第12話

「ねぇ、本当に追いかけるの?」


 正面玄関付近の柱に身を隠しながら、建物内を注意深く観察するミチルに、奏多はやめておいた方がいいんじゃないかと警告する。


 しかし、彼女が彼の忠告に耳を傾ける事はない。仕方なく奏多も男を目で追うことにした。


 一面ガラス窓でしきられた建物には従業員らしきボーイが二人立っている。自動扉を抜けた先にはエントランスホールと受付カウンターが確認できた。


 ――なんでアビルの維持にホテルが必要なんだろう? まったく以て意味不明だな。


「天道くんが言っていた男はいるかしら?」

「えー……と、あっ、あの人だよ」


 奏多は忙しない様子でエレベーターを待つ男を指さした。サラリーマン風で痩せ型の男だ。


「……んん?」


 奏多は男のとった行動に不審の眉を寄せる。男は胸の前で左腕に視線を落としたのだ。それは時間を気にするサラリーマンのような仕草だった。


 この世界の住人は時間という概念を持たない、それは先程ミチルに教えられたことだったが、男の仕草は明らかに時間を気にする人のそれだった。


「追うわよ」

「あ、うん」


 男が腕時計で時間を確認していたのかについては、距離が離れていたため断定できない。しかし、やはり奏多には彼女が何かを隠しているとしか思えなかった。それを確かめるためにも、奏多は男を追うことを決めた。


 男がエレベーターに乗り込んだことを確認すると、二人は急いでエレベーターに駆け寄った。回数表示を睨みつけるミチルは「七階よ!」男の乗ったエレベーターが止まった階を見逃さない。そこにタイミングよくもう一台のエレベーターが到着し、ミチルは乗り込むと同時に七階をタップ。『閉』ボタンを連打していた。


「このエレベーター遅いわね!」


 苛立ちを隠せない声音が狭いエレベーター内に木霊する。腕を組みながらトントントン――指の先でエレベーターにまだなのかと文句をつけるミチルの後頭部に、奏多は疑惑の眼差しを向けていた。


「着いたわ!」


 扉が開き終わる前に体をねじ込むようにエレベーターを降りたミチルだったが、すぐに困ったように立ち止まってしまう。エレベーターホールの先はT字路になっており、男がどちらに行ったのかわからなかったのだ。


「天道くんはそっちをお願い」


 ミチルは奏多に右側を調べるよう声をかけ、自身は左側を調べることにした。


「……ったく、人使い荒いんだから」


 愚痴りながらも指示通り、奏多は右側の通路を進みはじめる。廊下には装飾品の花瓶や絵画が飾られており、数メートル感覚で設置された扉には部屋番号が表記されていた。


 もしも男が部屋に入っていたら、見つけることは不可能なんじゃ――そう思った次の瞬間、前方の扉が勢いよく開く。同時に中から黒スーツの男が現れた。突然の出来事にびっくりして立ち止まってしまった奏多の首に、男は手にした電話線を巻き付ける。そのままギュッと力任せに首を締め上げた。


「ぐぅっ!?」


 咄嗟に電話線を引きちぎろうと首を掻きむしりながら暴れ狂う奏多だったが、またたく間に視界の景色が両端から黒に染まっていく。途切れそうになる意識の中「天道くんっ!?」おびえた犬のような悲鳴に似た声が少年の鼓膜を突き抜けた。


 ガシャン!?


 刹那、何かが割れる音が響き渡り、男は短い舌打ちとともに少年を突き飛ばす。そのまま踵を返し逃走を図る。壁に叩きつけられた少年はその場に蹲ってしまう。


「てん…………ん、しっか……して」


 少年には彼女の声音が途切れ途切れ、遠くなったり近くなったりしながら聞こえていた。さらに耳鳴りがひどく、少年には自分の名を必死になって叫ぶ少女の声が歪んでいる。それは暗い海の底に沈んでしまったような感覚だった。薄っすら見えた視界の先には、割れた花瓶の残骸と、少女の真っ白な膝小僧。少年はわずか一時間ほどの間に、二度も生命の危機に遭っていた。全身からは今も漫画みたいな量の汗が止まることなく吹き出している。


 少女はそっと少年の肩を掴み、ゆっくり壁にもたれ掛かるように誘導する。


「天道くん、大丈夫!?」

「はぁ……はぁっ……ぐぅっ」


 徐々に少女の声がはっきりと聞こえはじめる。少年は乱れる呼吸を落ち着かせる間もなく声を出そうとしたのだが、喉に激痛が走ってうまく喋れなかった。


「喋らなくていいから、じっとしてなさい」

「いっ……」


 喉元に手を当てると染みるような痛みに奥歯を噛みしめる。無我夢中で首筋を掻きむしったせいで出血していた。


 なんで自分がこんな目に遭わなければいけないのだと、怒りと恐怖に震えながらも、少年は自分を殺そうとした男の行方を目で追った。しかし、すでに男の姿はどこにもなかった。


「あの男なら非常階段から逃げていったわ。だからもう平気よ」


 少年の無事を確認した少女が安堵したようにその場に座り込む。少女は自分の手が小刻みに震えていることにようやく気がつくと、自嘲するように小さく笑った。


 ジリリリリリリリリィ――


「「――――!?」」


 息つく暇もなく、今度はけたたましいベルの音が鳴り響く。


「今度は何なのよ!」


 状況が分からず左右に首を振る少女。少年はすぐにこれが火災報知器によるものだと理解していた。追っ手を恐れた男が火災報知器を作動させたのだろうと。


 そのことを少女に伝えたかったが、思うように声が出ない。そこにまたしても予想外の事態が発生する。少年たちがいるフロアの扉が突如一斉に開いた。


「嘘でしょ!?」


 そこから現れたのは見覚えのある黒スーツの男。先程彼らを殺そうとした男の手には黒い塊、トカレフTT-33が握られている。


「ど、どうなってるのよ!?」


 それも一人ではない。服装も体格も顔の輪郭さえも、何もかも同じ男が部屋から次々と足並みをそろえて出てくるのだ。悪夢のような光景に、二人は無意識の間に死を思い描いていた。


 ――これは無理だ……!?


 奏多は咄嗟にミチルの腕をつかみ取り――パンドラボックス発動! この場から離脱した。

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