第7話
街灯もまばらな月明かりの下、裏道ミチルは夜風に吹かれながら歩道を歩いていた。
「あの、ご馳走さまでした」
少年は少女の華奢な背中に声をかけた。
「別にお礼なんて言う必要ないわよ。天道くんが食べた和牛ステーキデラックスセット2980円は、私が汗水流して稼いだお金ではないもの」
子供のように歩車道境界ブロックを平均台に見立てて進む彼女の髪が風になびくと、前方を走行する車のヘッドライトがピカッと彼女を照らし出した。
「うっ」
目を眩ませた彼女が反射的に顔を背けると、わずかに傾いた体が宙に浮く。
「危ない!」
奏多は咄嗟に彼女の体を抱きとめた。
突然の出来事だったため、道端で抱き合うカップルみたいになってしまう。
「……」
「……」
少年の体を支えに腕の力だけで上体を反らしたミチルは、無言のまま少年を見つめる。見つめられた少年の心臓のBPMはまたたく間に190になっていた。
彼女の髪が風に踊るたび、甘いラズベリーの薫りが鼻先を掠めていく。嗅ぎなれない女の子の匂いに一瞬少年の意識が遠のいた。
「――――!?」
息を吐き出した彼女の全身から力が抜け落ちていく。
「ちょっ――!?」
覆いかぶさる形で倒れ込んだ彼女が、少年の首に両腕をまわした。
「お願い、私を助けて」
囁かれた声音に、世界の秒針は止まってしまったかのように、少年はその場から動けなくなってしまう。まるで世界がひび割れてしまったように、視界に映るすべてが色褪せて、セピア色に変わっていく。
「ふふっ、冗談よ。天道くんはからかい甲斐があるわね」
腕の中から抜け出した彼女は、悪戯な笑みを浮かべながら肩を揺らした。
少年はからかわれたにも関わらず、怒る気にならなかった。耳元で囁かれた声音が、からかって発せられたものだとは思えなかったのだ。
「……あの」
再び歩きはじめていた彼女の背中に声をかけると、スカートを翻しながらくるりと向き直る。二人の視線が数秒ぶつかり、彼女はいつもの無表情で言う。
「冗談よ」
その声はもうそれ以上聞くなというニュアンスが込められている気がして、奏多は口を閉ざしてしまう。
それから二人は無言で夜道を歩いた。話しかけるタイミングなら何度もあったが、少年はあえて声をかけることはなかった。斜め前を歩く少女の小さな背中と幻想的な夜空を交互に眺めているうちに、気がつくと自宅の門をくぐっていた。
「今日は色々と疲れたわね。先にシャワーを借りてもいいかしら?」
「ああ、構わな…………………………んんっ?」
言いかけて、少年はハッとする。
「なんで裏道さんが僕の家に帰って来るんだよ!? 話が済んだんだから自分の家に帰ってよ! それと鍵、返して!」
居間に置かれた年代物のロッキングチェアに揺られる少女は、この家の主である少年よりも寛いでいる。
「鍵は私が作ったものであって、天道くんのものではないのよ? それと、鈍い天道くんは気付いていないようだけど、二階にある天道くんの部屋。その向かいの部屋にすでに私の荷物が置かれているわ。つまり、天道くんは今日から美少女とひとつ屋根の下で生活ができるということよ。クラスの男子が聞いたら羨ましがること間違いなしの展開ね」
「なに言ってんだよ!?」
「あら、そこは目尻を吊り上げるのではなくて垂れ下げるところよ。天道くんのリアクションは一般的なものではないわね」
「うるさい!」
彼女の御託を一刀両断した奏多は「そこを動くなよ!」ミチルに人差し指を突きつけた。
「いいか、絶対に動くんじゃないぞ!」
くれぐれも家の中を勝手に歩き回らないよう言い残し、奏多は急いで二階に向かった。
「なんだよこれ!?」
元々祖父と二人暮らしだったこの家には空き部屋がいくつかあったのだが、その一部屋が段ボールで埋め尽くされていた。さらに部屋を見渡した奏多は妙な違和感を覚えている。積み重なった段ボールの上に置かれたカレンダーには、六月十五日月曜日――今日の日付に印が付けられていた。
「なんで?」
疑問に思った奏多だったが、それよりも目の前の現実に唖然としてしまう。
「一体いつの間にこんなに運び込んだんだよ」
そこで奏多は本日彼女が二時限目から授業をさぼっていた事を思い出す。
――授業さぼって人の家に荷物を運んだってか!? ふざけるなよ!
「非常識な奴だとは思っていたけど、これはいくらなんでも度が過ぎてる」
猛スピードで階段を駆け下りた奏多は直接文句を言ってやろうと居間に駆け込んだのだが、
「いない!?」
すでに彼女の姿はどこにもなかった。
「動くなって言ったのにっ!」
あれほど忠告したにも関わらず、彼女は気ままな猫のように忽然と消えてしまった。
頭を抱え込んでしまった少年の元に――ピーンポーン! チャイムの音が鳴り響く。
「こんなときに誰だよ」
そう思ったのも束の間。
「かなく~ん! ママが煮物作ったからお裾分け持ってきたよぉ〜」
聞きなれた声音が突風のように室内を駆け抜けると、奏多はスッと息を止めていた。
「まずい……!?」
声の主は幼馴染みの綾瀬千春。
一人暮らしの男子高校生が夜遅くにクラスメイトの女の子を自宅に連れ込んでいるなんてことが知られてしまえば、幼馴染の女の子はどのように思うのだろう。
――ちーちゃんに知られたら何を言われるかわかったもんじゃない!?
