイサーがエレベーターに向かって突っ込んで来る。
「――――!?」
間一髪、エレベーターは上昇を開始する。
その場にへたれ込んでしまった奏多は、「しっかりしろ!」恐怖を振り払うように震える体を奮い起こす。
適当な階に停まると奏多は外に飛び出し、混乱する頭で何をすべきか必死に考えた。
「武器だ! まずは武器になりそうな物を探さなくちゃ」
幸い、奏多が降りた階は飲食フロアだった。
レストランの厨房に駆け込んだ奏多は、片っ端から戸棚を開けていく。
「……包丁、か」
研ぎ澄まされた刃に目を留めた奏多だったが、果たして喧嘩もろくにしたことのない自分が殺し屋みたいな男に刃物一本で対抗できるのだろうかと思案する。
「勝てるわけがない」
何をどう考えても、返り討ちに遭う未来しか想像できなかった。
挫けそうになる心が膝を折る。自分はここで殺されるかもしれない。そう考えると、情けなくも泣き出してしまいそうになる。
「弱気になるなよ!」
頬をたたいて自分に喝を入れる。
――元はといえば僕が自己満足で能力を使ったのが悪いんだ。
そのせいで裏道さんが人殺しに……。
もしも彼女が人を殺したら、それは半分僕のせいだ。
「還らなきゃ……」
なにがなんでも還って裏道さんを止めるんだ。泣き言なんて言ってる暇はないんだ!
「考えろ……思考を止めるな、考えるんだっ! こういう時アニメや漫画の主人公は、特別な力を持たない彼らはどうしていた!」
――漂白剤……。
思考し続ける奏多は、戸棚の奥に洗剤を発見する。それを見た瞬間、人類が産み出した科学と過ちの歴史が走馬灯のように奏多の脳裏を駆け巡った。同時に閃きが、悪魔の図式が浮かび上がってくる。
NaClO + 2 HCl → Cl2 + H2O + NaCl――
「これしか……ない」
奏多は包丁を捨て、漂白剤を手にとった。そして、ある場所を目指して走りはじめる。
やって来たのは男子トイレ。
「あるはずだ、ここならきっとあれが――」
洗面台の下に設けられたスペースを開けると、「……あった」奏多は戸棚の奥に配水管洗剤と書かれた洗剤を発見する。
「やるしかない」
配水管洗剤を入手した奏多は、次いで掃除用具入れからバケツを拝借すると、非常階段に向かった。
奏多は大きな賭けに出ようとしている。負ければ目も当てられないほど悲惨な末路が彼を待っているだろう。それでも、この窮地を脱するためには、自らの命をチップにベットするしかない。
上着を脱ぎ捨てた奏多はネクタイを緩め、ワイシャツの袖を捲る。それから漂白剤と配水管洗剤を手に取り、二つをバケツの中にぶち込んだ。すると、混ざり合う二つの液体が黄緑色に変化する。漂白剤は次亜塩素酸ナトリウムを含み。排水管洗浄剤には塩酸が含まれている。この二つを混ぜ合わせると、たちまちこんな科学反応が起こる。
NaClO + 2 HCl → Cl2 + H2O + NaCl――塩素ガスである。
塩素ガスはたとえ少量でもあってはならない。第一次世界大戦時、この忌まわしき毒ガスによってどれだけ多くの人が苦しんだことか。塩素ガスは目や喉、鼻の皮膜を傷め、長時間触れていると死に至る危険な代物。
奏多は銀行強盗のようにハンカチで口と鼻を覆い隠すと、可能な限り息を止めた。
Mr.チェイサーが非常階段にやって来るの、今や遅しと待ちわびる。
数分後、心地いいプレーントゥの靴の音が聞こえてくる。階下に目を向ければ、トカレフTT-33を手にした男を発見する。
Mr.チェイサーである。
奏多は小さく呼吸を整えると、覚悟を決めたように踊り場に飛び出した。その手にはバケツが抱えられていた。
「これでも食らえええええええっ!!」
奏多はMr.チェイサーの頭上から塩素ガスをぶちまけた。男のスーツにあっという間に毒薬が染み込んでいく。時間の問題で塩素ガスがMr.チェイサーの息の根を止めるだろう。
「うぅっ……!?」
しかし、それにはある程度の時間が必要だ。
乾いた銃声が鼓膜を突き破ると、奏多の左肩に衝撃が走る。そこから蛇口をひねったように勢いよく血が噴出ると、続けて燃えるような激痛に襲われる。さらに目や喉の痛みも容赦なく襲いかかってきた。
奏多は痛みで頭がどうにかなりそうだった。
Mr.チェイサーは全身に直接毒薬を浴びたことにより、急激に視力が低下。狂ったように躍りながら銃を乱射している。
奏多は最後の力を振りしぼり、飛び交う銃弾のなか、階段を駆け上がった。やっとの思いで次の階にたどり着いた奏多は、ふらつきながらエレベーターに乗り込んだ。
「う゛ぇっ……」
激しいめまいと頭痛にたまらず嘔吐。奏多の意識はいまにも吹き飛んでしまいそうだった。
視界はぼやけ、聴力も嗅覚も失われつつある。なにより息苦しく、とても寒かった。
エレベーターが一階に到着すると、奏多は鉛みたいに重たい体を引きずり、歩いた。
目指すは遥か前方にそびえる雷門。そこまで行くことができたなら、奏多の悪夢も夢・幻のごとく消え去るだろう。
「ま、げぇでぇ……だぁ、まる……がぁ………」
思いとは裏腹に体は思うように前に進まない。転倒しては立ち上がり、一歩、また一歩と出口に向かって手を伸ばす。それは砂漠で蜃気楼を見ているような感覚だった。
それでも、奏多は決してあきらめることはない。
これまでだって、彼の人生は試練の連続だった。それでも奏多は乗り越えてきたのだ。今回だって乗り越えられる。皮肉にも彼にそう思わせていたのは、裏道ミチルだった。
〝あなたなら問題ないわ〟
少なくとも彼女が視ていたとある可能性の天道奏多は、ここでは死ななかったということ。
――裏道さんは、一体どこまで未来を視ていたんだよ。
奏多は途切れそうな意識のなかで思い出していた。抱き合った帰り道、少女が〝助けて〟と囁いた言葉を……。
――裏道さん、君は僕にどうしてほしいんだ。無数の可能性を見てきたならヒントくらい教えてくれてもバチは当たらないだろ。仏じゃないにしても、程があるよ。
あと一歩、足を踏み出せば監視エリアから抜け出せられるところまで来たのだが……。
「まじぃ……が、よぉ」
無傷のMr.チェイサーが、少年の前方で黒い銃を構えている。
「て、めぇ……なん、にん……いやがんだ、よぉ……」
「私はMr.チェイサー。私には特定の魂は存在しない。故に、私は一個体ではない」
機械じみた感情のこもらない声音が、薄れゆく意識の中でこだまする。
「ウイルスの駆除を行う」
「くぞっ……だれぇ………」
バンッ! トカレフTT-33が火花を散らせば、胸のあたり、白いワイシャツにじわりと赤いしみが広がる。喉の奥からは熱いなにかが込み上げてくる。それを勢いよく吐き出した少年が、前のめりに倒れ込む。
既に感覚が麻痺していたため痛みはなかった。
「任務完了」
最後に聞こえてきたのは、やはり感情のない声だった。
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