考えただけで奏多の額からは滝のような汗が流れ落ちた。
「上がるよ~」
「待ってぇえええええっ!?」
勢いよく廊下に飛び出した奏多は、体のあちこちを壁にぶつけながら、まるで壊れたピンボールのように千春の元へと駆けつけた。
「どうしたのかなくん、すっごく息上がってるよぉ?」
ぜぇぜぇと肩で息をする奏多を、幼馴染は不可解な面持ちで見つめていた。
「筋トレ……してて」
奏多はとっさに嘘をついた。
「えへへ。やっぱりかなくんも男の子なんだね」
Tシャツ短パンとラフな装いの千春が後生大事そうにタッパーを抱えている。奏多はすぐにお裾分けの品を受け取り千春を返そうとしたのだが、彼女は家に上がる気でいるらしい。
「――――」
そうはさせるかと立ちはだかった奏多をじっと見つめる彼女の頭上には、巨大な疑問符が浮かび上がっていた。
「……どうしたのぉ?」
「散らかってるから」
「昨日は一日中掃除してたから家中ピカピカだって昼休みに言ってたよねぇ?」
「言ってないよ。全然、これっぽっちも、一言もそんなことは断じて言ってないよ!」
「えぇ〜、かなくん言ってたよぉ~。それに散らかっててもあたし気にしないよぉ?」
「僕が気にするよ!」
「あっ、分かったぁ! かなくんも男の子だもんねぇ~。たまにはエッチな本を読みふけるのかな〜?」
にたにた笑う千春はひどい勘違いをしている――が、この際エロ本を読んでいたと思われた方が奏多的にはマシだったので「そうなんだ」と彼は笑って誤魔化すことにした。
「そっか。ならこれだけ渡しとくね。お芋とか大根を煮たものだから、食べるときはお皿に移して、しっかり温めてくださ~い」
「そうするよ。いつも悪いな」
「いいよ~、そんなの」
煮物が入ったタッパーを引ったくるように奪い取った奏多は、さぁ早く帰ってくださいという意味を込めてにっこり微笑んだ。
「なんか今日のかなくん変だよぉ?」
鋭い幼馴染みの指摘にギクッと肩が跳ねてしまう。
「そんなことないよ。あっ、ほら、本の続きが早く読みたくてさ」
「やだぁー、かなくんのエッチ~」
――痛っ!?
なぜか嬉しそうに赤面した千春がバシバシと奏多の肩を叩いていた。
一向に帰る気配のない千春に、おばさんやおじさんが心配するからもう帰った方がいいんじゃないかと、奏多はそれとなく帰るように促した。
「大丈夫だよ。かなくんのところって知ってるし」
「いやでも……ほら、夜道はなにかと物騒だしさ」
「家、すぐそこだよぉ?」
そうだったと頭を抱えそうになる奏多。千春の自宅は奏多の家から徒歩三分の距離。夜道が危険だという言い回しは却って不信感を抱かせる結果になってしまう。
「そういえばさっきやってたドッキリ番組観た? あれ可笑しかったよねぇ~」
――あかん。これはちーちゃんお得意のどうでもいい世間話の流れだ。これが始まると平気で小一時間は付き合わされるんだよな。
困り顔の少年と話し込む気満々の少女。
少女が框に腰を下ろそうと前屈みになったその時、「ちーちゃん!」全力で彼女の名を叫ぶ少年。間一髪座り込みを阻止することに成功した。
「なに~?」
「そ……そろそろ寝ようかと思って」
「……まだ二○時だよ? それにかなくんさっきエッチな本読みたいって言ってたよねぇ?」
「まぁ、そうなんだけどさ」
「ねぇ、かなくん何かあたしに隠してる? なんか今日のかなくんすっごく変だよ?」
「ない! なにも隠してないよ! 僕とちーちゃんの間に隠し事なんて一切ないよ!」
そうだよねと笑った千春だったが、その直後、彼女の表情がみるみる変わり始める。
そして、あっという間に凍りついてしまった。
「どうかしたの?」
奏多が尋ねても千春はどこか一点を見つめたまま動かない。奇妙に思った奏多が千春の視線をなぞるように振り返ると。
「あっ……」
千春の視線の先にはミチルがいた。
それも裸にバスタオルを巻いただけのあられもない姿のミチルである。
「なっ、ななななんちゅう恰好してるんだよお前っ!?」
「仕方ないじゃない。脱衣所に着替えを持っていくのを忘れてしまったんだから」
「そ、そそそそういう問題じゃないだろ!?」
「あら、天道くんは私に全裸で家の中を徘徊しろと言いたいわけ? それは鬼畜というものよ、天道くん」
非常識かつ大胆で無防備な彼女にドギマギしながらも、奏多は早く服を着ろと怒鳴りつけた。まもなく、背後から凄まじい冷気、寒気を感じていた。
「かなくん、どういうことか説明してくれるかな?」
地獄の底から響き渡ってくるような声音に緊張から喉が鳴り、奏多は錆びついて壊れかけたロボットのように振り返った。眼前には悪鬼羅刹のような幼馴染がいた。
「あ・が・る・か・ら・ね!」
にこっと微笑んだ千春がドスーン! 怪獣映画さながらに廊下を突き進む。そんな彼女を誰が止められただろうか。少なくとも少年には無理だった。
「裏道さんは早く服を着てよ! かなくんがいるんだから!」
「余計なお世話というものよ。それに、綾瀬さんに言われなくても服くらい着るわよ。痴女や変態じゃないんだから」
「痴女や変態みたいな恰好をしてるのは誰よ!」
鉢合わせた二人が廊下で火花を撒き散らす。その光景に恐れおののく少年は、ガタガタと震えながら頭を抱え込んでいた。
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